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Base Ball Bearは「言葉」を信用していない

「いまは僕の目を見て」感想

――語りえないことについては、沈黙するほかない。
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

すまん、冒頭引用ではじめるヤツ、やってみたかっただけだ。
あれたぶん、世間の作家も気持ちいいからやってると思う。

さて、Base Ball Bearの話である。
まったく接続詞になっていないが、勇気を鼓して、「さて」と書く。
僕はBase Ball Bearの話がしたい。

3人組ロックバンド・Base Ball Bearが2019年9月にEP『Grape』を配信限定でリリースした。リード曲は、「いまは僕の目を見て」。
うまく気持ちが伝えられない青年のウジウジと、それに気づいてるんだが気づいてないんだか天真爛漫なヒロインの魅力が光るミディアムチューンである。

YouTubeに公式MVがあがっているので、よければ観てほしい。
以降のテキストは、それを前提に進めていく。
 
 
 
 

…………観ました?

この人たち、メジャーデビューしてもう10年くらい経つのに、初々しさがまったく抜けてないな……マジ思春期永久欠番。

この曲は、「想いを伝えることの困難さ」について歌っている。
もう少しくわしく説明すると、「気持ちは言葉にしたとき、そのほとんどがこぼれ落ちてしまう」。これがメインテーマである。

順番に、歌詞を見ていこう。
 
 

「言葉は穴のあいた 軽い砂袋さ
君まで届ける前に かなりこぼれてしまう

中身をこぼさぬように 隣に座ったら
いつもより多く 手渡せる気がした」
(Base Ball Bear「いまは僕の目を見て」より。以降、しばらくは引用おなじ)
 
 

冒頭、フロントマンの小出祐介は、「言葉」を「砂袋」にたとえている。
非常に卓抜した比喩である。

比喩の優秀さとは、①それを耳にしたときのイメージ喚起力と、②その意図がいかにスムーズに伝わるかによって、規定される。

そういう意味で、冒頭のフレーズは一聴した瞬間に、さらさらとこぼれ落ちる砂のイメージが喚起され、同時に、言葉に込めた意図とは発話者が思っているほど伝わらないものなのだな、と納得させられる。

だからこそ、「隣に座」る。
けど、ここで注意を払わねばならないのは、あくまで「手渡せる」「気がした」だけなのだ。依然、確信を抱くことはできない。

つづいて、サビのフレーズを見ていこう。
 
 

「君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら
なんて思われるだろう 臆病になってしまう
きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない
胸の奥で渦巻いた ありったけの気持ちをすべて」
 
 

小出はその歌詞のなかで、自分が歌ったフレーズやステートメントを、おなじ曲のなかで、対義語的にしばしば打ち消す表現をする。

この場合、「砂袋」という比喩を印象に残しつつ、「喩えられるようなものじゃない」と歌ってみせる。
たしかに、「砂袋」はあくまで想いの入れ物にすぎない。
ここで、「喩えられるようなものじゃない」と指摘されているのは、想いそれ自体だ。

入れ物とそのもの。微妙にズレている。
こういう極めて微妙な、文学的なあわいを残しつつ、曲は進んでいく。

サビについて、もう一点、着目したいフレーズがある。
というか、本テキストのテーマ的には、こちらが本丸といっていい。
 
 

「君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら
なんて思われるだろう 臆病になってしまう」
 
 

小出は、意図通りに想いが伝わらないことを歌ってきた。
しかし、ここでべつの心配をする。
すなわち、「想いが(たとえ不十分でも)伝わってしまったとしたら、そのとき君はどう思うだろうか」。これである。

僕はこのフレーズを読んだとき、不覚にも泣いてしまった。
これはもしかすると、ある一定の人種にしか共感できないテーゼなのかもしれない。

想いが伝わってしまったら、嫌われないかな。
急に好きとかいったら、嫌がられるかも。

僕なりにいいかえてみせると、「キモいと思われかも」である。
小出祐介は、インタビュー内でもたびたび語っているように、いわゆる、「非リア充」である

学生時代に、通り一遍の青春イニシエーションをくぐり抜けてこなかったことを意味する。
僕もそうだ。だからこそ、気持ちが痛いほどわかる。

世界への、世間への無条件な安心と肯定感。
それを「持たざる人間」こそが、非リアの十分条件である。

その人たちが持つ不安が、このフレーズには凝縮されている。

熱くなって脱線してしまった。本筋に戻ろう。
そんなわけで、「いまは僕の目を見て」は「想いが意図通りに伝わらないこと」と、「想いが伝わってしまったときのリスク」について歌った楽曲であるといえそうだ。

2番以降も、それを裏づけるフレーズがつづく。
 
 

「雨けむる窓に書いた 水玉の手紙は
切実な4文字で 届ける前に消した

心と心つなぐ ケーブルがあるなら
この悩みはなくなって ただ、歓びも失せてく」
 
 

切実な4文字とは、なにを指すのだろうか。
これを詳細に検討することは、ヤボであろう。

もちろん、「ケーブル」はない。
僕たちは、自分の気持ちをバーバル(言語)にせよ、ノンバーバル(非言語)にせよ、表現していくしかないのだ。

と同時に、それこそがコミュニケーションの生物たる人間のおもしろさ――なのかもしれない。
 
 

『君を大切だと感じた そのときにそのまま伝えたら
何かが変わっていきそうで 不安に飲まれてしまう
「正しく」よりも「間違わずに」
伝えることに慎重になる
手応えばかり求めて 言葉を重ね続ける』
 
 

小出は、ここで後退する。
想いは伝わない。ならばせめて、間違いがないように、誤解を生まないように。説明過多になろうと、冗漫になろうと、言葉を紡ぎつづける。
青年の慌てている姿が目に浮かぶようだ。

しかし、曲のラスト付近で、青年はひとつの答えを見つける。
 
 

「これまで生きてきたこと 僕を形作ってきたことも
わからなくたっていいから いまは僕の目を見て」
 
 

言葉は伝わない。
想いは伝達できない。

バーバルなコミュニケーションの限界を迎えたとき、青年はノンバーバルなコミュニケーションを試みる。
それこそが、「目で語る」である。

この結論に、少々な性急さを感じる向きもあるかもしれない。
しかし、小出祐介が表現しつづけたことを確認すると、納得できるはずだ。

その道筋をつけるため、10年以上まえにリリースされた、Base Ball Bearのある楽曲をとりあげる。
題材にする楽曲は、「愛してる」だ。
こちらも公式MVがある。サイトの規定上、リンクは張れないが、ぜひチェックしてみてほしい。

「愛してる」は、2007年に発売されたシングル曲である。
彼らの代表作であるメジャー2ndアルバム『十七歳』にも収録されている。

「愛してる」という言葉から、「おお、ずいぶん直球なラブソングですナ」と鼻白む人もいるかもしれない。
しかしこの曲は、燃え上がる愛の賛歌ではなく、急激にしぼみゆく恋の末路について歌っているのだ。

「愛してる」という曲名からの予測とは、ある種の真逆をいく世界観。
やはりここでも、小出祐介のひねくれた感性がうかがえる。
 
 

『初めての「愛してる」で
君はちょっとかなしい眼をしていた
喜んでくれると思ってたのに
すきま風が吹いた
そんな気さえもしたんだ』
(Base Ball Bear「愛してる」より)
 
 

描写は簡易明達である。

僕は君に「愛してる」といった。
しかし、君は喜ぶどころが、哀しそうな眼をした。
なぜだろう。僕にはわからない。
 
 

「漠然とプレゼントみたいに思っていた 男の子な発想とはいえ

(サビ)
愛してる、君を 間違いないはず
君と歩んでいきたいはず
愛してる…はず」
 
 

ここで、僕と君の「愛してる」へのスタンスのちがいが浮き彫りになる。
僕はそれを「プレゼント」だと思っていた。
プレゼントはよほどではないかぎり、渡せばよろこんでもらえる。
「愛してる」もおなじだ。だからこそ僕は、気軽に口にだす。

しかし、君はそう思っていない。
 
 

『三度目の「愛してる」で
君は僕を嫌いになったって告げた
本当なんだとくり返す僕は
何かが違うような
そんな気がしていたんだ』
 
 

募る違和感。けど、その正体はわからない。
そんな僕を見て、君のイライラは積もっていく。
気持ちはすれちがっていく。

そのまま2番のサビに突入していく。
引用しないが、歌詞は1番のリフレインだ。
僕の焦りがよく伝わってくる。

ラストサビまえ、コーラスを務めていたベース・関根史織がマイクを握る。
つまりここで、はじめて君(=女性)視点で心境が語られる。
比喩的にいうならば、ミステリにおける謎解き&解決篇ということになる。
 
 

(関根)
「その言葉を口にするたびに
愛が逃げていく気がする
愛は形のないものだから」
(小出)
「似ているものを そう、僕の心をあげる」
 
 

そう。「愛してる」と口にだすこと自体が、その気持ちを消尽させてしまうリスクをともなう。
だから、簡単に「愛してる」などといってはならないのだ。

しかし、それを受けた僕(=男)の返答は、いまいちわかってない感じがする。芯を食っていない。

それゆえか、ラストサビにおいて、僕の心は激しく揺れる。
 
 

「愛してる…
愛してる 君を 間違いはないはず
君と歩んでいきたいはず
愛してる…はず…たぶん」
 
 

もはや僕は、自分の気持ちの絶対性を信じることはできない。
「…」の連発が、それを如実に物語っている。
奇しくも、言葉にすることで、その気持ちは「逃げていく」。

「愛してる」において、未来は語られていない。
ふたりが別れたかどうかは、わからない。

けれど、悲劇的な結末が暗示されていると申し上げていいだろう。

結論をだそう。
「愛してる」とは、「言葉にすることのリスク」「言葉にしたことで起きる悲劇」を歌った楽曲なのだ。

さて。
ここで再度、「いまは僕の目を見て」のフレーズを引用する。
 
 

「君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら
なんて思われるだろう 臆病になってしまう」
(Base Ball Bear「いまは僕を見て」より)
 

懸命なる読者諸兄は、おわかりだろう。
小出文学の主人公たる「僕」は、10年のときを経て、学んだのだ。
だからこそ、「目で語る」ことを選ぶ。
それが正解かどうかは、だれにもわからない。

実は、冒頭に引用したウィトゲンシュタインも、かなり乱暴にまとめると、
「言語とそれで構築される論理の限界」について書いてきた。

小出祐介もおなじである。

カッコつけていえば、ウィトゲンシュタイン的諦念。とでもいおうか。
それを、この天才フロントマンはテーマにしつづけていたのだ。

もちろんこれは勝手な妄想で、余計な深読みである。
しかし、こういう積極的で主体的な「読み」は、コンテンツの魅力を何倍にも引き上げる。

その証拠に、ぼくは「いまは僕の目を見て」を聴き、感動した。
それだけは間違いない。それでじゅうぶんではないか。

どちらも名曲だと思います。

(終わり)

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