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稲穂が揺れた瞬間

Mr.Childrenが数え上げる希望

旧知の友人から連絡が届くことが増えた。自分からコンタクトを取ることも多くなった。
あの3.11.の時にさえ、連絡を取り合わなかった人たちと、久々に言葉を交わした、そんな2019年だった(まだ終わってないですけど)。あの恐ろしい年を、彼ら、彼女らが、どんな思いで過ごしたか、いちいち聞き出したわけではないから分からない。限られた時間で語り合うべきことが他にあり、地震のことを話題にすることは、互いに好まなかった。でも、そうして再会でき、あるいはメールやLINEでつながることができ、話し合うことができたのは、お互いに生きのびたがゆえの結果である。

そういうわけで、ごく個人的な動機で、まったくタイムリーなトピックではないけれど、Mr.Childrenが「かぞえうた」を発表し、演奏した頃のことを思い返してみたいと思う。震災の記憶を胸に刻み直すのは、なにも3月11日という「記念日」に限らなくてもいいのではないかと考える。自己弁護のように聞こえてしまうだろうけど。

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その時、僕は所用のために、ひとりで軽自動車を走らせていた。不意に車体が左右に振られ、パンクでもしたかもしれないなと、小さく溜め息をついた。うららかな初春の日だった。太陽がフロントガラスを照らしていた。それから数時間後、職場に戻ると、同僚たちは青ざめた顔で、テレビに映し出される惨状を見ていた。悪夢のような、なにかの冗談じゃないかと思われるほどの「絶望」が中継されていた。

震源地から遠く離れた僕らの街でも、交通機能のマヒが起こっていた。幸い僕の家は、徒歩でも帰れる場所にあったのだけど、何となく職場を離れられないでいた。すると上司に、帰れないでいるスタッフのために、食べものや飲みものを買ってくるようにと促された。出がけに、同僚の女性に、何が食べたいかを訊ねてみた。普段は親しく言葉を交わさないような相手だ。彼女は「個人的には甘いパンが食べたいです」と答えてくれた。それは彼女の個人的な欲求であり、同時に最大公約数的な、適切な提案だったように思う。これから起こりうる二次災害を恐れながら、身を寄せ合って心を落ち着けるのに、糖質は不可欠なものだった。

正直なところ僕にとって、数万人の安否など、どうでもいいことだった。どうでもいいといっては偽悪的に過ぎるかもしれない。ただ僕は、新米の医師として仙台で働き、気仙沼に妻子を持っている友人のことだけを考えていた。はたして彼は無事なのか、そしてそれ以上に、彼の愛する(彼が家族を心から愛していることは折に触れて聞かされていた)家族が生きているのか、そのことばかりが気にかかった。職場の事務室で、一緒にパンをかじる同僚たちも、恐らくは同じようなことを考えていたのではないかと思う。誰にでも「とにかく無事であってほしい1人」がいて、それ以外の多数のことなど、あまり考えられなかったのが正直なところではないか。僕たちはそういう、エゴのような優しさのような、何とも言いがたい感情を抱いて、祈るようにテレビを見つめていた。

やがて友人から「妻子とも無事」とのメールが届いた瞬間、もう他に何も望むまいと思った。時が過ぎるにつれ、僕が「望むもの」はあらためて、際限なく増えていく(もとに戻っていく)ことになるのだが、あの夜に束の間、いだくことができた「奇跡的な無欲」のようなものを、ずっと忘れたくはないと思っている。

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その後、被災した人たちのために、僕がとった行動は、恐らくは偽善的なものだったと思う。たとえば(Mr.Childrenが佳曲「ロードムービー」の題材にした)オートバイに乗ることをやめた。建前は「省エネルギー」であり、自分が汗を流して自転車で通勤することが、日本の復興につながる可能性を考えてはいた。でも正直なところ、その頃の僕にとって、バイクに乗ることは「そろそろ手放してもいい趣味」になりつつあったのだ。省エネルギーと言えば聞こえはいいが、要するに何かしら「善行」と見なされるようなことをしたかっただけのことである。
チャリティーグッズの類を積極的に買うよう努めたけど、それとて純粋な善意からの消費活動だったかは怪しい。たとえば、僕が2枚も買った井上雄彦氏のデザインしたシャツは、単に商品として魅力的で、恐らく僕は、その売上金が東北に届かなかったとしても、喜んで購入していたのではないかと思う。もちろん、それは井上氏が「こういう時だからこそ」のプロ意識をみなぎらせて、素晴らしい絵を描いてくれた結果ではあるわけだけど。

だいぶ前置きが長くなってしまった。
そういう自己満足の日々に届いたのが、Mr.Childrenが復興支援を願って「かぞえうた」という新曲を書きおろすという情報だった。少年時代からMr.Childrenが大好きだった僕にとって、その音源を(お金を払って)ダウンロードすることは、ごく自然なことだった。ただ、作詞作曲を務めた桜井氏は、その曲を世に出すにあたって、かなり葛藤したようである。桜井氏はインタビューで、次のようなことを語っていた(以下、僕自身の言葉に置き換えています)。

こういう時に、多くの人が傷つき苦しんでいる時に、意図的に「感動させること」を目標に曲を作ることは、はたして正しいことなのか?

その「迷っている自分を見せる行為」さえも、アンチにとっては演技的な、もっと言えば偽善的なものに映ったかもしれない。でも僕は、きっと誰もが「他人の無事を祈りたいピュアな部分」と「善行を施す自分に酔いたいエゴイスティックな部分」を、併せ持っているのではないかと思う。だからこそ僕らリスナーは、いつもより厳しい目で、Mr.Childrenの新譜を見なければならなかった。そこに誠意はあるのか、ポップソングとして純粋に評価できるものが提示されるのか、聴き手である自分の心は本当に揺り動かされるのか、しっかりと見定めなければならなかった。

「かぞえうた」は淡々と奏でられる曲だった。そっと語りかけるように桜井氏は歌い、アレンジも地味というか、ごく控え目なものであるように感じられた。激情や熱のようなものを求めていた僕にとっては、期待外れといったら大げさだけど、肩すかしを食らったような感覚をもたらす曲だった。僕は「かぞえうた」が、傷ついた人たちの心を癒やすことより、自分を楽しませてくれることを期待していたわけである。まさにエゴだ。
桜井氏の「激情」が放たれたのは、演奏が、いわゆる「大サビ」に入った時だった。桜井氏は、か弱くも強く生きようとする被災者を、あるいは日本中の、世界中のリスナーたちを《風に揺れる稲穂》に喩えた。それほど多くの文学作品や歌曲を鑑賞しているわけではない僕には、その比喩が革新的なものなのか、あるいは凡庸なものなのかを、判断することなどできない。それでも、桜井氏が絞り出すような声で歌う「稲穂」という響きは、心に突き刺さってきた。Mr.Childrenは偽善者ではなかった。

それでも「かぞえうた」が、Mr.Children史上の「傑作」としてカウントされるかと問われれば、その時の(聴いた瞬間の)僕の答えは「否」だった。Mr.Childrenの楽曲群には、もっと素晴らしい曲がいくらでもあると思った。桜井氏は地震が列島を襲う前から、まるでそれを予期していたかのように、避けようのない不運に見舞われる人たちを励ましつづけている。あるいは慰めつづけている。

たとえばヒット曲「掌」で、桜井氏は《ひとつにならなくていい》と歌っている。それこそが、震災直後の混乱する人々が受け止めるべきメッセージなのではなかっただろうか。「がんばろうニッポン」というスローガンが広まり、「心をひとつに」という大目標が、いつしか掲げられていた。良くも悪くも、日本は熱していた。しかし我々は今、ひとつになる必要があるのだろうか? そう僕は不遜にも思った。
たとえば僕は(震災直後を成人男子として過ごす人間は)努めて「静かであろう」としていた。できるかぎり黙っていようと思っていた。溢れかえる情報に踊らされ、絶え間なく届く凶報に心を乱され、平常心を失ってはいけない。何かをしようと息巻くのではなく、むしろ冷たいくらいに、自分の習慣と持ち場を守ろう。騒ぎ立てること、いちいち心を痛めること、神経を尖らせることは、今は無意味だと思った。自分の本分ではないと考えていた。
しかし、すぐに気付かされたのだが、それは決して、唯一の正解ではなかった。「騒ぎ立て」「心を乱され」「神経を尖らせる」人も、ある意味では必要だったのだ。いや、必要であるとか、不必要であるとか、そういう次元の話ではなく、どちらも存在することが自然だったのである。僕が(あるいは日本国民が)本当に心がけるべきだったのは、そういう「感受性の違い」を、互いに認め合うことに他ならなかった。
ある人は、あえてクールを装おうとする。ある人は、努めて「ことの重大さ」を強調しようとする。その、どちらもが、その人にとって「自然なこと」であり、同時に「努力を要すること」ことである。大切なのは、どちらかの態度を相手に強いることではなく、認め合い、労り合うことなのだ。
《ひとつにならなくていい》という桜井氏の呼びかけは、風潮に逆行するものであったけど、今こそ思い出そうとすべきことなのではないかと、僕は個人的に考えていた。

