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月のような桜の木のような仙人「藤原基央」と「天体観測」

BUMP OF CHICKENより先に藤くんに出会っていた流星雨のような奇跡

現在の家に住んで約20年。元々物持ちが良く、かつ物を捨てられない質のため、引っ越した当時からほぼ物の位置は変わっておらず、物が増殖し続けている。(何度か大きな地震があり、その度に段ボール収納が増えたが。)最近、少しだけその部屋を整理する機会があった。その時、発掘したのが矢沢あい作『天使なんかじゃない』(完全版)である。4巻のあとがきは藤原基央が担当している。私はマンガの内容よりも、藤くんの言葉に没頭した。そう、これこそまさに私が藤原基央という人間を知るきっかけとなった本だった。

BUMP OF CHICKENとの出会いは間違いなく「天体観測」だ。けれど、この本は「天体観測」がリリースされる少し前、2000年12月に発行されている。バンプが世の中的にブレイクする以前ということになる。私はバンプより先に、藤くんと出会っていたのだと気付いた。

藤くんの天ないによせた感想文は当時の私にとって強烈な衝撃を受けるもので、人生観が変わるくらいの内容だった。まず主人公があまり好きになれないという感想があり、そこからしてインパクト大だった。普通、どのマンガにおいても、主人公が一番好きとか言って主人公を論じる場合が多いのに、藤くんは違った。主人公の親友(マミリン)がダントツと言っている。それからぶりっ子キャラの志乃ちゃんも好きだと。美人だけど、不器用で、あまり他者から好かれるタイプではなく、人間らしく生きているというのが両者の共通点だ。藤くんは天真爛漫な主人公より、ちょっと影やトゲのあるキャラを愛してくれた。そこに私は惹かれた。
男キャラに関しても、主人公の相方ではなく、ミュージシャンを目指すちょっと情けない男・ケンや、画家で放浪癖のある将志などをピックアップしてくれた。今なら藤くんが彼らを選んだ理由がよく分かるけれど、当時は漠然としか理解できなかった。二人とも藤くんに似ている部分があるから、生き方に共感できたのだろう。プロのミュージシャンを目指す設定なんてまさに藤くんみたいだし、いつか天ないが実写化されたら、ケンは藤くんに演じてもらいたいくらいだ。いや、藤くんなら将志の方が適役かもしれない。画家の将志は一見、何も考えていないような人間に見えるけれど、実は人の心をよくお見通しで、情が深い人で、藤くんは立ち振る舞いがまさに仙人とベタ褒めしている。「将来、仙人になりたいので、参考にしたい」とまで書いている。このあとがきは21歳の藤くんが書いたものだが、それから約20年。おそらく藤くんはすでに仙人の域に達していると思う。何しろ、私は仙人のような藤くんの歌詞やインタビュー記事の言葉によって、多々救われて生きているから。

それについ最近、個人的に短編小説を書いた時、藤くんのような性格のキャラをひとり登場させたのだが、そのキャラを形容する言葉を最後まで悩み続け、選んだ言葉が「仙人のような人」だった。私は藤くんを仙人のような人だと思っているから、単純だけれど、仙人という言葉を使った。たまたま今回この本を発掘して、そこに仙人になりたいと書いてあったから、仙人という言葉をチョイスしたのは間違いじゃなかったと思えた。藤くんはすでに仙人だから、私は仙人の見習いになりたい。藤くんの言葉でどんなに生きることがラクになったか。藤くんの言葉を本格的に意識するまでは、自分の人生なんてろくでもない人生だと卑屈に生きていたけれど、仙人の藤くんの考え方を学んで以来、自分の人生捨てたものじゃないなと思えるようになった。

具体的に言えば、例えば、私は容姿が良くないし、異性ウケも悪いし、家庭環境もよろしくないし、そのせいか性格が歪んでしまって、変わり者として静かに暗く生きていたのだけれど、藤くんの言葉と出会って、別にそんな自分でもいいんじゃないかと思えるようになった。普通、暗いのはダメで明るい方がいいと多くの人は言う。暗いと大人から指摘されることも多かった。内心、暗いことがそんなにダメなのかと思っていた。暗いとか大人しすぎるとか、否定されるような意見を大人たちから言われて育って、そんなに明るくて活発なマンガの主人公みたいな子がエライのかと反抗したかった。でも何も言い返せなかった。自分は良くない人間なんだと思うようになった。
でも藤くんが明るい主人公のような性格じゃないキャラのことも人間らしいと褒めちぎってくれて、認めてくれたから、脇役キャラのことも主人公扱いして光を当ててくれたから、私はうれしかった。藤くんって、どんなどうしようもない人のことでも否定しないし、良い部分を見つけてくれて、わずかな輝きでさえ見落とすことなく、人として肯定してくれるから、やっぱり仙人だと思う。もしも神様が存在するなら、藤くんみたいな人が神様だったらいいのにと思ってしまう。きっと、今現在神様がいるなら、藤くんとはかけ離れた性格だろうなと思う。少しは藤くんを見習ってほしい。

さらに、もう少し直近の具体例を話せば、例えば今まさにバンプのツアーファイナル公演が行われている真っ最中で、ああ、ライブに行きたかったなと羨ましい気持ちと寂しい気持ちでやや落ち込んでいるのだけれど、もしも藤くんだったら、ライブを直接見られなくても、音楽を聞いているだけでも、こうして思いを馳せるだけでも、今日という1日に意味を持たせることができるよと言ってくれそうだから、私は泣くこともなく、いつもの地味な日常を過ごすことができた。オーロラ観測に行って、たとえオーロラを見られなくても、それを見に行ったという事実に意味があるという話を雑誌のインタビューで語ってくれた藤くんなら、きっとそう言ってくれる。

もう少し個人的な話をすると、たとえライブのチケットをゲットできていたとしても、今回は行けなかったと思う。なぜなら、11月1日、怪我をしてしまったから。最初はたいしたことないかもしれないし、病院に行くまでもないかなと思ったのだが、止血するのに30分くらいかかったし、連休直前だし、念のため病院に行っておくかと行ってみたら、足の爪が割れていると診断され、なかなか大々的に包帯を巻かれてしまった。元々ツイていない人間だけれど、本当にツイていない。痛くて歩きにくいし、お風呂もたいへんだし、せっかくの休日もろくなこともできず、終わってしまった。バンプのライブには行けなくても、せめて近場のお祭りに行って、趣味の梯子乗りを見ようかななんて思っていたのに、それさえ叶わなかった。まぁ、私の人生なんていつもこんなものだけど。

でももし藤くんが近くにいてくれたら、怪我して動けない時だってできることはあるよ、動かなくてもできることをしたらいいよ、休む時間も必要だよなんて仙人みたいなことを言ってくれると思ったから、少しは前向きになれた。それでこうして動かなくてもできること、書くことをしている。

本当は多くの人たちがするように、キラキラしたライブレポを書きたいと憧れる時もあるけれど、私はそれほど多くライブには行っていないし、キラキラ系が苦手だから、仕方がない。もしも今回のツアーに参戦できていたら、きっと自分なりのレポを書いただろうけど、たとえライブに行けなくても、音楽を聞くことならどこにいたってできるから、行けないなりに、自分が書けることを書こうと思って、こうして書き続けている。書いていれば心の整理にもなるし。

ネガティブで悲観癖のある私は、藤くん流の考え方を実践するようになってから、本当に生きやすくなった。

仙人・藤くんは情景の切り取り方も上手で、それぞれの何気ない日常も特別な1日に変えてくれて、日々の「記念撮影」の天才だとも思う。たいした被写体じゃなくても、ちゃんと名写真にしてくれる。仙人のなせる業だ。
学生の頃と違って、大人になるとプライベートで人と会うことはお互い忙しい時間の合間を縫ってしかできないことだから、タイミングを合わせることが難しくなる。だから会いたい人と会うという行為はとても貴重で尊いことであり、そういう時間は「記念撮影」に価する。そのような人との関り方や心情を丁寧に歌詞として描写する能力に長けているのが藤くんだと思う。当たり前のように頻繁に毎日会えていた魔法のような時間がひとりきりの孤独な時間を支えてくれていることを藤くんから教えられた。

<想像じゃない未来に立って 僕だけの昨日が積み重なっても その昨日の下の 変わらない景色の中から ここまで繋がっている>

そして月のような人だとも思う。月って気付くと傍にいることが多い。遠いようで、近いような、抜群の距離感でそっと見守ってくれる天体が月。夜の暗闇の中にいても、月明かりのおかげで、道を迷わず歩けるように、月を道標にできるように、藤くんは暗い人の心に月のような明かりを灯してくれる。歩けば一緒について来てくれるような、俺もいるから大丈夫だよってやさしく背中を押してくれるような温かい存在。おしつけがましさは一切なく、控え目にそっと心に寄り添ってくれる存在。

「ジャングルジム」の中で繰り返された<欠けた月の黒いところ>というフレーズもあるように、月はいつでも満月というわけではない。新月で地球からはまったく見えない時もある。藤くんも月と同じで、いつでも同じ顔を覗かせてくれるわけではないけれど、でも見えない時だってずっと存在している。月は地球から見かけ上、形が変わるだけで、本当は形は変わっていない。欠けた部分もまるごと含めて月だよと教えてくれたように、私たちからは見えない部分も多く持っている人だから、やっぱり藤くんは天体で例えるなら月がぴったりだと思う。

それから桜の木のような人でもある。桜の花じゃなくて、桜の木のような人。桜の花は多くの人たちからもてはやされるけれど、桜の木って特にちやほやされることもなく、桜の花が散ってしまったら、見向きもされない。ある意味地味なんだけれど、とても大切な存在。なぜなら、桜の花の色は桜の木によって生み出されているから。桜の木で染物を作ったら、茶色ではなく、ちゃんと桜の花びらのような色に染まるらしい。不思議だ。花びらが散った後、桜の木はすぐに次の年に向けて、花を咲かせる準備に入るらしい。人間が見ていない間も、桜の木はちゃんとあの美しい薄ピンク色を木の内側で生産しているのだ。
藤くんはそういう人だと思う。見えないところで努力していて、曲作りとか孤独な作業を続けていて、リスナーにいつも満開の桜のような美しい楽曲を届けてくれる。桜の花を見せてくれるのだ。藤くんは体の芯から桜色を発していて、言葉や音楽に乗せて、リスナーの心をピンク色に染めてくれる。これもやはり仙人のなせる業だ。

寒い冬も暗い夜も、春の桜のような温かみと月のような明るさで、リスナーに幸せをもたらしてくれる。

どうしてこんなに人間を幸せにできるのか考えてみた。それはきっと藤くんが人間が大好きだからだ。実際、天ないのあとがきにも「俺は人が好きだ」と断言している。「独りでも生きていける強さ」なんて要らない、孤独には全力で抵抗する、他人が居てこその俺、傷付け合って存在確認だろうなんて言い放っている。すごいと思った。21歳にして、こんなことをはっきり言えるのだから。すでに仙人の素質が垣間見える。

たとえ傷付け合っても、人と関わることを放棄しないなんて、仙人見習いの私にはまだできないかもしれない。人を傷付けるのが怖くて、なるべく人と関わらないように生きてきたから。そういうスタンスからして、見習い失格かもしれない。

藤くんは孤独を唄うことが多いのに、人想いで、良い意味で人たらしだから、最終的にはどんなに孤独な歌でも愛に溢れている。だから聞かずにはいられない。

バンプの音楽にはハズレなんて存在しなくて、仮に第一印象でハズレのような楽曲があったとしても、後にそれも絶対アタリに変わる。バンプの音楽はアタリしか出ない仕組みのクジみたいなものだ。

人間の愚かさや醜い心も否定せず、負の部分もひっくるめて人間だろうって肯定してくれるから、藤くんのことを好きにならずにはいられない。

人間って結局、肯定してもらえると弱いのだ。受け入れてもらえたり、認めてもらえただけで、相手のことを好きになってしまう。単純な生き物だ。

でもそんな単純な生き物だって、毎日必死に生きていて、時には死にたくなるようなつらい思いを抱えてしまうこともある。そんな時、藤くんが「アルエ」の歌詞のようにハートの手当てをしてくれて、癒してくれる。人間は弱っている時、助けてくれる存在にも弱い。ほんとにどうしようもない生き物だ。そのどうしようもない生き物のことを真剣に愛してくれて、歌を届けてくれる。こんなにありがたい存在はなかなか他にはいないだろう。

そんなありがたい仙人のような存在の藤くんが完成したのは、仲良し過ぎるバンプのメンバーや、バンプを支えるスタッフなど藤くんを取り巻くすべての人たちのおかげだと思うから、やっぱり人間って大切なんだなと思った。藤くんがひとりぼっちだったら、周りに誰もいなかったら、こんなにすごい仙人にはなれなかったかもしれない。周囲のやさしい仲良しの人たちだけでなく、時には藤くんの心を傷付けるような人もいたかもしれない。でもそんな人でさえ、きっと仙人のような人格を形成する上で必要な存在だったわけで、今の藤くんだったら、自分を傷付けた相手のことさえ許して認めるんだろうなと思うと頭が上がらない。

バンプの歌は生きていると苦しみ、悲しみ、つらいことは避けられないけれど、そういう負の部分があるからこそ、「生きる」喜びや輝きがあると伝えてくれる。マイナス面は避けなくていい、むしろウェルカムで、乗り越えなくていいけれど、それらを否定もしないで、すべて受け入れて生きることを教えてくれた。つまりマイナスの感情とどう向き合って、消化して生きていけばいいかということを私はバンプの歌から教えられた。「ホリデイ」にはこんな一節もある。

<失敗しない 雨も降らない人生なんて ない>

私はバンプの音楽を知るよりも先に、マンガのあとがきにおいて藤くんの言葉と考え方に一目惚れしたわけだが、藤くんは内に秘めているものがまだまだある気がして、これからのバンプの音楽が楽しみで仕方がない。一目惚れとは言え、決して恋ではない。藤くん、藤くんと連呼してしまっているが、藤くんのことは人として尊敬している。憧れの存在だ。

さて、仙人見習い中の私は、最初の話に戻ると、なぜ部屋を片付ける機会があったのかと言うと、癇癪持ちの家族に自分の部屋を荒らされてしまったから。まるで地震の後のように、留守中、見事に荒らされてしまった。昔の自分だったら、きっと泣き寝入りしたと思う。でも、仙人の教えがあるとすれば、大掃除のきっかけになっただろうと言われそうだと考え、自分の城を黙々と片付けた。その際、『天使なんかじゃない』完全版と再会したのである。荒らされて良かったかもしれない。ひさしぶりに藤くんの素晴らしい言葉を読み返すことができたから。この本を発掘したおかげで、今回藤くんとの出会いの話を書くこともできたから。家族に感謝しなければいけない。そう考えられたら、少しは仙人に近付けるかもしれない。まだまだ見習いの身分だけれど、これからも藤くんの言葉、バンプの音楽を支えに私なりに生きていこうと思う。生きていけると思う。

私はこの際、幸せになんてなれなくていい。よろしくない容姿、性格かもしれない。不幸になりやすい家庭環境かもしれない。でもごくごく平凡にまぁまぁ幸せに生きている人には分かりっこない、不幸の中にある幸せを感じることができるから、私は幸せになんてなりたくない。いつも日の当たる場所にいて、お日様の光をたくさん浴びて幸せにすくすく成長できる花にはなれない。いつもは日の当たらない地下のような場所にいて、(高校生の頃のあだ名がキノコで、まさにキノコみたいな人間だから)時々藤くんのような人が届けてくれる光が射し込むとそれだけでこの場所も悪くないって思える。暗ければ暗いほど、光は感じやすいし、ありがたみも分かるから、私はきっと傍から見れば逃げ出すべき不幸の中にいるだろうけど、ここに居座ろうと思う。これも仙人になるための修行だと思えばつらくない。「天体観測」のフレーズを引用すればこんな感じだ。

<深い闇に飲まれないように 精一杯だった>

<暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ>

そもそも何でも恵まれていて、充実していたら、幸せだったら、こんなこと書こうとも思わないだろう。書く理由がないから。何か書こうと思えたり、誰かに伝えたいと思ったり、藤くんの歌詞を考察したいって気持ちは過酷な環境にいるからこそ、できることだから、私は自分の恵まれた不幸を手放すことはしない。不幸の中にある幸せしか興味がない。敢えて危険な戦地に赴く戦場ジャーナリストの気持ちが少し分かる気がする。自分が暮らしている場所は戦地みたいなものだから。

振り返ってみると2000年12月~2001年11月という時期は私にとって、奇跡の連続のような伝説レベルの1年だった。2000年12月に『天使なんかじゃない』(完全版)において藤原基央と出会い、2001年3月14日にリリースされた「天体観測」がヒットし続け、夏頃に私もその曲を知りバンプと出会い、2001年11月16日現在の家に引っ越し、11月19日見たことのない流星雨(しし座流星群)を新しい家から眺めて感動したのを覚えている。

藤くんの言葉と出会ったこと、バンプの音楽と出会ったこと、引っ越したこと、CGみたいな流星雨を見たこと…。当時はそれらがこんなに大切な思い出になるなんて、気付かずにいた。後の自分の人生にこんなに影響を与える出会いになるなんて、考えもしなかった。それらはもう二度とない出会いかもしれないのに。藤くんほど、バンプほど私の人生に、静かに衝撃を与え続けてくれる音楽との出会いは、もしかしたらもうないかもしれない。あの夜の流星雨だって、あんなものすごい数の流れ星は生きている間にはもう見られないかもしれない。それなのに、当時の私はその希少価値に気付けなかった。

大切なものや大切なことって時間が経過した後に気付くことが多い。あぁ、つらいと思っていたあの時、実は幸せだったなとか。だからもしかしたら、これを書いている今だって、ライブに行けなかった虚しさだって、いつかあぁ、あんな日もあったな、なんだかんだ幸せだったなと振り返ることができる日が来るかもしれない。ケガして何もできなくてツイてないと嘆いて書いてばかりいた時期もあったなって笑える時も来るかもしれない。どんな日でも時が経てば大切な思い出に変わるから。くだらない日常の尊さに気付けるようになれたら、また一歩仙人に近付けるかもしれない。

しかしそれはやはりまだ強がりなわけで、今回、バンプのaurora arkツアーに参戦できた人たちは私が言うまでもないが、2001年のしし座流星群くらい稀有な奇跡を体験したことになったはずだ。ライブレポをちら見しただけで、魔法にかけられたような時間だったことがよく分かる。やっぱり少し羨ましい。いずれ発売されるであろう、ライブDVDを楽しみに待とうと思う。
ちなみにアルバム『aurora arc』はケースにも入れずに持ち運び、聞き過ぎたため、ついに「アリア」の部分で音が飛ぶようになってしまった。聞き過ぎてCDを劣化させたのは初めての経験だ。

約20年経過して、家は少しずつ劣化して来ているけれど、住んでいる人がいるから、生きてはいる。古びて来た自分の部屋に愛着もある。発掘したマンガは少し黄ばんで色褪せていたけれど、マンガの内容自体は輝いていた。藤くんのあとがきもまるで昨日発言されたのかと思えるくらい真新しく輝きを放っていて、本を閉ざしてしまっていた間もちゃんと生きていた。流星雨に感動した気持ちはいまだによく覚えているのに、少し映像の記憶が曖昧になっている。そんな時、私は「天体観測」を聞く。

<もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで 前と同じ 午前二時 フミキリまで駆けてくよ 始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも 「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている>

この歌を聞いていると、忘れたくないのに曖昧になりかけている流星雨の映像が鮮明に蘇る気がする。そして20年前の自分と再会して、当時どんなに恵まれた1年になるかということを伝えたいくらいだ。藤くんやバンプとの出会いは生涯の宝物になるから大切にしてほしいと。私にとっての<ほうき星>はたぶん仙人になりたいという憧れの気持ちだから、これからもずっと藤原基央に憧れながら、過去の自分と未来の自分の間で<イマ>を追いかけようと思う。

<生まれたら死ぬまで ずっと探している さぁ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して>

そうやって生き続ければいつかきっと藤くんのように「見えないモノも見える」「知らないモノも知れる」ようになるかもしれない。私は本当の仙人になれないことは分かっているけれど、仙人に憧れながら自分なりに努力して生きたなと寿命が尽きる時に思えたらいい。バンプを追いかけていれば、不幸でも幸せな人生を全うできる気がするから。

夜空を眺めながらバンプの音楽を聞いていれば、毎晩流れているはずの肉眼では観測できない微かな流れ星も見える気がする。バンプの音楽があればいつだって2001年の流星群に劣らないたくさんの流れ星を思い浮かべることができる。「見えないモノを見える」ようにしてくれるのは魔法のようなBUMP OF CHICKENの音楽の力によるものだった。

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