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「スピーカーが足りない」ライブ

forceとフクロウと溢れる桝酒、そしてSuperflyから離れたい

 
 
 
私は、私の中で2人目の「音楽に愛されている人」を見つけた。
 
 
 

1曲目のイントロが鳴り始める。
 

その音が一つの「何か」になって、
後方立見というこの日この会場の一番後ろの隅に立っている私の元へ一直線に飛んでくる。
 

その「何か」は私の頑丈で鉄のように重く堅く閉ざされた心のドアの、
こじれにこじれた鍵穴に「何か」をスッと差し込みいとも簡単に鍵を開けた。
 

どうやら、その「何か」は何重もの難解なパスワードを掛けて守っていた私の心の中の国家重要機密に値する極秘スイッチを簡単に探し当てタンッと跳ねるように軽く押してその「何か」はすぐに私の心の中から出て行ったらしい。
 

自分の意思とは関係なく、一瞬で涙が溢れ出てくる。
 

たまに出会ってしまう。絶対に自分以外は知らないはずの自分の心の鍵の開け方やパスワードをなぜか知っている音楽と人に。
 

私の中で、そんな音楽と人に出会ったことを知らせる合図は「ライブの1音目が鳴った瞬間になぜか涙が溢れてくること」で間違いない。
 
 

そうか、この人とこの音楽もだったか。
 
 

正直、この曲に何か特別な思い入れがある訳ではない。
この曲を聴いた回数も、正直数えるほどしかない。
今日ここに来た理由は私の中での「自分が死ぬまでにライブに行かないといけない気がするアーティストリスト」に私が勝手にこのアーティストをリストインしていたからに過ぎない。
 

何年か前、何かの音楽番組でこの人が歌っていたのを見た。
生まれて初めて、テレビの画面越しに「力」を感じた。
画面越しに自分が「力」を感じている。
画面から見えない「何か」が出ている。
これは、いつか自分が死ぬまでにライブに行かないといけない。
これを生で聴くと一体どうなるのか。そこには何が待っているのか。
考えた所で分かるはずもない、得体のしれないワクワク感を抱いた。
そんなことを本能的に思ったアーティストは、今の所この人以外にはいない。
 
 
 

《すれ違う スーツの群れは夜よりダーク
 白い靴 踏まれそうになる駅のホーム
 
 うつむいて 画面のリンク
 スケートしながら
 あの人の悪い噂を拡散中

 ねぇ、今宵も夜空に月が綺麗ですよ?
 見上げてごらん Cry Cry Cry
 オー ノー ノー》
 
 
 

曲はイントロを終え、Aメロ、Bメロと進んでいく。
違う。まだだ。まだ。まだきていない。
全てを一旦吸い込むメロディ。
そこから全てが一気に解放される。
ついにきてしまう。サビ。
 
 
 

《今はきらい oh yeah
 でも私は生きている》
 
 
 

スピーカーが足りない。
 
 
 

「生で聴くとどうなるのか」の答えはこれだった。
決して、会場の規模や音響設備の不足という物理的なことを嘆いている訳ではない。
その人とその音楽が織り成す「力」が、スピーカーという物理的なモノを通すにはあまりにも雄大で、寛大で、壮大過ぎたというだけのことだ。
声量だとか、喉が強いだとか、そういう次元の話ではない。
ただ、その人と音楽が織り成す「力」があまりにも大きくて、多くて、溢れてしまっているのだ。
 

スピーカーは十分力を持っている。十分過ぎる能力を持っている。
でも、どうしても、足りない。
彼女から放たれる「力」を掬い取るには足りなかっただけなのだ。
例えるなら、今この時、200mlしか入らない空のコップに500mlのペットボトルのジュースを全て注いで入れようとしているようなものなのだ。
500mlの全てが入る訳がない。空のコップには200mlしか入らない。残りの300mlは溢れてしまう。そんな当たり前のことが今目の前で巻き起こっているだけだ。誰のせいでもない。誰が、何が、悪いのではない。何か問題があったわけではない。これでいいのだ。これが当然なのだ。むしろ「声が溢れている」という事実が、この「力」を証明しているのだ。スピーカーは十分頑張っている。スピーカーは自らが出せる音を全て限界まで使い切っている。音響設備のことについてはよく知らないが、きっと音は小さすぎても駄目で、かといって大きければいいというような単純なことでもないはずだ。ただ、スピーカーという物理的なモノでは放出しきれない「力」が放たれているだけなのだ。それだけは紛れもない真実だ。「スピーカーが足りない」そんな言葉は今まで自分の辞書の中にはなかったが、今この時をもって舞い降りてきて自分の辞書の中に追加された。「スピーカーが足りない」以外の言葉ではこの現象は表現できないのだ。とにかく「声が溢れている」のだ。今まで様々なアーティストの様々なライブに足を運んだが、そんなことを思ったのは初めてだった。そしてこのライブはスピーカーが掬い切れなかった溢れている「力」を感じ取ることこそが醍醐味だと思えた。
 
 

紛れもなく、この「力」は「power」ではなく「force」だ。
 

「power」というのは「力」を使って一定時間に仕事をする能力のことを指すのだという。つまり「force」に距離を掛けて時間で割れば算出できるらしい。
 

一方「force」というのは物を押したりする時に掌に感じる感触という名の「力」そのもののことで、そこに距離や時間の概念はないのだという。
 

既に「Force」というタイトルの曲がリリースされているし、「Force」というタイトルのアルバムがリリースされてもいるので、彼女は自らと音楽が織り成す「力」が「force」であることについては十分認識されているのだろうと勝手に想像する。
 

ライブは進んでいく。曲によって音楽が自由に形を変えていくのを見た。音楽が流れる水のように彼女の体の周りをまとわりついたかと思えば、まとわりついていた水は彼女からスッと離れ小鳥のように会場内を飛び回り、小鳥はそのまま森の中を吹き渡る涼しい風となり森の中に立っている彼女を撫でて通り過ぎた。そしてその風は渦を巻いて彼女の周りを包むオーラとなり、彼女を中心として視覚的に円形に強く強く「force」を放っていた。この演出は圧巻だった。その円形の中心に、私が今までライブを見たことのある色んな大物ボーカリストを置いてみて脳内でイメージするのだけど、誰を置いてもしっくりこないし、失礼な話だが噴飯ものだとすら思えた。それは、彼女だけが正真正銘の「force」を放っているという紛れもない証拠に成り得ると思えた。
 
 

この人は音楽に愛されている人だ。
 
 

そう確信した。
ライブに行きライブを体感していると、自分の中で感覚的に分かることがある。
アーティストには「音楽を愛している人」と「音楽に愛されている人」がいる。
音楽を愛することは簡単だ。誰にだってできる。能動的なことだ。ただ、自分から愛せばいい。総て自分次第だ。
だが、音楽に愛されるということは自分の力ではどうすることもできない。愛されたいと望むことはできるが、愛してくれるかは音楽次第だ。自分に決定権などない。ただ、そう願い、ひたすらに渇望することしかできない。
 
 

「音楽に多くの力を貰ったし、いろんな場面で救われた。だから、僕はひたすら音楽に対して恩返しがしたい。そうしていれば、いつか音楽に愛される日が来るかもしれないし、そうすることしかできない。」
 
 

これは本当にどこの誰の発言なのか私はすっぱりと忘れてしまっているのだが、確か何かの雑誌でどこかのアーティストが言っていた発言で、私の中でずっと深く刻まれている言葉だ。愛されるためには、愛するしかない。でも、愛されるかどうかは分からない。それは神頼みのようなもので、ルーレットのようなもので、宝くじのようなものだ。決めるのは自分ではない。かと言って、誰かに頼むこともできない。私はアーティストでも何でもない一般人だが「音楽に多くの力を貰い、救われた」という点は同じだと思っている。なので私なりに音楽に恩返しをしたいと思っていて、その手段は私にとって「書く」ということに他ならない。私は自分で音を鳴らせない。曲を作ることもできない。詩を書くこともできない。なので、ただ書く。書いて、音楽から感じ取ったものを消化して昇華してそれで他の誰かに何かを伝えることが、他の誰かが何かを感じてくれることこそが私が出来る唯一の「音楽への恩返し」だと思っている。私の中で音楽に「ありがとう」と伝えられるのは「書く」ということ以外にない。だから今日も書く。ただ「ありがとう」を込めて。
 
 
 

Superflyは「音楽に愛されている人」だ。
 
 
 

もう一人、私が今までライブに行った中で「音楽に愛されている人」だと思ったボーカリストがいる。
 
 

サザンオールスターズの桑田佳祐だ。
 
 