窮地を生きのびよう、なんとか耐え抜こうと歯を食いしばる人たちに、桜井氏が「用意しておいた」歌詞は、例を挙げればキリがない。たとえば「擬態」の終盤で歌われる《水平線の彼方に希望は浮かんでる》というフレーズ。津波に襲われた人にとって、海は憎らしく凶暴なものに思えていたに違いない。絶望の象徴ですらあったかもしれない。暴力的な波を再び叩きつけてくるかもしれない「水平線」を、かすかな希望をもって見つめることを、「擬態」は静かに勧めているように聞こえる。あるいは、それは僕が直接の被害者でないからいだける、牧歌的な解釈かもしれない。それでも、この詞に救われた人が何人かはいるのではないかと、僕は想像する。もちろん「希望」を示唆するのは歌詞だけでない。桜井氏が《希望は浮かんでる》と歌うと同時に鳴る、最後のサビに向けて駆けあがっていくような伴奏には、間違いなくエールが込められている。

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多くの専門家の努力が実り、日本は復興へと向かい始めた。その後ろで、多くの一般市民(庶民)が「自分には大それたことはできない」と自覚し、あえて参加を控えたことは、成功談として語り継がれるべきことだと思う。「自分の身さえ守れないのなら、軽はずみにボランティアなどすべきでない、最前線に行くべきでない」という謙虚な意識が、いまやスタンダードになった。これまでにボランティア活動に従事した人、携わった人たちが、苦い経験さえも包み隠さず、シェアしようとした結果と言えるだろう。

しかし「庶民」が何もできないわけではない。何もしてこなかったわけではない。被災地の小さな商店が、次々に営業を再開し、住む場所さえ失った人が、再就職を目指して奔走した。それらは復興を目指した、間接的な尽力だった。地表に満ちる微細な傷を、ひとつひとつ着実に覆う行為だった。極端に言えば、いつもの生活を維持すること、つまり「特別なことは何もしない」ことさえ、日本経済を支える意味で、被災地に届いていたと思う。僕たちは微力な庶民であり、同時に、かけがえのない個人だった。「庶民」という言葉をシニカルなものにとらえる人もいるだろうけど、それに彩りを与え、むしろ褒め言葉であるように思わせてくれたのも、Mr.Childrenの果たした大きな仕事のひとつだと思う。

夏が来て、僕は前出の、仙台に住む友人(医師)に会いに行った。彼は外科医ではないので、たとえば瓦礫に傷つけられた人を(緊急手術などで)直接的に救っていたわけではない。それでも彼がしていたことは、間違いなく日本を支えていた。プライバシーの問題があるので、あまり詳しくは書けないのだけど、彼は故あって、いわゆる「単身赴任」をしていた。先にも述べたように、妻子は気仙沼に暮らしており、彼は必死にお金を送っていたわけだ。だからというわけではないのかもしれないけど、医師という「稼げる」仕事に就きながらも、彼の暮らしぶりは質素だった。時々、送ってくれるメールの文面から、それは何となく伝わってきた。仙台と気仙沼を結ぶ線路は、ズタズタに引き裂かれ、近くにあるはずの彼と妻子は、遠く隔てられていた。寂しいに違いない。僕と会うことが励ましになるかは分からなかったけれど、僕は乏しい稼ぎのなかから、新幹線代を捻出した。だいぶ前のことなので詳しくは思い出せないけど、JRが東北への旅を推奨していた時期で、たしか往復一万円くらいで切符を買うことができた。先輩が「被災地を訪れることも支援のひとつ」と言っており、僕の考えも、大体そういうようなものだった。東北に暮らす大事な友人を喜ばせたいと思った。もっとも、僕はそれ以上に、自分が彼に会いたい、喜ばせてもらいたいというエゴを抱えてもいたのだけど。

友人は医師らしくない、安っぽい服に身を包み、仙台駅の改札で待っていてくれた。はじめて歩く仙台の街は、どこも傷ついていないように見えた。壊れた建物は見つからなかった。それでも恐らくは、人びとの心には、深い傷が刻まれているに違いない。そんなことを考えながら、僕は彼と寄り添って歩いた。「意外とね、みんな忘れちゃっているものなんだよ。地震のこと。モロに被害を受けた人以外は」そんなことを彼は語った。「もちろん俺の家族も不自由はしたけどさ、何日か水道が止まったりはしたみたいだけど、でも元気に暮らしているみたいだよ」

それが本音だったのか、あるいは僕を心配させないための発言だったのかは、今に至ってもハッキリとは分からない。それでも彼が「みんな」のことや、妻子のことしか語らないことからは、つまり一人称の語りをしないことからは、切なさのようなものを読み取るのが妥当だったのではないだろうか。僕は彼と奥さんが、結婚式を挙げた時のことを思い出した。僕は気の合うバンド仲間と伴に、二人の幸福な前途を願い、Mr.Childrenの「Simple」を捧げていた。拙い演奏であったと思うのだけど、新婦のお父様が「本当にありがとう」と言って下さったことを覚えている。いま彼は、その歌詞にあるように《寂しい曲も 哀しい曲も》伴侶と奏でようと努めているだけなのだ。音を奏でていること、つまり尊い医療行為に従事していることは事実だとしても、寂しく哀しくあることもまた、否定できないはずだった。不便を強いられる被災地で、子育てに追われる奥さんも、それは同じだったのではないかと思う。1人では奏でられない音を、遠く離れた夫と伴に、懸命に奏でていたわけだ。

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不謹慎かもしれないけれど、その晩、僕らは、かなり豪華な食事をした。せっかく来てくれたのだからと、彼は仙台名物の牛タンをおごってくれた。分厚いタンを味わいながら、滋味のある一品料理を口にしながら、そして麦飯を頬張りながら、僕らが語り合ったことが、「かぞえうた」にあるような、希望を数え上げるような内容だったかは思い出せない。それでも夜の改札で「またね」と言い交わした後で、彼から届いたメールには「力をもらえた」という一文があった。僕が何を「かぞえられた」のかは分からない。何を彼に与えられたのかは分からない。それでも仙台まで、東京からはるか遠くまで旅したことには、少しなりとも意味があったわけだ。それを僕は嬉しく思った。

新幹線は、あまり速くは進まなかった。そして僕は、座席を確保することができなかった。連結部分の床に、仕方なく腰をおろして、色々なことを考えた。彼と会えてよかった、でも物足りなかった、もっと長く話をできたらよかった。たしか、そんなことを考えていたように思う。そして日本がどうなっていくのか、自分がどうあるべきなのかを、少しは考えたかもしれない。長くつづく乗車時間に、色々な考えがとりとめなく浮かび、そして消えた。アイポッドでも持っていけば良かったかもしれない。Mr.Childrenの曲を聴いていれば、時間は早く過ぎたかもしれない。でも、持ってこなかったものは仕方ない。僕はぼんやりと、何かを考えている自分を、あるがままに受け入れていた。

稲穂が揺れたのは、その時だった。暗い車窓の向こうに、どこまでも広がる田園で、無数の稲穂が風に揺れた。それを目にしたわけではない。ただ感じたのだ。恐らく新幹線は、市街地を通り抜けているところだったのではないかと思う。だから、それは錯覚であり、愚かな妄想であり、まがいものの「希望」だったかもしれない。でも僕は聴いたのだ、その穏やかなざわめきを。稲穂は群れとして大きく揺れ、そして、一本ごとに根を持っていた。それらは「ひとつ」であり、同時に「ひとりひとり」でもあった。Mr.Childrenが「かぞえうた」に込めたメッセージが、遅れて届いた瞬間だった。「稲穂」という響きが、あらためて心に刺さった。そう、僕らが弱いことは確かだ。でも僕らは稲穂でもある。ごく弱い風にさえ揺らされてしまうけれど、揺れることで「生」を表すこともできる。まだ数えていないものがある。きっと希望は探し出せる。Mr.Childrenが歌うように、それは特別な場所にではなく、足もとに見つかったりもするはずだ。

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それから数年が過ぎて、日本全土から震災のダメージが(ほとんど)消えてなくなったころ、友人の奥さんから、気仙沼の名物だというお菓子が届いた。添えられたメッセージカードには、たった一言「ありがとう。」とだけ書かれていた。それは僕が受け取ったなかで、最もシンプルな手紙であり、もしかすると一番、嬉しい手紙であったかもしれない。
この世界がシンプルだと言うつもりはない。猥雑で騒がしく、危険に満ちた世知辛い毎日を、きっと誰もが過ごしている。それでも奥さんは、式で僕らが歌い、願ったように、Simpleなものを追い求めて生きつづけてくれたのだ。逆境にあっても。彼女もまた、かけがえのない稲穂だと感じる。そして、その子どもたちも、未来を担う子どもたちも、紛れもない稲穂なのだと思う。その子らの目に映る水平線が、いつも希望を宿していることを、僕は強く願っている。気仙沼が、もっと言うなら日本中が、二度と絶望に包まれないように。そんなことを思いながら、今日もMr.Childrenの曲を聴く。

※《》内はMr.Children「かぞえうた」「掌」「擬態」の歌詞より引用

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