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口数の減った小出祐介

Base Ball Bear、「いまは僕の目を見て」の歌詞について

もうこれ以上ないところまで高まったと思える何かが、身体を満たすことがあると思います。

表すために適切な言葉をつかめたら、少しは楽になれると思い、必死に手探りをするのですが、大抵はむなしい空振りに終わってしまいます。

それはたくさんのものからできているようで、しかもそれぞれがどのくらいの割合で入っているかも全然わからないからです。

そんなもどかしさなどは露ほども知らない、得体のしれないそれは、アルコールの作用にも似た熱を発生させて身体中を駆け巡り、やがて破裂して身外に流れ去るのです。

怒声や涙は、それが流れ去る時にとる形の一つなのかもしれません。

だからこそ、その何かを表す言葉をつかめたときの感動もひとしおです。

さらにその言葉が他人に理解され、共感を呼ぶようなことがあれば、空でも飛べそうな高揚感を得られることもあります。

この感動が、私たちが言葉を使うことをやめない大きい理由の一つであると思います。

小出祐介はそんな、私たちが他者と言葉を用いてコミュニケーションをすることの苦しみと喜びを、巧みな比喩で語ってくれます。
 

「言葉は穴のあいた 軽い砂袋さ
君まで届ける前に かなりこぼれてしまう
中身をこぼさぬように 隣に座ったら
いつもよりも多く 手渡せる気がした」

「 心と心つなぐ ケーブルがあるなら
この悩みはなくなって ただ、歓びも失せてく」
 

彼がつむいだ言葉の連なりに、安堵した人は多いと思います。
私ももちろんその一人です。

自分では上手く言葉にできなかったもやもやの、その答えを受け取った安心感は、当たるとうわさの占い師がもたらしてくれるものと同じなのでしょうか。

行ったことがないので分かりませんが、彼の巧みな比喩には、言葉によるコミュニケーションの難しさとよろこびについて、明確なイメージを与えてくれる力があります。

ところが、彼は巧みな比喩を披露するだけでは終わらないのです。
 

「君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら
なんて思われるだろう 臆病になってしまう
きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない」
 

一聴すると、君に対する切ない気持ちを歌っているように思われるこの文章。

しかし、「喩えられるようなものじゃない」のは、「君にあげたいもの」だけではなく、「言葉」そのものだと彼はこの歌詞で言っているように思うのです。

「たとえる」という言葉を使う時、私たちは基本的にひらがなを用いるか、漢字をつかうとしても、「例」という言葉をあてがうと思います。

一方で、彼は用いた漢字は「喩」、比喩という言葉に使われるものです。

なぜ彼はあえてなじみのない「喩」という漢字を用いたか。

それは、曲中の比喩表現と、「喩えられるようなものじゃない」という歌詞のつながりを持たせるためだったと私は思います。

そうすることによって、「言葉」と「言葉によるコミュニケーション」について描いた自分自身の言語表現すらも、何かを完璧に伝え得るものではないという自戒のようなことを彼は歌ってもいるのです。

ともすれば、Base Ball Bearらしいサウンド、歌詞と評価されそうなこの曲に、自らの比喩表現も含めた、言語にまつわるエトセトラの不完全性を提示するような「仕掛け」を置く。

そこに、例えば「スクランブル」という楽曲で表現された、彼の「分かりやすさ」に逃げない姿勢を読み取ることができると思います。

「悪い人がプレゼントを抱え家路を急いでる
善い人がはみ出した下心で電話をしてるよ
少女は甘いものと光りもの想像して歩く
少年は小動物と星空を胸に駆けてく
まじわる光と影
僕は真ん中を行って
かさなる光と影
その向こうにある普通を感じたい」
 

以上のようなことを考えたあとで、私には一つの疑問が残りました。
 

「きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない
胸の奥で渦巻いた ありったけの気持ちをすべて」
 

彼はこの曲で、君にあげたいありったけの気持ちがあり、それを言葉を用いて表現することはできないのだ、ということを歌っているのだと思いましたが、それをどうしたら伝えられるかについて、明確に言ってはいません。

下記のような歌詞を眺めることに留まると、目で語る、身体を寄せ合うというような、身体性のあるコミュニケーションで伝えられるのではないかと考えているとも言えます。
 

「中身をこぼさぬように 隣に座ったら
いつもよりも多く 手渡せる気がした」

「これまで生きてきたこと 僕を形作ってきたことも
わからなくたっていいから いまは僕の目を見て 」
 

これだけでも、そこそこ耳通りがいい話にはなると思うのですが、より掘り下げて考えるための鍵は、目の前、というより耳の前にあるように思われます。

私はそれを、もう少し遠いとこから見つけたのですが。
 

『頭の中を録画する機材があるなら 
広がる景色も上映できるだろう
だけどそれじゃつまらないから
伝えられる言葉とメロディー探してる』

『「愛してる」「さよなら」じゃなく
自分の心の 一切合切 全部全体
伝えたいから 歌ってるんだ Baby.』
 

もうリリースが9年も前になる「歌ってるんだBaby. [1+1=new1 ver.]」という曲で彼は、自分の気持ちを伝える「言葉」と「メロディー」を探していると言っています。

自分のありったけを伝えるために、言葉だけでなく、音も探していると言っているのです。

「いまは僕の目を見て」の歌詞でも言っている通り、言葉は何かを伝える手段としては限界があるものです。

そして、その限界を補うものとして、彼は音、すなわち音楽も使いたいといっているのだと思います。

例えばかき鳴らされる轟音のギター、身体の奥に響くドラムの音や、管弦楽器のアンサンブルが奏でるハーモニーから、気持ちの高ぶりを感じた人は多くいると思います。

ただ、その高揚感の正体が何なのか、うまく説明できる人はいないのです。

言葉以外から受け取った何かを、言葉で表現するのは、不可能に近いと思われます。

しかし、このことは、言葉で伝えられない何かは、言葉以外のものを用いれば伝えられるかもしれないということと同義です。

つまり、「いまは僕の目を見て」で鳴っているギター、ドラム、ベース、これらの音の組み合わせこそが、ありったけの気持ちを伝える手段の一つになりえると、彼は言葉にせずとも発信しているのではないでしょうか。

彼はもう、手応えばかりを求めて、言葉を重ね続けることはしないのだと思います。

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