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00年代のベックのことと、大島弓子。

我々は消費するために生きている、只野一郎だ。

レディー・ガガがベック・ハンセン(以下ベック)のことを、「私のジェネレーションにとってのデヴィッド・ボウイ」と呼んだことがある。なるほど、ベックは『メロウ・ゴールド』『オディレイ』でも『ザ・インフォメーション』でも、常にボウイみたいに、時代の鏡となって、我々の欲望を表現してきたように思う。今現在、殆どのベックの作品はオンラインで聴ける。そのどれを聴いても、内省的で、孤独である。「俺は負け犬だ」「殺せよ」と歌っていたころから、そうだったと思う。

日本だと、ベックの音楽は「内省的」「脱力系」と言い表されがちだ。
たしかに、ハードロックやオーソドックスなロックみたく、分かりやすさはあまりない。だけど、それで済ませていいのだろうか。聴きやすいポップスだから、脱力系なのか。汚い、下品な言葉を使わないから、内省的なのか。
私がベックを聴き始めたのは、『オディレイ』か『メロウ・ゴールド』だったと思う。やはり穏やかなロックで、聴きやすい。取っつきにくさがないので、仕事に行く前にも、帰ってきてからも聴ける。

私も、ベックは、現代のボウイだと思う。大島弓子の漫画に出てきてもおかしくない風貌で、人々の孤独や寂しさを表現している。
これを書いている最中にも、スマホで『ミューテイションズ』がかかっている。今、深夜だが、すうっとアタマに入って、消化できている。それほどに私の脳味噌が00年代初頭なのか、あるいは90年代末期なのか。ともかく、ボウイのように、リスナーの欲しいものを提供している。人々の欲望を分かっているのだ。それが顕著なのが、2002年の『シー・チェンジ』だと思う。イギリスで『キッドA 』『アムニージアック』が発表され、片やアメリカではストロークスやホワイト・ストライプスが出てきたころのこと。ロックとはそもそも何であるか、ロックはどうあるべきかが問われていた時期のことだ。

ベックは『ザ・ゴールデン・エイジ』『ペーパータイガー』という極めてトーンの穏やかな曲で、虚無を歌っている。まるで日本のお坊さんみたいである。まさしく、デヴィッド・ボウイだと思う。ロック・ポップスというフォーマットがもはや過去のものになりつつあり、その動き、大衆の移ろいを、これまたゆるやかな、あえて悪い言葉を使えば軟弱な曲調で、言い表していた。
2020年の今、『シー・チェンジ』はもう過去のものだ。デヴィッド・ボウイの『ヒーローズ』が当初は新しかったが、今聴くとそうは思われないように。

『グエロ』『モダン・ギルト』という00年代の作品も、漏れなく傑作である。イギリスでコールドプレイが、アメリカではマイケル・ジャクソンが裁判中で、ビヨンセやレディー・ガガが出てきた頃のことだった。もうロックが完全に古くなっていて、我々もとうにギターロックを過去のものとして消費していた。『モダン・ギルト』を残して、ベックは沈黙する。不思議だけど、デヴィッド・ボウイが『ヒーザン』『リアリティ』を発表して一時消え去ったのと、似通っている。

『モダン・ギルト』は素敵だった。というより、ロックがとうに終わった時代で、ベックは気を張らずに、自然体を装っていたようにも思う。もう、自分の時代じゃないと分かっていて、療養の時期に入っていった。歌詞もどこか平凡だったと思う。サウンドは相変わらず、カッコいいのに。

そして2014年。前年にボウイが『ザ・ネクスト・デイ』で全世界を歓喜させたように、復活した。『モーニング・フェイズ』は文句なしに素晴らしい。時代はEDMだというのに、華麗で美しいポップスを披露して、我々ファンの前に現れた。
その間の6年間の沈黙の間、私自身は、体調不良と大学の中途退学が重なり、苦しく辛い時期があった。今でこそ定職があるけど、10年代の初めは辛かった。ベック自身も、デヴィッド・ボウイも、その間は闘病していたのではないか。2009年に、マイケル・ジャクソンが亡くなる。レディー・ガガが出てきて、EDMの全盛期がやってくる。ロック・ポップス受難の時期だった。

『カラーズ』『ハイパースペース』と連続して、作品を発表。これがまた傑作だった。90年代から活動している人間は、大半がくたばっているというのに。なのにベックは、大島弓子『ダリアの帯』の黄菜のごとく、若い風貌をしている。
『ダリアの帯』の黄菜は、妊娠していたところを、階段から転げ落ちて、狂ってしまう。只野一郎は、黄菜の奇行に振り回される。なぜこの作品を思い出したかというと、いつまでも年をとらない黄菜が、変にベックを思い起こさせるから。そして、振り回されている只野一郎は、常に欲望を追い求めている、我々一般人に、どこか重なるからだ。
我々一般人は、ボウイやベックのような、ポップスターに願望を、欲望を被せ、込めて、消費してしまう。あるいは自分がポップスターになった気分になってしまう。ステージ上で表現している人間は、赤の他人に過ぎないのに。只野は、黄菜のおかしな振る舞いに四苦八苦する。何も黄菜本人になったわけでもないのに。同じ家に住んでいるだけで、ほんらいは他人である。

私たちは、マドンナやマイケル・ジャクソンに己が願望を込めて、彼らの振る舞いに一喜一憂する。ポップスターに、自分を投影してしまう。だがそれは一時のことである。所詮は他人なのだから。いつかは、ボウイのように、いなくなってしまう。80年代に人気だったマイケル・ジャクソンも、とうにこの世にいない。この世にいないのは、既に使い古され、消費されたからだ。我々は、ボウイやマイケルの死に一寸の責任もないと、言い切る自信があるだろうか。大仰なことを言えば、かつてのドイツには、ヒトラーがいた。ヒトラーはまさしく、当時のドイツが生んだポップスターではなかったか。
我々は、只野一郎なのである。ボウイや、ベックは、黄菜である。
黄菜は、今も生きているだろう。我々の欲望が死に絶えない限り。使い古されて、マイケル・ジャクソンは、死んだ。
ボウイは、どうやら黄菜のように、今も聴かれている。生きているのだ。さっき、ボウイもマイケルも死んだと書いたが、マイケルだって、レコードやCDは未だに生きている。ポップスターは、姿は死んでも、音楽や映像までは死なないのだ。悲しいかな、ヒトラーですら、本人は死んだが、その振る舞いや信条はかすかにだが、しぶとく生きている。

話がそれたけど、只野一郎たる我々は、ベックを聴き、消費している。それは、自然なことである。70年代にはボウイがいて、80年代にはマイケルがいた。今、我々には信仰の対象物がいくらでもある。インターネットに少しつながれば、Youtubeを見れば、いくらでも出て来るではないか。Apple Musicにも、聴き飽きる(私は飽きないが)ほど対象物がヒットする。
ベックは昨年、『ハイパースペース』として我々の前にまた現れた。00年代の、学生の私は『オディレイ』『メロウ・ゴールド』を夢中で聴いていたが、どうやらまだベックは生きている。月曜になれば、出勤の準備がある。今日もシフトが入っている。私も、生きて、また彼らを消費していくのだろう。

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