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その心が折れてしまう前に

ももいろクローバーZが命を縮めて放った問い

《働こう 働こう その人は輝くだろう》

ももいろクローバーZの放つ、そんなメッセージは、果たして「正しい」ものだろうか? 働くことによって万人が輝くというのは、つまらない固定観念ではないか? たとえば薄給で汚れながら働くことは、ふっくらとした心から肉片を削ぎ落とすような行為なのではないか?

だれか一緒に考えてはくれませんか。

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高校一年生の時、初めてアルバイトをした時、社員がポツリとこぼした言葉に恐怖した。今の僕より、いくつか若い人だったと思うが、彼はこう言ったのだ。「もっと勉強しておけばなあ、こんな仕事に就かなくて済んだかもなあ」

もちろん職業に貴賤はない。そのアルバイト先は、いわゆる「きつい・汚い・危険」の職場ではあったけど、誇り高く働いている社員だって(かなり少なくはあったけれど)たしかにいた。間違いなくいた。だから僕が恐れたのは「そういう仕事に就くこと」ではなかった。「そういう発言をする大人になってしまうこと」だった。

本当に「職業に貴賤はない」のかは、論じはじめると長くなるので、ここでは問題にしない。また、いま僕が担っている社会的な役割が、賤しいものであるかどうかも、卑怯なようだが語らないことにする。
ただ、世界中で今日を生きる人たちの(ほとんど)全てが、重い足で仕事場に向かっていることは、動かしようのない事実だと思う。それは「勉強して夢を叶えた人」にさえ当てはまることのようだ。実際、僕に「ももいろクローバーZ」の魅力を力説してくれた旧友は、四ケタを優にこえる稼ぎを得ながら、そして学生時代に黄金の日々を過ごしたことを認めながら、しがみつくような思いで「ももクロ」を聴いているそうだ。そうすることによって、どうにかこうにか、今日まで職責を果たしてきたそうである。

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この佳曲「労働讃歌」を産んだのは、大槻ケンヂとIan Partonである。そして、それを僕らに届けたのは、偉大なるパフォーマーである、ももいろクローバーZの面々である。代表して誰を称えたいのか、あるいは非難したいのか、よく分からないまま書き始めている自分がいる。そう、僕は「佳曲」という表現を使ったが、これが本当に素晴らしい曲なのかは、文章を書き終えてみるまで、恐らく分からないだろうと思う。

「労働讃歌」は物々しい前奏から始まる。僕は「企業戦士」という言葉が大嫌いだが、まさに戦士を敵陣へ送り出すかのような、軍歌のような、ブラスを中心にした分厚いイントロが、リスナーに叩きつけられる。そして、ももいろクローバーZが声を揃えて《1、2、3、4!》とカウントする。ライブでは当然、数万人が声を合わせるわけだ。《全員で叫べば勝てるかもしれない》という期待を込めて、一斉にこぶしをつきあげる。狂気と言ったら大げさかもしれないが、少なくとも(たとえば)うつ病を患っている人などは、絶対に聴かないほうがいい曲だと思う。そのライブ会場は、間違っても居合わせてはいけない場所だと思う。

大槻氏は《ドンペリ開けてるセレブ》を輪から追い出そうとしているようだが、前述した通り、高給取りがふんぞり返っているとは限らない。少なくとも一例、僕は「苦しい勝ち組」とでも呼ぶべきポジションに立つ人を挙げられるわけだから。だから取りあえず、完全に心が折れている人以外は、そして何の苦痛もなく日々を過ごしている人以外は、輪に加わっていいのではないかと考える。とてつもなく大きな輪ができそうである。

大槻氏は、なかなか結論のようなものを書かない。ももいろクローバーZは大きく体を動かしながら、全身全霊で歌いながら、答えを届けようとするより、むしろ問いを放とうとする。《何のために、人は働くの?》と自問し、《誰かが絶対に 喜んでくれるじゃない?》と(むしろ聴き手にすがるように)クエスチョンマークを投げかけてくる。こういう歌を少女に届けさせるのは、もしかすると残酷なことなのではないかと考えてしまう。幼くありながら、すでに「働いている」ももいろクローバーZにとって、これらは「自分たちが放つべき問いかけ」ではなくて「誰かから授けてもらうメッセージ」なのではないだろうか。これを歌うことで、どれだけ5人が傷ついたのかは分からないが(あるいは5人は僕の想像が及ばないほどのタフなハートを持っているのかもしれないが)彼女たちを痛めつけたのは作詞者であり、作曲者であり、聴衆でもあると思う。僕らは一か所に集まりながら、同じ輪を作りながら、互いに傷つけあっているとさえ言えるかもしれない。折れかかった心が、この曲を聴くことでポッキリと折れたという人がいても、なんら不思議はない。「小さな巨人」と称された有安杏果が「普通の女の子」を志望してグループを卒業するのは、この曲のリリースより、ずっと後になってからのことではあるけど、たとえ誰かが喜んでくれるとしても、人は労働によって摩耗していく。特に年端もいかない女の子が「メッセージソングを歌う」という激務を通して細っていくのは、無理もないことだと思う。