私が思う2人の共通点はとにかくライブの中で「音楽と遊んでいる」と感じた点だ。歌っているとか、叫んでいるとか、鳴らしているとか、表現しているとか、そういう一人で成し得るようなことではない。この2人は、見ていて、終始「音楽と遊んでいる」と感じた。音楽が喜んでいる。音楽の方から、この人と遊びたいと寄って行っている。音楽は、この人と遊びたいがために水や炎や植物や魚や鳥や猫や魔物や海や風や光やオーラに形を変える。そして、彼と彼女はそれを自然に受け入れ自分も自然に形を変える。力んだり無理したりすることなどなく、まるで息を吸って吐くように、歩くように、寝っ転がるように、自然に音楽と遊ぶ。心臓が自らの意思とは関係なく勝手に動き続けるのと同じだ。多分この2人は、心臓が血液を体中に運ぶのと同じように勝手に音楽が常に体中を巡っている。もはやこの2人は音楽に対して「愛そう」とか「愛してほしい」などとは思っていないのだと思う。音楽が喜んでいる。音楽が「この人といたい」と願い寄り添っている。音楽が自ら人を愛し寄り添ったその結果として「歌っている」という形になっているだけで、桑田佳祐とSuperflyは決して「歌おう」とはしていないと感じた。紛れもなく歌ってはいるのだけど、歌ってはいない。ただ、音楽と遊んでいるだけなのだと感じた。私は今まで何十組のアーティストのライブに行っただろうか。数えたことがないので分からない。しかし、桑田佳祐とSuperfly以外に「音楽と遊んでいる」と感じたアーティストは私の中ではいない。
 
 

とある曲で、私は全ての時が止まったのを、いや、時間という概念が完全に自分から消えたのを感じた。間違いなくその曲の演奏時間は5分とか6分だとかいう単位であったのだと思うが、時間はそこにはなかった。今まで様々なライブに行ったが、「音楽で時間を消された」と感じたのは初めてだった。まだツアーは続いている。この先この感覚を味わう方のために、何も言いたくない。絶対に何も言いたくない。それくらい、ものすごい体験があった。この先、仮にこのツアーが映像化されたとしても、この感覚は絶対に二度と味わえないと断言できる。そもそも時間が消されていたので、正直記憶がなく、何も言えない。ただ言えるのは「音楽で時間が消えていた」ただそれだけだ。
 
 

全てが終わった。
最後に思い浮かんだ感想は「もっと広くて遠い所で聴きたい」だった。
今まで「もっと狭い場所で聴きたい」とか「もっと近くの席に行きたい」と思ったことはいくらでもある。
でも、「もっと広い所で聴きたい」「もっと遠くで感じてみたい」「マイクを使わなくていいのではないか」「スピーカーもなくていいのではないか」「屋内ではなく野外、何なら360度地平線が見える草原の中で聴いてみたい」と思ったライブは、アーティストは、初めてだった。
愛媛県武道館、キャパ約6,000人、後方立見席の中でも一番後ろの隅、は私にとっては近過ぎた。もっともっともっともっともっと離れたい。私にとってSuperflyは「離れたい」アーティストだった。
 
 

足早に終演後のグッズ売り場に駆け込む。こんなものを見せられては、もっとお金をお支払いしないと気が済まない。私が音楽に恩返しをできるのは「書く」ことだけのように前述したが違う。ライブをしてくれたアーティストと、ライブを運営してくださった関係者の方とその他諸々にライブ会場で一銭でも多く直接金銭をお支払いすることも私の中では立派な「恩返し」だ。
 

グッズ売り場でやたら「フクロウ」を目にする。なるほど、フクロウはSuperflyのシンボル的存在だったのか。
 

そこでハッと気づく。
 

イントロが鳴り出した瞬間、ステージからスウーッと一直線に真っ直ぐ飛んできて私の心の鍵穴にくちばしを入れて開け、極秘スイッチをその足で軽くタンッと押してまたスウーッと飛んで行ったのはこのフクロウだったのか。数カ月前に動物園で見たバードショーを思い出した。そこではいろんな鳥が会場の端から端を飛んでいく。大袈裟にバッサバッサと羽を動かしながら飛ぶ鳥もいたのだが、フクロウは夜行性のため敵に気づかれぬようとにかく「無音」で全く羽ばたきもせず本当にスウーッと飛ぶのだ。そして、夜なのに小さな虫も見えるくらいものすごく視力が良く、獲物に向かって音も立てずスウーッと飛んでいくのだという。
 

グッズ売り場に並ぶフクロウの大きく丸く見開かれた2つの目を見ながら思った。
自分が堅く守っていたはずの心の鍵穴や極秘スイッチなど、最初からこの目に全て見透かされていたのだ。
 
 

まあ何せスピーカーが足りなかった。
 
 

少し前に居酒屋で飲んだ、店員さんがわざと目の前でグラスから溢れさせながら注ぐ桝酒を思い出した。
 
 

同じ液体であるはずなのに不思議だ。
なぜか、グラスの中におさまったものより
溢れたものの方が美味しく感じるのだ。
 
 
 

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