3894 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

田中和将は笑っている

GRAPEVINEの詞世界に見る「笑い」と「光」について

《弄りあう本質と直に触る傷口と/どっちが笑えんだ》

「ジュブナイル」という曲の一節。

ここにGRAPEVINEのフロントマン・田中和将のそれこそ本質が詰まっている、などと言うと飛躍が過ぎるが、この部分には彼独特の作家性がとても色濃く表れている。

田中和将は笑っている。
何だか知らないが大体いつも笑っている。
ライブ中のささやかなMCで、出演したラジオで、雑誌のインタビューで。
口を「へ」の字のように曲げながら、まるで少し恥ずかしがっているかのように。
笑っている。
笑おうとしている。
関西人ならではのボケたがり、ツッコミたがり、落とし所つけたがりな性質の所為なのか、それとも単純に彼自身のどこか何事にもシニカルな考え方の所為なのか、それは分からない。

詞においてもそれは同様で、彼の書く詞には多くの場合「笑い」が含まれている。
ギャグを書いている訳では(「どやさ」と歌う曲もあるけれど)ないので「笑い」と言っても「お笑い」とは異なる。「笑わせる」のではなく「笑っている」のだ。
では一体それはどんな笑いなのか。例えば「放浪フリーク」において、彼はこんな風に歌っている。

《だからどうか/力とか 光とか/…実際苦手で》

どうだろう。やたらめったら力を手にしようとして、それによって光に向かって行こうとする人々を一歩引いた場所から笑っているように見えはしないだろうか。
あいにく筆者はこの曲がリリースされた当時のインタビューなどを読んだことが無いのでどういう意図のもと書かれた詞なのかは知る由も無いが、特に日本のバンドシーンに顕著に存在する姿勢に対するアンチテーゼのように、どうしても思えるのである。

しかし、彼等の代表曲とも言える、ファン人気も非常に高い曲のタイトルは「光について」だ。そして最新アルバムのリード曲の一つに「すべてのありふれた光」という物があり、アルバム自体も「ALL THE LIGHT」となっている。

田中は近年のインタビューで「大袈裟なことを言っても、それを言ってるお前自身はそんな大層な物なのかと思ってしまう」というようなことを語っている。このことからも、恐らく自分があまり大仰な表現をしたくないという気持ちがあるからこそ、他の人々がそうしたことを言っているのを見ると少しばかり冷笑的になってしまうのだろうという予想がつく。

《羽を手にして呵々と笑って/我に返って因果応報とは》

「ONI」という曲の中のフレーズである。まさに彼の姿勢がシンプルな形で表現されている箇所だと言えるのではないだろうか。決して批判的な訳ではない。むしろ様々な人や状況を見て、彼は楽しんでいるのかもしれない。きっと面白がっているのだ。この後に続く一節を見るとそのことを更に強く感じる。

《このざまに二言は無い/貴様らに異存は無い/どうせ夢を見たって/夢を散らして荼毘に付すまでは》

そう、自分に対して二言が無ければ、他人に対する異存も無いらしいのである。結局何もかも荼毘に付すまでの他愛無い戯れだとでも言うかのようなニヒリスティックですらある詞だが、見方を変えればこの世のすべてを肯定して受け入れているかのようでもある。

《何もかも全て受け止められるなら 何を見ていられた?/誰もがうかれて理解りあったつもりなら それだけでいられた/いつも いつも》

《光にさらされてゆくこの世界の中 君を見ていられた/涙が流れて聞こえなかったとしても 空に浮かべていこう/いつも いつも/僕らはまだここにあるさ》

「光について」のサビに当たる場所の歌詞だ。何も殊更に力まずとも当たり前に《いつも いつも》ここにある。彼の中で「光」というのはそういった物なのだろうと思う。

《ありふれた光はいつも/溢れるけれど溢れるだけの/もう一度/きみにそれが注いだなら/届いたなら/扉を壊しても連れ出すのさ》

デビューから20年以上経った今になっても「すべてのありふれた光」においてこんな風に歌って光の在り処に気付かせてくれる田中和将は、ひいてはGRAPEVINEというバンドは本当に頼もしい。本人がもしもこの文章を読んだとしたら大袈裟だと笑われてしまいそうだけれど。

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい