2364 件掲載中 月間賞発表 毎月10日
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

「異質な他者」と手をつなぐ祝祭

蓮沼執太フィル『日比谷、時が奏でる』とあいまいな夏の野音

人は自分と異なるモノやコトを避けるらしい。自分と全く同じなんてありえないし、他者は簡単に理解できないからだ。心当たりなら十分にある。学校のクラスでの1軍、2軍というヒエラルキー表現や「最近の若者は〜」なんていう世代間の諫言だってそう。政治的思想の違うもの同士が分断を煽るのはもはや日常となり、最近は隣国との揉めごとも目立っている。ぼくらは無意識のうちに境界を引くことで安心してしまうのだ。それが良い悪いということではなく、そういうものらしい。そんなことをぼんやり考えていた折、蓮沼執太フィルのライブを観た。蓮沼執太フィルは異質な他者やノイズ、あるいは不確実さを嫌わない。むしろそれらを敬い、境界をあいまいにして何事もないかのように受け入れた上で、表現の輪郭を拡張できるバンドだ。『日比谷、時が奏でる』はその真骨頂とも言えるライブだった。

Tシャツが体にへばりつくような暑さが残る8月25日、蓮沼執太フィル『日比谷、時が奏でる』は日比谷野外音楽堂にて開催された。入場時に手渡されるプログラムには、二部構成のセットリストとゲストが丁寧に記されている。第一部は総勢26名の蓮沼執太フルフィルにゲストを加えたパフォーマンス、第二部は蓮沼執太フィルとしてのステージだ。オープニングアクトにはLicaxxx。入場時にライブの全貌を明らかにした上で、観客の心地よい揺れを誘うDJをオープニングに持ってくるあたり、本編前から余裕のあるやわらかな佇まいを感じさせる。

第一部の一人目のゲストには、アーティストの平山昌尚。蓮沼にVJを依頼されたという平山は、3人のスタッフを引き連れて登場。それぞれが持っている計4枚の大きなダンボールには、楽器や音符、スマイルが描かれている。平山率いるVJチームは “Meeting Place” の演奏に乗せてダンボールを左右に揺らす。VJという言葉に似合わずアナログで、不思議な表現だ。しかしそのユーモアに、会場の力が抜けていくのが手に取るようにわかる。次第にバンドメンバーもスマイルが描かれた紙を持ち、ほがらかに左右に揺らす。VJとは何か、バンドとは何か。それぞれの立場や役割の解釈をあいまいにした上で、和やかな空間をつくるステージング。楽しみ方に決まった型はないと、演者自ら心をほぐすように自由さを示したようにも見えた。

続いて登場したのは中村佳穂。彼女の歌、あるいは語りもまた自在だ。「日比谷野音は出演するのも、来るのも初めて」と話した彼女は、自らも参加した蓮沼執太の楽曲 “CHANCE” を歌唱。透き通るような歌声は、はじめましての日比谷の緑と共鳴し、残暑の会場をのびのびとめぐる。そして曲後半の、魂を響かせるようなポエトリー・リーディングで、彼女はクッと観客席を見つめ「夏が終わる」とつぶやいた。季節のうつろいはあいまいだから、たとえば夏の終わりを感じたタイミングは記憶に残っていたりする。6年前の10代限定フェスで観たフィッシュライフは今でも鮮明に刻まれているし、2年前には相対性理論、昨年はH ZETTRIOがこの会場で、夏を終えるきっかけをくれた。それらの記憶をフラッシュバックさせた中村佳穂の言葉は、ノスタルジーにひたる間もなく唐突で残酷で、それでいて多幸感の入り口のようにも感じられた。

まだまだゲストが続く。KAKATO(環ROY × 鎮座 DOPENESS)、砂原良徳、JAZZ DOMMUNISTERS(菊地成孔 & 大谷能生)、原田郁子と錚々たるメンツが名を連ねる。テクノからヒップホップ、ポップスまで、ひとつのバンドが多様なゲストを迎え、「蓮沼執太フィル」というアートフォームの中で個性とやさしく融合し、明快な音楽に昇華する。ゲストがアメーバに飛び込み、新たな音楽生物と化すかのような。変形したり、変色したりしながら、しなやかに26名プラスαの可能性を最大限に鳴らすのだ。

ゲストとの調和の素晴らしさに加え、ライブを観ながら気づいたことがある。普段であればノイズと感じるようなセミの声やヘリコプターの音も全く不快に感じないのだ。むしろ彼らが奏でる音楽の一部として「音楽の中」に聴こえる。不思議な感覚だが、パトカーのサイレンや子どもの泣き声も拍手もすべてしなやかに取り込んで、『日比谷、時が奏でる』は響いていた。蓮沼執太フィルが音楽を奏でる上で共演しているのは、ステージに立つゲストだけではない。野音の魅力でもある、不確実で多様な環境とも調和していた。

考えてみると、蓮沼執太フィルの楽曲には自然や環境にふれるものが多い。特に「光」「空」「宇宙」は曲のモチーフとして使われることもある。

“Hello Everything” では 《 まぶしい朝日 カーテンの隙間から光 / 窓あけて 外の空気 流れ込んで 見つけた近くの木 》と、地球が回っている限り訪れる日常の眩い情景にふれ、それを何と言うこともなく音に乗せる。“ANTHROPOCENE intro” は彼らの活動を語る上で重要な楽曲のひとつだが、“anthropocene”(人新世)は「人間の時代」を意味する。詳細の説明は省くが、産業革命以降の人間活動が地球の生態系を崩していることを指摘し、「文化 vs 自然」の文脈でもよく使われる言葉だ。

今回『日比谷、時が奏でる』を肌で感じて、蓮沼執太が “anthropocene” を曲名に用いたことに合点がいった。彼は人間と自然、自分と他者のあいだに生まれがちな対立の構図を崩し、境界をあいまいにしようとしているのだ。音楽と雑音は融け合い、この場限りの偶発的なメロディは響く。高層ビルの灯りは照明にもなれば、休日に残業する誰かの物語の序章にもなる。そして音に乗った言葉は観客の記憶をめぐり、さらに情景を重ねながら音楽を拡張する。さまざまな他者や偶然との調和によって「いま」しか鳴らない音楽を響かせるのだ。さながらここにあるすべてを肯定し、祝福するように。

音楽と関係ないように見えるいろいろな環境と手をつないでみたとき、奇跡的に心地よい調和は生まれる。自然に限らず「異質な他者」を好物とする蓮沼執太フィルが真価を見せるには、日比谷野外音楽堂はこの上なく相応しい会場だったのだろう。

蓮沼執太は、パンフレットにてこう語っている。

“人それぞれ、違った聴き方で演奏を楽しむことで、“音楽”は広がっていきます。ぼくらが奏でる音楽で耳を開いて、さらにその奥にある日比谷公園の音や声にも耳を傾けてもらえたら嬉しいです。(中略)今夜、二度とない音楽が日比谷野音に響きます。真夏の夜の野音を楽しみましょう。 ”

勝手に雑音だと思っていたセミの声も、ジャンルが違うと思っていたテクノDJも、すべて共生できる味方だ。あいまいな境界、不確実であることの魅力、個人が紡いできた物語とのつながり、自然との調和。このあいまいで自由な祝祭は、不確実で複雑な現代社会から希望を見つけながらほがらかに生きぬくさまを、そんなふうに示してくれた。この日の記憶も「夏の終わりの日比谷野音」を語るとき、ぼくの物語として思い出すのだろう。会場に響く虫の声が鈴虫に変わる頃、Tシャツの汗も乾ききっていた。

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい