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深海に沈んだ桜井和寿、壇上に上がった常田大希

「売れた」という場所から2人のソングライターが見た景色が、私の中で24年越しに交差した

 
 
「売れたい」
 

人は簡単にそう言う。言うのは簡単だ。最悪、私にだって言うだけなら言える。「売れたい」ほら、言えた。どこで何を売ろうとして言っているのかさっぱり見当もつかないので恥じらいすらない。むしろ謎の爽快感がある。何度でも言おう。「売れたい」「売れたい」「売れたい」こう簡単に言える「売れたい」など本物でもなんでもなく、薄っぺらいまがい物である。しかし、いつの時代においても、たった一度だけ「売れたい」と呟き、己の心に野望という小さな火を灯し、それを大きな炎へと燃え上がらせ人々の目の前に解き放つことができる「本物」が存在する。  
 

「売れる」のは「売れたい」と願う者の中のほんの一握りであり、「売れる」中でも「売れ続ける」という波に乗ることができるのはほんの一握りだというのは周知の事実である。それは例えるなら「売れたい」と願う人々が鳥取砂丘に存在する無限の砂の粒ほどいるとすれば、「売れる」というフェーズに達する者は片手でつかみ取ることのできる砂粒ほどで、「売れ続ける」というフェーズに達する者は砂に人差し指を押し付け指の腹で採取できる微かな砂粒ほどであろう。「売れる」のに必要なのは実力や経験だけではない。この世に生まれ落ちたタイミング、今までに出会った人々、運。実力や経験は自分の努力やお金でどうにかできるかもしれないが、その他は人間の力ではコントロールできない。残念ながら生まれながらにして「持っている人」と「持っていない人」はいる。
 

 しかし不思議なことに、「売れる」という状況を生み出すことができるのは業界人でも自称音楽通でもインフルエンサーでもなんでもない。ただの一般人だ。影響力を持つ人々が「このアーティストは売れます」とどれだけ声高に叫んだとしても、それを聞き入れる人がいないと意味がない。現代においては、その一声から一般人が興味関心をもちYouTubeで動画を閲覧しサブスクで聴きSNSで公式アカウントをフォローしRTやいいねを重ね拡散しないと「売れる」という状況を作ることはできない。「CDの売上枚数」ではなく、「再生回数」と「フォロワー数」で人気がはかられる時代となった。影響力を持つ人々が束になったとて、CDを300万枚買い上げたり、24時間365日YouTubeを垂れ流しにして1億回の再生回数を稼ぐことは現実的に難しいであろう。なにも今に始まったことではなく、いつの時代も人気というのは一般人の手によって作り上げられている。いつの時代も、「売れる」アーティストが持つその類まれな才能やスキルやテクニックや音楽性を評価するのは、何の才能もスキルもテクニックも音楽性も持たない一般人だ。 
 

 「売れた」という場所から実際に見える景色。それは一般人には到底想像できない。それを見た者しか知らない何かがある。そして、その身を削りながらそれを音楽に昇華する人物がたまに現れる。オリンピックは4年おきにやってくると決まっているが、それはいつ訪れるのか分からない。1か月後かもしれないし、今後10年ないかもしれない。しかし、奇しくも56年ぶりに我が国でオリンピックが開催される2020年にそんな人物が「壇上」に立った。そこから見える景色は濁りうねり溢れながらも全て彼に吸い込まれ、美しくも悲しく昇華される。「King Gnuが終わった世界」から自分を取り巻く全方位に向け放たれる独白は、聴く者の心を苦しいくらいに掻き乱す。
 

そんな音楽を耳から流し込みながら、ふと思う。  
 

そういえば、こうして聴く者の心を掻き乱す音楽が海の底から聴こえてきたことがあった気がする。 
 

 1996年6月24日リリース、Mr.Children5枚目のアルバム「深海」。  1996年当時、私は5歳だった。90年代の音楽シーンなど「知ったこっちゃねぇ」というのが紛れもない事実であり、知っていた方が恐ろしい話だ。90年代の音楽シーンを語る5歳児、想像しただけで狂気的である。  
 

当時、桜井和寿は「売れたい」という野望を心の中で静かに燃やしていた。そんな野望という小さな火は、幸か不幸か大きな炎へと成り上がった。Mr.Childrenは1993年リリースの「CROSS ROAD」がミリオンヒットを記録したのを皮切りに、「innocent world」で過去の自分と決別し世間の注目の的という「壇上」へと駆け上がる決意を述べたかと思えばそれが約200万枚のヒットを飛ばし、その後リリースされた4thアルバム「Atomic Heart」は約343万枚というトランプ大統領も絶句し言葉を見失い半年もの間ツイートができなくなってしまうような枚数を売り上げた。その後もまさにとどまる事を知らない時間の中で「Tomorrow never knows」という名曲を解き放ってしまい約276万枚を売り上げ結果的にMr.Childrenのシングル史上最大のヒット作をこのタイミングで生んでしまう。もはや何を出しても売れるので、カツカレーについてくる甘めの福神漬けのような箸休めと見せかけて実はその福神漬けは激辛でしたさあここらで世間に一発喰らわせてやろうお前らこんな曲でも金出して買うのかよという何とも香ばしいハングリー精神丸出しで「everybody goes ~秩序のない現代にドロップキック~」という何の捻りもないストレートなタイトルの曲をノンタイアップで世間に突き付けるもその激辛福神漬けすら約124万枚を売り上げる始末であった。その後も「【es】~Theme of es~」「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~」「名もなき詩」「花 -Memento-Mori-」とシングルをリリースし「ミリオン・ミリオン・ダブルミリオン・ミリオン」という昭和のアイドルのヒットソングのタイトルにありそうな売り上げを重ね続け気づけば時は1996年。初のミリオンヒットを記録してから約3年の間にこれだけの事象が巻き起こった。これが世で言う「ミスチル現象」である。 
 

そんな「ミスチル現象」の終焉を自ら告げるように1996年6月24日にリリースされたのが5thアルバム「深海」である。ファンの間では「絶対にシャッフルで聴いてはいけないアルバム24時」「死んでもシャッフルするな」「曲順で最初から最後まで通しで聴かないと意味がない」「アルバム全体が1曲」「アルバム全体が究極の1つの物語」と評される。それはまるでMr.Children界のサンクチュアリであるかのような扱いで、他のどの曲の介入も許さない結界を張っているかのようである。そんな、聖域と称すことも決して大袈裟に感じられないこのアルバムは人々に「名盤」と称賛される。  
 

では、なぜ「深海」は「名盤」なのか。
私には全くわからなかった。 
 

音楽に対して「わかる」だの「わからない」だのと言うことが究極に野暮だということは重々承知している。King Gnuがヌーの王様だとしたら私はKing Yaboとして野暮の王様となろう。それでも言いたい。「深海」のことが全くわからなかった。私は今まで「深海」を聴いてはいたが、近寄ろうとしたことがなかった。中学生の時に気になる先輩がいてずっと遠くから眺めていたが、話しかける勇気が出なかった。そんな具合だ。1996年の私は5歳。いくら文章で「ミスチル現象」を知ろうとも、「当時リアルタイムで時代の潮流を感じていなかった自分には当時のMr.Childrenが、桜井和寿が体感していた壮絶な状況を理解できるはずがない」と諦めていたのだ。たかが音楽を聴くのにいちいち時代背景やアーティストの心情を探ろうとしてしまう時点で、私が全日本面倒くさい女選手権ベスト16に勝ち残るくらい相当に面倒くさい女だということをどうかご理解いただきたい。
 

 音楽を作って、売れて、雑誌のインタビューで公然と『死にたい』『本当に自殺しようかと思った』と発言する状況、その精神状態とはなんだろう。何がそうさせたんだろう。時間は決してさかのぼることはできない。自分が生まれてくる時代を選ぶこともできない。私はずっと「深海」に対してピンとこないまま生きていくんだ。あーあ、これの何が名盤なのか知りたかったのにな。そうして完全に匙を投げていた。2020年1月15日、King Gnuがアルバム「CEREMONY」をリリースするその日まで。  
 

私は慌てて遠くに放り投げたスプーンを拾いに走った。「CEREMONY」の中の「壇上」という曲を聴きながら。今を逃したらあの日放り投げたそれを見失ってしまう気がする。まさか、24年後にリリースされた全く関係ない他のアーティストのアルバムに「交差点」があったとは。  
 

常田大希はアルバムリリースにあたり行われた雑誌のインタビューで『結構ねぇ、ベッドから起きられないみたいな時期もあって。鬱の症状らしいんだけど。』『”壇上”はKing Gnuを解散したいなあと思って(笑)。結構追い詰められてた時だったんで。紅白も出るし、そこで解散してアルバム出したら、もう一生暮らせるのかな、みたいな。』と漏らした。以前のインタビューでは、King GnuとしてJ-POPに根付いた音楽を鳴らすにあたり邦楽の潮流を知るため宇多田ヒカルやMr.Childrenを意識して聴いたという趣旨の発言をしていた。「CEREMONY」はシャッフルで聴く気も起きない、途中から聴く気も起きない、1曲をリピートする気も起きない不思議な聖域性を秘めている。私はついにそれを見つけ、拾い上げる。今なら、何かを掬い取ることができる気がする。 
 
 
 

 アルバムを世に放つことそのものが「儀式」だったから、「名盤」なのだ。  
 
 
 

「深海」は全14曲で構成されている。
 

イントロである1曲目「Dive」。水面を分け入って一歩ずつ歩いていき水の中へ飛び込む音が聴こえた後、鎖のようなものが擦れる音がどんどん遠ざかっていき、荘厳で重厚なチェロの音が流れ始める。地上で縛られていた鎖から解き放たれ海の底へと沈みゆく様子を1分36秒のインストゥルメンタルで表現する様子はなんとも秀逸である。言葉などなくても、いや、言葉がないからこそ、音は何かを伝えられるのだと思い知らされる。 
 

 その後は「シーラカンス」「手紙」「ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~」「Mirror」とお世辞にも大衆受けするとは言い難い曲目が続く。
 
《彼は重い鞄を引きずって 
 街中を駆け回ってるビジネスマン
 追われるように過ぎ去っていく暮らし
 夢見たもんと遠く離れていた
 苛立っていた 戸惑っていた》 

今の自分が抱えている苦悩は特別なものではなく、一般的な《ビジネスマン》が抱えるそれと本質は一緒なのだと自分自身に懸命に言い聞かせるようなライティングだ。幸せとは、愛とは、自分とは。鏡に映る自分を見つめながら一貫して彼は探し続ける。そして世間という地上を離れ徐々に深い海の底へと沈んでいく様子が見てとれる。  
 

インタールードとして挟まれる6曲目の「Making Songs」では複数の謎のデモ音源がガチャガチャと切り替えられる。それはこのような状況に置かれてもなお音楽を作らなければならなかった彼の混沌とした脳内が投影されているかのようだ。そのラストから地続きで、このミスチル現象の最中リリースされた数々のシングル曲からたった2曲だけこのアルバムの収録曲として選ばれた内の1曲である「名もなき詩」へと入る。 

《愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物》 

というライティングは 

《「愛は消えたりしない 愛に勝るもんはない」なんて流行歌の戦略か?》 

と、ありふれた世間に毒づき愛とは何かを探していた彼が一つの境地に達したことを感じさせる。何かにつけて服を着せ戦略的な「流行歌」とは真逆の、裸一貫とも言える「名もなき詩」というタイトルでベロを突き出しながら「愛とは何か」を世間に突きつける様は異質な爽快感を感じさせる。 
 

直後に1分48秒の底抜けに明るくも現実を直視する弾き語り「So Let’s Get Truth」が流れ、一つの境地に達した彼は軽快な振りをして「真実」を探しに出かけるようだ。  
 

次に「臨時ニュース」という15秒のインストゥルメンタルが挟まれる。正体不明の多国籍なニュース音声の中でテレビのチャンネルを変える無機質な音が鳴り響く様は、世間の注目という雑踏に踏み潰されぬようその感受性を塞ぎあえて無機質で居続けなければならなかった当時の桜井和寿の混沌とした心の内を思わせる。直後に放たれる「マシンガンをぶっ放せ」はまさに世間の注目という雑踏に向けた直接的なアンサーソングであると捉えられ、次に8分52秒という驚異の長さを誇る曲「ゆりかごのある丘から」が始まる。彼にとっての「戦場」とは「音楽業界」のことだったのだろうか。この曲で聴こえる何かの飛行音は戦場を飛び交う戦闘機のメタファーか、それとも執拗なまでに彼を追い続けるマスコミのメタファーか。  
 

そこから始まる「虜」は歌詞を読むだけで心が切り刻まれる。Mr.Childrenの桜井和寿ではなく「櫻井和寿」という一人の人間にまとわりつく個人的な問題が投影されているように思える。浅薄な愛を歌う音楽がこの世には溢れ返っているが、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。結局、事実に勝る創作などないのだと痛感させられる。そしてその個人的な問題を評価できるのは、世間の声という有象無象などではなくきっと当人達だけだ。他人の声など、何の意味も持たない。  
 

そして選ばれたシングル曲2曲の内の最後の1曲「花 -Memento-Mori-」が始まる。「深海」というアルバムの中の13曲目として聴くこの曲は私が今まで知っていたこの曲ではなかった。 

《負けないように 枯れないように 笑って咲く花になろう》 

というのは決意などではなく一種の諦めだったのかもしれないと気づく。「メメント・モリ」というのは「人間はいつか必ず死ぬということを忘れるな」という戒めのような意味が込められた言葉だ。人間である自分を自ら殺し、花となり生まれ変わる。ここで一度全てを終わらせ生まれ変わるという、諦めという名の「誓い」を立てたのがこの曲だと思った。
 

最後にこのアルバムのアウトロである「深海」の冒頭で

 《僕の心の奥深く 
 深海で君の影揺れる 
 あどけなかった日の僕は 
 夢中で君を追いかけて 追いかけてたっけ》 

と海の底からあの日自分が思い描いていた「売れた自分」という幻想と言う名の「シーラカンス」とようやく出会い、対峙する。自分が思い描いていた「売れる」と今自分が実際に体感している「売れる」との壮絶なギャップに、その思い違いに気づかされ海の底でもがき続ける。そしてその幻想は目の前からゆっくりと姿を消していく。 

《シーラカンス これから君は何処へ進化(すす)むんだい 
 シーラカンス これから君は何処へ向かうんだい》 

と消えゆく幻想に救いと答えを求め続ける桜井和寿の姿に心掻き乱されずにはいられない。目の前から消えゆくそれを追いながらラストで壮絶に繰り返される 

《連れてってくれないか 連れ戻してくれないか 僕を 僕も》 

という叫びは、この世の人間がどれだけ地位や名誉や富を得ようとも決して巻き戻すことも進めることもできない「時間」という概念に向けられているように思える。ついに人間がコントロールできないものと対峙し、最後に聴こえるのは水中に漏れる空気の音。その音は、海の底から水面に向け浮上している音なのか、海の底で呼吸を続ける音なのか、海の底で自分の体内の全ての空気を出し切った音なのか。最後の謎を残したまま、このアルバムは終わる。
 

「売れた」ということは一体何だったのか、そこで何が得られたのか、果たしてそれは幸せなことだったのか。その問いと、まとわりつく個人的な問題に自ら対峙し、アルバムを通して現実を全て呑み込み折り合いをつけ終焉を告げる「儀式」を行っていたのだと、私にはそう思えてならない。入学しないと卒業はできないし、結婚しないと離婚はできないし、また離婚しないと結婚はできない。何かを始めることは何かを終わらせることであり、何かを終わらせることはまた何かを始めるということでもある。「儀式」を行い節目をつけ、始まりと終わりを繰り返すことで時代は、また人生は進んでいく。桜井和寿が「ミスチル現象」という時代を、世間の注目の中でのMr.Childrenという存在を、そして己の人生すら一度終わらせるための「儀式」が「深海」だったのだと思えた。  
 

人は一度しか生きられないと誰が決めたのだろう。それは恐らく肉体的な意味合いでしかない。きっと人は精神的な意味で何度でも終わることができる。そしてまた何度でも生まれ変わることができる。

《そう何度でも 何度でも 僕は生まれ変わって行ける》 

と2002年5月10日、デビュー10周年の記念日にリリースしたアルバムの1曲目で二車線の国道を跨ぐようにかかる虹にカメラを向けながら高らかに歌っていたのは、この時海の底に沈んでいったのと全く同じ人間である。底に落ちることを恐れてはいけない。底まで徹底的に落ちる。底に足をつけ、渾身の力で底を蹴りあげる。そうしてまたのぼっていける、何度でも生まれ変わっていける。「何度落ちてももう一度生まれ変わることができると、自分自身を信じられる人間でありたい」というマインドを今もなお音楽という形で伝え続けてくれているのがMr.Childrenだ。  
 

1996年と2020年。
 

それぞれの時代は何もかもが違う。1996年を生きた人々はポケベルとPHSを持ち、2020年を生きる人々はスマートフォンを持つ。2020年の今、もはや街を歩く人々は全員がパパラッチであり警察官だ。人々は簡単に証拠を撮影し、簡単に拡散し、簡単に人間を社会から抹殺する。1996年は自宅に押し掛けたりホテルで出待ちをしたりすることでしかアーティストの挙動を知る術がなかったのかもしれないが、今やアーティスト本人が24時間で消えるSNSツールを使いご丁寧に自らの挙動を晒し上げてくれている。
 

かつての売れっ子は自宅や実家や宿泊先のホテルに押し掛けるファンに悩まされファンクラブの会報に「次に家にファンが来たらMr.Childrenをやめる」という意の一言を記し、現代の売れっ子はSNS上でのクソリプや誹謗中傷、真偽不明の情報が瞬く間に拡散されプライベートで自分に一般人のカメラのレンズが簡単に向けられることに悩まされ【嫌な奴らってのが沢山いることは最近よく分かったけれど、それでも世の中良い人間がほとんどだって信じてる。人の悪口言うやつ、後ろ指差すやつ、嫌がらせするやつはずっとそのままだ。置いていこう。おれは信じられる人達と前向いて歩いてこう。】【ミレパのライブは仲間達が沢山集まるSHOWだってこともあり,もしかしたら知ってる有名人達を会場で見かける事もあるかもしれないが,一応注意喚起しとくと,それでわーきゃーなったり写真撮ったりそんなダサい事はするんじゃねぇ. どいつもこいつも平等にSHOWを楽しめ.くだらねえ.】とSNSで発信する。
 

芸能人と一般人との距離感はSNSの発展により大きく変わりつつある。以前はファンレターを出すことでしか自分の気持ちを伝えることができなかったのかもしれないが、今や自宅のソファに寝転がり左手の人差し指で鼻をほじりながら右手の親指でスマホの画面を撫でるだけで本当に本人に届いているかはさておきいとも簡単に十年来の親友であるかのような馴れ馴れしいメッセージを送りつけ一方的に自分のお気持ち表明ができる。簡単に「一方向コミュニケーション」を行い自己満足することが可能となったある意味とんでもない時代である。SNSの発展による距離感の変化が生んだ功罪は大きい。 
 

 時代により悩みの形態は違えど、いつだって、誰だって、人間は人間に悩まされる。どれだけの才能を持つ天才や鬼才であっても「世間の注目」という一般人の集合体に悩まされる。例えば映画「ボヘミアン・ラプソディ」では、フレディ・マーキュリーが彼のプライベートやセクシュアリティを探る質問を好き放題投げかけてくるマスコミに悩まされる描写があった。そのような局面において、大スターである彼らも自分が一人の「人間」でしかないことを痛感するのであろうし、我々もまた彼らが一人の「人間」であることを思い知る。いつもアーティストとして完璧な表情を見せている彼らがそうして一人の人間としての「隙」を見せた時、我々はまたその音楽に垣間見える人間性に揺さぶられ深く吸い寄せられてしまうのだろう。結局、何が起ころうとも音楽は人間対人間を行き来するという構図は変わらないのだから。  
 

「売れた」という同じ現実の中で、1人は深い海の底に沈んで儀式を行うことを選び、1人は壇上に立ち儀式を行うことを選んだ。1人は海の底を泳ぐシーラカンスという幻想を追い、1人は汚れた部屋という現実をただ見つめた。1人はそのアルバムからヒットソングを可能な限り排除し、1人はそのアルバムにヒットソングをこれでもかと盛り込んだ。一方のアルバムのジャケットは死刑執行のための道具である電気椅子を模した椅子が海の底に置かれている様子で、もう一方は聴衆の頭上に浮かぶ金色の物体に収まり過去作のジャケットの紙吹雪を舞わせる王の様子だ。そのような点が見事に真逆であるという所も興味深いものである。
 

その場所や形態に正解などない。「儀式」を行い何かを終わらせることが重要なのだ。「深海」がリリースされなければそのタイミングでMr.Childrenは音楽業界からドロップアウトしていたかもしれないし、「壇上」がアルバムの中に収録されなければKing Gnuは節目をつけられず、また新たに次へ向かおうというマインドを蓄えることができなかったかもしれない。自分の苦悩を音楽として昇華し、人前に晒す。簡単そうに思えるが、それをするのには並々ならぬ覚悟が必要なはずだ。2020年に常田大希が壇上に立ってくれたおかげで、私は1996年の桜井和寿がいた深海へと潜ることができた。誰かがくべた火が、時間を越えまた誰かの火を呼び起こすことがある。改めて、ただの一般人こと私は両者に惜しみない感謝と敬意と称賛を送りたい。
 
 

「売れる」「売れ続ける」というフェーズを超え、「時代と交差することができる」アーティストは、きっと人差し指の腹の上に残った砂粒にフッと息を吹きかけそれでもなお残った砂粒ほどであろう。   
 
 
 

時代は違えど、「売れた」という場所から2人が見た景色は同じだったのかもしれない。  
 
 
 
 

※文章中の『』内の発言は   ロッキング・オン・ジャパン 1997年6月号 
 MUSICA 2020年2月号、ロッキング・オン・ジャパン 2020年2月号より引用
※表記のない《》内の歌詞はMr.Children「ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~」「蘇生」より引用
※文章中の【】内は 2019年12月10日、井口理(@Satoru_191) 
 2019年12月5日、常田大希(@DaikiTsuneta)のツイートより引用
 


 
講評
King Gnuが『CEREMONY』に込めた思いとMr.Childrenが『深海』に込めた思いを対比させ、それぞれのアルバムの意義について書かれた作品。どちらも大ブレイクを果たした後の作品であるという共通項を見いだし、急激に変化する状況への戸惑いを、どのように作品に昇華したのかという観点で書かれた楽曲レビューは読み応え十分。『CEREMONY』を聴いて『深海』を連想する独自性の高さ、時代背景にも踏み込んだ考察はとても興味深い内容でした。

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