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ナゴヤドームで見た「伝説」

2019年9月22日 BUMP OF CHICKEN tour 2019 『aurora ark』

 
 
伝説とは「事実として、人々が言い伝える話」である。
 
 

色んなアーティストのライブに何度も行っている。
人は、大袈裟だと笑うかもしれない。
でも、ごくまれに、紛れもなく、
「これが伝説だ」と言い切れる一生忘れられない場面を目の当たりにすることがある。
 
 
 

BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark
2019年9月22日、日曜日、ナゴヤドーム公演に行った。

9月11日の京セラドーム大阪公演に行き、
「あの頃の気持ち」を掻き立てられてしまった私は
どうしても「我慢」ができなかったらしい。
強欲にも2週間後のチケットを最終リセールにて手に入れてしまった。

当然、夫には罵られた。
「同じ人のライブに2週間おきに行くのか。正気か。」
当然のリアクションだ。
もう単独で生きているのではない。結婚するということは、赤の他人と生活を共にするということは、きっとこういうことなのだ。結婚するという選択をしたのは自分なのだ。その責任は自分で取らないといけない。

ちなみに私は夫に対して「1年の内に何度も何度も勝手に一人でのこのこライブに行く妻の趣味を理解し優しく見送ってくれる夫」を求めてはいない。なのでこの件に関して悲しみも苦しみもつらさも特にない。人にこの件を話すと「えっ!旦那さん厳しいね~。」と言われるだろうか。決して言われない。人にこの件を話して返ってくるリアクションは「そりゃそうだろ。さすがに行き過ぎだろ。」というものだ。これが、音楽にすがらないと生きていけない人間の成れの果てだ。ライブがあると「明日死ぬかもしれない。自分も、アーティストも、全員元気に生きている今の内に行かないと。」と本気で思ってしまっている人間の成れの果てだ。

夫と結婚した理由は「ライブに行く私を温かく見送ってくれるから」ではないからこれでいい。理由は別の所にある。だからこれでいい。ただ、ここは会社なのかというくらい、ひたすらに、笑えるくらいに、大袈裟に頭を下げ続け「大変申し訳ございません!でも!申し訳ないですが行かせていただきます!帰ってきたら存分に滅私奉公させていただきます!この先1カ月家の事は全て私が遂行させていただきます!あなたは仕事から帰ってきたら飯を食い風呂に入り寝るだけでいい!それ以外は何もしなくていい!いや、何もしないでください!だから!行かせていただきます!申し訳ございません!」と相手が根負けして呆れ果てるまで同じことをしつこくしつこく言い続けるだけだ。ちなみに、私と夫との間に主従関係は決してないので安心してほしい。むしろ、普段は私の方が夫を尻に敷いているということを主張したい。私がここまで平身低頭するのは「ライブに行くことを報告する時だけ」だ。

大袈裟な演技でどうにか夫を根負けさせ、いい加減この値段はどうにか下がらないものなのかと乗るたびに毎回思う高額の運賃を支払い新幹線に乗り、名古屋へ向かった。でも支払う金額なんて関係ない。この先には、お金では決して買えないプライスレスな体験が、経験が、思い出が待っていることを私は知っている。

会場には開演直前に入る。一人なので早めに入ったところで暇を持て余すだけだ。席は幸運にも1塁側のスタンドだった。京セラでは3塁側のスタンドだったので、全く真逆の方向から眺めることができる。ラッキーだ。席に着くと、隣の方もお一人で来ているらしい様子が伺えた。基本的に、迷惑な話だとは思うのだが、一人でライブに行く時に隣の席の方も一人であれば必ず自分から話しかけるようにしている。今まで何回そんなことをしてきただろう。ただ一つ言えるのは、幸運にも「楽しく話ができなかったことがない」ということだ。そもそも「一人でもライブに行ってしまう」ような者同士が、楽しく話ができない訳がないのだ。その方とは10分も喋っていなかったがその10分の内に「ライブこそが生きがい」「この瞬間のために生きている」「音楽のために働いている」という所まで話を突き詰めてしまった。素敵な方だった。こんな素敵な方の隣でライブをみられる私はどこまでも幸運だ。

ライブが始まった。私にとって2回目のaurora arkだ。同じツアーの1回目と2回目というのは、まさしく天と地、月とスッポン、あんぱんと肉まん、ハンバーグとエビフライくらい違う。1回目のライブが「感情」だとしたら2回目のライブは「意識」。何も知らないゼロの状態から全ての音と景色を注ぎ込まれる1回目のライブというのは、その大量に注ぎ込まれる音と景色に心が溺れそうになる。心が溺れて、溢れて、流れ出したものが止まらない。しかし2回目は違う。いい意味で、意識を保ったまま冷静に目の前の光景を見ることができる。前回との間隔が2週間しかあいていないのならなおさらだ。1回目のライブは、目に見える光景と耳に入ってくる音を「感情」で処理する。2回目のライブは、目に見える光景と耳に入ってくる音を「意識」で処理する。そんな感覚だ。

バンプのツアーは「日替わり曲」が多い。2daysの1日目と2日目のセトリはそれなりに違う。京セラは1日目だったのでナゴヤドームは2日目を選んだ。京セラでは聴かなかった曲が聴ける。素晴らしいお得感だ。そしてまた、このように日替わり曲をしたりアンコールの曲を柔軟に変えることができる理由は「BUMP OF CHICKEN は4人で演奏しているから」ということに他ならない。20年以上、4人で歩んできた結果がそうさせている。こんなに有難く素晴らしいことはない。「やっぱり今日は2日目に来て正解だったな。」そんなことを考えながら本編が終わった。

ナゴヤドームのあちこちでそれぞれに合唱が始まる。たった1つのフレーズを永遠に繰り返す合唱。歌っている人もいれば、歌っていない人もいて、この合唱が素晴らしいと思っている人もいれば、この合唱に違和感を覚えている人もいるのだろう。3万何千人が一つの気持ちになることは決してできない。そんなことは不可能だ。でもそれでいい。こんな時は「今日この日、3万何千人に同時にBUMP OF CHICKEN の曲が届いている」という事実だけでもう十分素敵なことじゃないか、なんて思ってみたりもする。

もう一度ステージが照らされ、メンバーが出てくる。
演奏する準備が整い、一音目が鳴らされる。
 
 

《もう》
 
 

《もう》で始まるバンプの曲は、数曲ある。
でも、この音の《もう》で始まる曲は、あの1曲しかない。

その《もう》を聴いた瞬間、それまでは「意識」で処理できていたはずの脳の動きが完全に「感情」にスイッチングされたのがわかった。

中2の頃、
14歳だったあの頃、
自分の部屋の青色のコンポで聴いていたあの曲。
銀色のMDプレーヤーと黒いイヤホンで聴いていたあの曲。
CD欲しさのあまり恥を捨てて14歳にしてサンタさん制度を復活させてまで手に入れた真っ白な空に浮かぶ方舟が描かれているあのジャケットのアルバムに入っているあの曲。
 
 

一生、CD音源でしか聴くことはなかったはずの曲。
 
 

全ての思考回路が停止した。耳から音は聴こえてくるが、もう何も考えられない。人は、予想さえもしていなかったことが起こると本当に思考が停止するのだと実感した。たった数秒前まで、私の中で、この曲は、一生、CD音源でしか聴くことはないはずだったのに、今なぜか目の前で演奏され耳から入ってきているのはその曲だ。今自分が14歳なのか28歳なのかもわからなくなった。今自分がいるのが、実家の自分の部屋なのか、ナゴヤドームなのかもわからなくなった。夢と現実の挟間のような世界に一瞬で連れていかれてしまった。ただ、聴くことしかできない。考えることはできない。「ただ、聴くことしかできない」ような経験をたった今している。これだ。これこそがライブだ。
 
 

今この感情は絶対にここにしかないと思える瞬間を味わうこと。
それこそが「ライブ」だ。
 
 

アンコールの2曲目が始まった。これも京セラでは聴けなかった曲。体中の細胞がフル動員されるのを感じた。そうだ、いつだってこの曲が、バンプのテーマソングだ。帰ってこられる場所があるから迷いながらも前に進めるのだとしたら、この曲こそがバンプにとっての「それ」なのだ。いつだって帰ってこられる場所がある。バンプにとって「それ」はきっとこの曲だ。いつもより長く、観客たちは歌を唄った。《皆は唄いだす ガラスの眼を持つ猫を思い出して 空を見上げて ガラスのブルースを》まさにこの歌詞のとおりだった。私も唄った。もう何年もまともにフルで聴いていないような曲なのに、記憶というのは不思議なもので、一字一句間違えず歌詞がすらすらと出てくる自分に自分で驚いた。どうしてこうも、思春期というある一定の期間の記憶というのは永遠に残り続けてしまうのか。夢のような時間だった。こんなに素晴らしい合唱はきっとこの世のどこにもないと思えるくらい、幸せな合唱だった。皮肉にも、この日のこの曲で藤くんは歌詞をこう変えて歌った。

《僕の歌は忘れていいよ
 でもひとつだけ忘れないで
 君が挙げたその手を》

困ったものだ。忘れていいよと言われても、ずっと聴いていなくても、私は君の歌を忘れられるわけがないのだから。

そして藤くんの最後のMCが始まる。いつも、この最後のMCはライブごとに内容が違っていてそしてものすごく長いのだが、この日のMCをざっくり要約するとこうだ。
 

「君がつらい時、物理的に僕は君の部屋にいることはできない。
 でも、君がつらい時、僕が作った曲は君の側にいます。」
 
 

全てを言い放った後、藤くんは言った。
 
 
 
 

「もう一曲、やっていいかな。」
 
 
 
 

今まで色んなアーティストの色んなライブに行ったが、ここまで会場の空気が一変したことがあっただろうか。観客が、本当に本心からどよめいていたことがあっただろうか。もう、このままライブは終わると全員が思っていたのだ。人は、予想さえもしていなかったことが起こると本当に思考が停止するのだと、また実感してしまった。右も左も前も後ろも、会場の全員が同じように「衝撃」を受けていた。
 

藤くんが振り向いて、ドラムセットの前に立て掛けてあったギターを片手で持ち上げた。
 

私はきっと、
この時の光景を、
藤くんが振り向いて片手でギターを持ち上げた瞬間を、
その背中を、
一生忘れることがないだろう。
 

「ああ、伝説だな。」と素直に思った。
この時の光景は、間違いなく「事実として、人々が言い伝える話」になり得ると思った。
何度もライブに行っていると、たまに見てしまうのだ。
こういう、「伝説」を。

前からも後ろからも右からも左からも、ただならぬ雰囲気を感じた。別に誰とも会話は交わしていないのに、その場にいる全員が「今、大変なことが起きているよ。」という事実を心と心で共有しているように思えた。本当に、会場全体がただならぬ雰囲気に包まれていた。
 

また、今この感情は絶対にここにしかないと思える瞬間を味わってしまった。
これこそが「ライブ」だ。
 

最後の曲が終わり、予想外の曲の追加により最終の新幹線の時間が迫っていた私は、隣の方にこう言って席を立った。
 

「最高でしたね!じゃあ、またどこかでお会いしましょう!」
 

きっともう二度と会うことはないと分かっていながらも、交わしてしまうこの挨拶。不思議だ。いつもライブでおひとりさま同士仲良くなった後の別れの挨拶は「またどこかでお会いしましょう!」なのだ。絶対にもう二度と会うことはないはずなのに、会うことはないとわかっているのに、なんでこんなことを言ってしまうのか、わからない。

でも、きっと、最後に演奏された曲も、そんなことを言っているんだと思う。

「またどこかでお会いしましょう!」なんて、底抜けに明るくて、希望に満ち溢れていて、でも叶うことのない願いを、持ち続けてしまう。やっぱり、生きていくのに必要なのは「希望」だな、なんてことを思わされる。

最寄り駅に向けて足早に歩きながら、頭の中ではずっと最後に聴いたあの曲が流れていた。
 

《僕の場所は ここなんだ
 おじいさんになったって 僕の場所は変わんない
 これから先 ひとりきりでも
 うん、大丈夫
 みんなはここで 見守っていて》
 

どんなに月日が経っても、年を重ねても、私があの頃バンプを好きだったことは変わらないままだ。他のアーティストが好きだと言っても、結局私の場所は「BUMP OF CHICKEN 」なんだと思う。またそれに気づかされてしまった。もういい大人なので、バンプの曲に助けられることもあの頃よりは少なくはなってきているけど、きっとバンプの曲がいつでもひっそり見守ってくれているからここまでなんとかえっちらおっちらと生きてこれたのかもしれない。

誰かが言っていた。人間は、生まれる時も、死ぬ時も、一人だと。

《ひとりぼっちは怖くない》

何度もそのフレーズを繰り返しながら、駅に向かい足早に歩く。
今の私の周りには色んな人がいてくれるけど、結局最後はひとりぼっちだ。
でも、ひとりぼっちは怖くない。
「希望」があるから、ひとりぼっちは怖くないのだ。

もう、私は今回のツアーに行く予定はない。
さすがに、今日で私のaurora arkはおしまいだ。
 
 
 

またどこかでお会いしましょう!BUMP OF CHICKEN
 
 
 

※《》内の歌詞はBUMP OF CHICKEN 「ガラスのブルース」「同じドアをくぐれたら」「バイバイサンキュー」より引用

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