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Mr.Childrenは熟成肉で、ウカスカジーはユッケだ。

「変わっていける」ことこそが「彼ら」の最大の魅力である

2019年9月29日、豊洲PIT。
 

会場の照明が落ち、観客の歓声があがる。
と同時に、物凄い勢いで前へ前へと体が押し流される。
元いた場所でも十分すぎるくらいステージに近いと思っていた。
会場に入った瞬間に一目散に左側に向かった。
そうしてせっかく確保した位置から流れに流される。
自分の体に全方向から圧を受け、流れに身を任せるのみ。
 

満員電車が「すし詰め」だとしたらこれは「川流れ」だ。
決して詰まることはない。どこまでも流れていく。川の流れのように。
既に人々は限界まで間隔を詰めて場所を取っていたはずなのに、
一体どこにこんなにスペースが余っていたのか。
自分の意思とは関係なく体は面白いくらいにどんどん流されていく。
人間は結局、どこまでも嘘つきでどこまでも正直な動物だ。
「もう詰められません!」なんて言いながら、本当は詰められる。
その人が出てくるとなれば、勝手に本能が呼び起こされてしまう。
所詮、最後に人間を突き動かすのは本能だ。
悲しいくらい、人間はただの動物だ。
そして、「限界」なんて嘘だなとこんなことで思い知る。
「ここが限界です」なんて言える場所は、きっと本当の限界ではない。
 

流れが止まった。
どうやら今日の私の位置はここらしい。
流れに身を任せるのと小さなカバンを守るのに必死で下ばかり見ていた。
 

ようやく決まった今日の自分の位置から、上を見上げた。
 
 
 

近い。
 
 
 

またこれだ。やってしまった。もう分かる。これは初めてではない、2回目だから分かるのだ。またこの距離であの人を見てしまう。1回目と2回目というのは天と地ほど差がある。0から1までの距離と、1から2までの距離は数学的には同じ「1」という距離に思えるがこの2つの「1」の距離は何もかもが違うものなのだ。人間対人間と認識できるこの距離。人間対人間として全てが見えてしまうこの距離。頭の先からつま先まで何もかも見えてしまうこの距離。あの時と違うとすれば、今日はスタンディングなので目の前の人々の頭であの人の足元はきっと見えないであろう。訂正しよう。つま先は見えない。どんな靴を履いているかは見えない。でもきっと全てが見える。見られる権利を今日も得てしまった。もうだめだ。帰りたい。帰りたくはない。でも帰りたい。帰りたくて仕方がない。でも絶対に帰りたくない。またこんな場所から見てしまったらまた私はどうなってしまうのだろうか。ちゃんと新幹線に乗って家まで帰れるのだろうか。ちゃんと何食わぬ顔でデスクに座り仕事ができるのだろうか。今後の自分の身を案じてしまうくらい近かった。
 

もうここからは始まる瞬間にどんなBGMが流れていただとかどんな照明だったとかそもそもバンドの面々はどのタイミングで出てきていたんだだとか一切記憶に残っていないのだが気づいたらその人は私の目の前にいた。
 

《We are not afraid》
 

「私たちは何も恐れない」という意味の第一声が聴こえた。1人の声ではない。2人の声だ。誰の声でもない、桜井和寿とGAKU-MCのそれぞれの声が合わさった2人の声。桜井和寿1人の声とはまた違う「力」がそこにはあった。桜井和寿もGAKU-MCも1970年生まれで、現在49歳と48歳。「GAKU」と「SAKU」を並べて「GAKUSAKU」これを逆から読むと「ウカスカジー」。2人が音楽で出会ったのか、共通の趣味であるサッカーで出会ったのかどちらが先なのかはただの一般人である私には知る由もない。ただ、桜井和寿は以前ラジオで笑いながらこのようなことを言っていた。
 

「炎天下でサッカーをした後にそういうこと(病気)になってしまって、
 それからみんなが気をつかって誰も僕をサッカーに誘ってくれなくなった。
 でもその時、唯一サッカーに誘ってくれたのがガクだった。」
 

「あちら」の4人の間に揺るぎのない「何か」があるのと同じように、きっと「こちら」の2人の間にも揺るぎのない「何か」がある。その「何か」は、楽しいことや幸せなことだけを共有して生まれるものではない。辛くて、苦しくて、何もかもが嫌で、絶望的で、もう逃げ出したい、全てをやめて全てを終わらせてしまいたい、そんな時を共に過ごし共に乗り越えてきたからこそ生まれる「何か」なのだ。そして、人と人との間にそんな大切な「何か」があるということは、私たちの手の届かない世界で輝き続ける芸能人であれど、私たち一般人であれど同じことなのだ。彼らと私たちの住む世界はどこまでも違うが、一人の人間として、他の一人の人間との間に大切な「何か」があることだけは同じだと思える。むしろ、私達の想像を絶するような過酷な世界を生きてきた人達だからこそその「何か」がとても大切なのだ。だから、音楽を通してステージの上の彼らがその「何か」に触れる時、私達はその同じ「何か」を通して彼らに共感し、心を動かされるのかもしれない。
 

御年49歳と48歳の男性2人がその「何か」をそのままストレートにぶつけてくるライブ、それが「ウカスカジー」のライブだった。
 

《We are not afraid oh oh
 ブルってんじゃねぇの?
 冗談じゃない!
 We are not afraid oh oh oh oh
 This is 武者震いだ
 We are not afraid oh oh
 やめたっていいぞ!
 逃げたりしない
 We are not afraid oh oh oh oh
 我こそが冒険者
 We are not afraid》
 

《We are not afraid oh oh
 びびってんじゃねぇの?!
 冗談じゃない!
 We are not afraid oh oh oh oh
 力みすぎただけ
 We are not afraid oh oh
 ギブったっていいぞ
 上等だ
 We are not afraid oh oh oh oh
 絶対に降参しない
 We are not afraid》
 

《We are not afraid oh oh
 ミスったっていいんだ
 何回でも
 We are not afraid oh oh oh oh
 永遠のチャレンジャー
 We are not afraid oh oh
 恐れずに行くんだ
 ひとりきりじゃない
 We are not afraid oh oh oh oh
 世界中がチームメイトだ
 We are not afraid》
 

《We are not afraid oh oh
 立ち上がるんだ
 何回でも
 We are not afraid oh oh oh oh
 絶対に降参しない
 We are not afraid oh oh
 支え合っていくんだ
 ひとりきりじゃない
 We are not afraid oh oh oh oh
 私達はチームメイトだ
 We are not afraid》
 

上記は「We are not afraid」の全てのサビの歌詞だ。GAKU-MCと桜井和寿が交互にワンフレーズずつ歌うこのサビがまるで会話のようで、私はとても好きだ。そしてこれがきっと御年49歳と48歳の男性である彼らの「今の素直な気持ち」に限りなく近いのだと思う。桜井和寿はこのようなどこまでもストレートな言葉をMr.Childrenとして歌えるだろうか。きっと歌わないし、歌えないであろう。この日の桜井和寿のMCでの言葉を借りて言えば、「あちらではイメージがある」のだから。しかし、「あちら」でアルバム総売上枚数3000万枚という記録を打ち立て、間違いなく国民的トップアーティストとして君臨しもう富も地位も名誉も名声も全て手に入れてしまっているのでは?と思ってしまうようなバンドのボーカルの方がここでは《我こそが冒険者》《永遠のチャレンジャー》と堂々と言ってしまっているのだ。そんなことを言われてしまっては、もはや誰も敵うわけがない。現状に満足して今の立ち位置に甘んじることなく、過去の栄光にすがることもなく、ただ時代の変化を受け入れ時代と共に柔軟に形を変えてきた。実るほど頭を垂れる稲穂かな、という言葉があるが、まさにその言葉を体現している人だと思った。やめたくても逃げず、時に武者震いを起こし、時に力みすぎ、何回こけても立ち上がり、絶対に降参せず、いろんな「チームメイト」と支え合ってきたから今がある。「チームメイト」とは、身内、友達、知り合い、スタッフ、仕事関係の人、そして自分たちの音楽が届いているリスナー。要は、彼らとの間に「何か」を生み出してきた全ての人のことを指しているのだと思える。
 

ありのままの49歳と48歳の男性が、ありのままにストレートに音楽を生み出し、観客と一体になり音楽を楽しむ。「イメージ」などそこには何もない。
 

私は今28歳だが、桜井和寿は28歳の時どうやら「終わりなき旅」をリリースしていたらしい。「終わりなき旅」がリリースされた頃というのは、「あちら」でまさに《やめたっていいぞ!》という囁きに対して《逃げたりしない》と呼応し立ち上がった時期とも言える。
 

そしてその約20年後、まさか49歳になって自分がステージの上でパンダやトラの着ぐるみと一緒になって手を縦や横に振り、右に一歩左に二歩動き、三歩後ずさりしてから四股を踏んでみたり、風邪でゴホゴホしたと思ったらお次はロボットのような動きをしてみたり、最終的に六歩で元に戻り「モウイチドッ!!」と本当にこの人は「あちら」でお仕事をされている方なのだろうかと疑ってしまうくらいのどこかのおふざけアニメキャラクターのようなすっとんきょうな声を出して歌を歌っているという未来を想像していただろうか。1997年6月のJAPANのインタビューで「死にたい」と言っていた彼は、決して想像してはいなかっただろう。もしもタイムマシンがあるなら、1997年6月に戻って彼に言ってあげたい。「大丈夫ですよ。今はつらいかもしれないし、こんなこと言われてもにわかには信じられないとは思いますけど、あなたは20年後、ステージの上でトラの着ぐるみとパンダの着ぐるみとラッパーとお笑い芸人とダンサーとバンドメンバーに囲まれて楽しそうに満面の笑みで歌って踊って四股を踏んで『うたのおにいさん』状態になってますから安心してください。」と。
 

いつだって、この世界は「Tomorrow never knows」だ。
明日何が起こるのかは、この世界の誰も知らない。
想像もしていないことが起こることこそが人生だ。
ただ、そんな中で一つだけ確実なことがあるとすれば、
明日が来ることが繰り返される以上《時代は変わる》ということだ。
 

そんなことを伝えるように、本編ラストの曲は「時代」だった。
 

《変わらずにいることなど 誰にだってできはしないよ
 時代は変わる だからこそ今
 肩の力を抜いて 明日の方を向いて
 ねえ 笑って》
 

《変わらずにいることなど 誰にも望めはしないよ
 時代は変わる だからこそ今
 肩の力を抜いて 明日の方を向いて》
 

《移り変わる景色を その瞳で見てごらんよ
 時代は変わり 流れ続ける
 しがみつく僕らに 「ここまでおいでよ」と
 呼ぶように》
 

自分たちに対しては「逃げない」「降参しない」「恐れない」などどこまでも強くメッセージを突き付けているのに、他人に対しては決して「変わっていこう」「変わらないといけない」のように勧誘や強制もしないのがまたどこまでも彼ららしい。「今」しか歌えない曲だと思った。桜井和寿は27年、GAKU-MCも20年、2019年9月29日の今日この日まで必死で音楽活動を続けてきた道のりの中で見てきた景色と、それぞれが音楽とは別のただ一人の人間として生きてきた人生の道のりの中で見てきた景色が、全てこの曲のメロディと歌詞に投影されていると思った。
 

桜井和寿はこの日、MCでこのような趣旨のことを言った。
 

『時代は変わっていく。
 古いものはなくなり、新しいものが生まれる。
 でもそれを拒むのではなく、受け入れて、とり入れて、
 よりよく変わっていきたい。 
 変わっていける、僕らでありたい。』
 

結局、伝え方の種類が違うだけで、桜井和寿は桜井和寿だった。
 
 

『変わっていける、僕らでありたい。』
 
 

そんなことを「あちら」でもいろんな曲で表現して伝えてくれている。
 
 

《胸に抱え込んだ迷いが プラスの力に変わるように
 いつも今日だって僕らは動いてる》
 

《何度へましたっていいさ
 起死回生で毎日がレボリューション》
 

《誰かが予想しとくべきだった展開
 ほら一気に加速してゆく
 ステレオタイプ ただ僕ら 新しい物に飲み込まれてゆく
 一切合切捨て去ったらどうだい?
 裸の自分で挑んでく
 ヒューマンライフ より良い暮らし 
 そこにはきっとあるような気もする》
 

《そう何度でも 何度でも
 僕は生まれ変わって行ける》
 

《変わらないことがあるとすれば
 皆 変わってくってことじゃないかな?》
 

「変化」というテーマに対してパッと思いついた歌詞をリリース順に並べてみた。ここでは「とある出来事」というのが何であるかは割愛させていただくが、「とある出来事」があってから、桜井和寿は突如「変化」についてフォーカスし始めた気がしてならない。
 

迷っても、失敗しても、新しいものに飲み込まれても、変わっていくことができるという希望から、
さえない現実を夢みたいに塗り替えて、変えていくんだ、きっとできるんだという自信に変化し、
最終的に「変わらないことがあるとすれば 皆変わっていくということ」という一種の悟りのようなものに辿り着いた。
「変化」という一つの事象に対する、希望、自信、悟り。
私はまだ20代であり、30代や40代になったことはないので分からないが、20代30代40代と年を重ねていくことは、こんな風に一つの事象に対する捉え方が変わっていくことなのかもしれないと思わされる。
 

そして何より、いつだって変わりながら進む姿を見せてくれていたのは、桜井和寿とMr.Childrenそのものだ。
 

《きっと答えは一つじゃない》、《総てはそう 僕の捕らえ方次第だ》、そうして「ひとつ」に執着することなく、いつでも自由な余白を持って進んできた。
 

Mr.Childrenの表現に「一貫したメッセージ」などあるだろうか。きっとない。「変わっていける」ことこそが彼らの最大の魅力であり強みなのかもしれない。Mr.Childrenの表現も、ウカスカジーの表現も、どちらも目の当たりにすることで、そう気づかされた。
 
 
 

GAKU-MCは言った。
「ウカスカジーは『伝える』ことを大事にしている。」と。
 

「伝えたいこと」を何かで包み熟成させ姿を変えて伝えるのも表現で、
「伝えたいこと」を新鮮なまま何の手も加えず伝えるのも、また表現だ。
 

恥ずかしながら、ウカスカジーを知るまでは「ラップ」はただダボダボの服を着てキャップを斜めに被り首からジャラジャラと鎖をぶら下げた兄ちゃんがマイクを斜め上に向けて韻を踏みながら歌うだけのものだと思っていた。
しかし、ウカスカジーの表現を目の当たりにしたことで分かった。
 

「ラップは、伝えたいことを新鮮なまま伝えてくれる表現なんだ」と。
 
 

例えるなら
「あちら」は熟成肉で、
「こちら」はユッケ。
 

熟成されているか、生のままかの違いしかなく
そのどちらも「お肉」として美味しいことには変わりない。
 

作るのに時間がかかり遠回しでちょっとオシャレな盛り付けがされて丁寧にナイフとフォークでカットしてゆっくりと口に運びじっくりと噛み締めないと味わいが分かりづらい熟成肉を食べる気分になれない時もある。
そんな時は、ごま油とニンニクと調味料と生肉を混ぜ生卵を絡めるだけで完成するユッケのスピーディーな直球の旨味に心躍らせればいい。なんだかんだ言って、油とニンニクと肉だけで「美味しい」は作れる。
 

全てが終わり、会場を出て外の空気を吸った時、
3時間のスタンディングのライブで疲れ果てていてもおかしくないはずなのに
自分がものすごく元気でパワーに充ち溢れているのを感じた。
 

それはきっと、最上級のユッケから、
どこまでもスピーディーで直球なパワーを頂いたお陰なのだろう。
 

誰かの頑張る姿を見ることが、自分のモチベーションになることがある。
自分と年齢が21歳も違って、もう既にこの世の全てを掴んでいるように思えるような人が、それでもなお貪欲にひたむきに何かを追い続ける姿を見せられたら、自分も頑張る以外の選択肢がないじゃないか。
ずるい、本当にずるい。勘弁してほしい。50歳を目前にして、あんなにかっこいい姿を見せつけてきて、どこまでもずるいおじさん達だ。
 
 

どうやら私は、また何食わぬ顔でデスクに座って、頑張れる。
 
 
 

※《》内の歌詞はウカスカジー「We are not afraid」「時代」
 Mr.Children「終わりなき旅」「I’LL BE」「蘇生」「進化論」「Any」「CENTER OF UNIVERSE」より引用

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