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だいぶ批判的なことを書いてしまったが、僕が少なくとも一か所、大槻氏の詩から「共感できるところ」を見いだせたのは確かである。それは《働くと 君に会う時うれしい》というセンテンスだ。僕と「苦しい勝ち組」に属する友人は、年に1度も会うことができない。わりと頻繁に連絡を取り合ってはいるけれど、顔を合わせて話すこと、酒を飲み交わすことは(僕は呑めない体質だが)もしかすると死ぬまでないかもしれないのだ。僕は全く多忙な人間ではないし、友人も「時間を作る努力」を惜しまない男だ。しかし距離というのは、遠く離れて暮らすというのは、とてつもなく高いハードルである。だから僕は、もしかすると「あと1、2回」しか残されていないかもしれない「会う時」のために、日々を過ごしているというのが正直なところである。自分のしていることが「労働」として認めてもらえるような、高尚な(あるいは過酷な)ものであるかは、全く自信がない。自分が「働いている」のかさえ確信できない僕は、ありふれた表現をつかえば、間違いなく「負け犬」である。大槻氏は(ももいろクローバーZは)《人に使われたら 負けなんじゃないか?》と問いかけてくるけど、それが勝ち負けの定義なのだとしたら、僕は間違いなく負け組に属する。そして僕を「使う」人でさえ、程度の差こそあれ、負けているわけである。それでも、大事な誰かに会えた時に「嬉しい」と感じるために日々の言動を選ぶというのは、きっと美しいことなのではないかと思う。そう思うしかないと思う。

いやしくも「音楽文」に掲載されることを目的に書きながら、歌詞ばかり取り上げる駄文となってしまった。本音を言えば、この曲のアレンジは「それはそれでアリ」だとは感じるものの、僕の好きなロックには分類されないと思う。ギター、ベース、ドラムスという「骨格」を塗りつぶすほどにブラスが鳴る曲は、個人的には好まない。そして先にも述べたように、どこか挑発的な、聴き手を戦いに誘うようなメロディーラインが、ある境遇に立たされる人たちを傷つけうることを、あらためて聴き返してみた今、やはり思ってしまう。だから僕は「この曲を聴いて全員で立ち上がろうぜ!」などと言うつもりは更々ないのだ。プロモーションの映像で枝豆をかじる百田夏菜子のように、お気楽に生きることが許されるのなら、そのほうがいいに決まっている。人は時として(あるいは日々)戦わなければ生きられないけど、心身に負荷をかけること、自分に無理を強いることが、どれだけ危険で犯罪的なことかを、自他を観察しながら学んできた。それでも僕たちは「会う時」を心待ちにする相手を、世界のどこかに持っている。再会が叶うかは分からなくても、その時に「嬉しい」という感情を抱けるように、ふるまっていかなければならないとは思う。

夢を叶え、それでいて苦痛に満ちた日々を送っている人たちに、この曲が、あるいはこの拙文が、どう響くかは分からない。でも「どうせアイドルソングだろう」というような先入観だけは捨ててほしいと願っている。これまでに掲載されたロッキング・オン「音楽文」のなかに、ももいろクローバーZに関する記事がないことから察すると、読み手は(いわゆる)「本格派」にカテゴライズされるような曲(記事)を求めているのだろう。それでも僕は、彼女たちが(特に有安杏果が)命を縮めるような思いで歌い、問いかけたことは、ある意味ではロックンロールなのではないかと思うのだ。そして大槻氏は、誰かを傷つけることを覚悟の上で、つまり身を切るような思いで、この詞を書きおろしだのではないかと考えてみたりもする。結論めいたことは書けそうにないけど、そんなことを思い、考える。

世界中で働く人が、あるいは事情があって働けない人が、大事な人に会う時に、きちんと「嬉しい」と感じられるように。その人なりの「労働」を続けることができるように。それを願う資格が、怠惰で不誠実な自分にあるのかは分からないけど、もし心が(細りつつはあれ)折れてはいないのなら、この曲に耳を傾けてみることを勧める。いつか友人が、僕に勧めてくれたように。

※《》内は、ももいろクローバーZ「労働讃歌」の歌詞より引用

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