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人生で一番F5キーを押した日の翌日に米津玄師を見た話

「生と死の境界線」を引きその果実を切り分けられるのは彼だけなのかもしれない

2020年2月22日、私が人生で一番F5キーを押した日である。
 
 

令和2年2月22日だからといって、世では婚姻届を提出するカップルなんていうのも多かったのかもしれない。だが私は違う。ただひたすらF5キーを押していた。おそらく2億回は押しただろう。嘘だ。私はその日19時頃にPCを開き臨戦態勢に入った。そして約3時間F5キーを押し続けた。1秒に1回ペースで押したとしても1分で60回、1時間で3600回、3時間で10800回である。2億回なんて大嘘の中の大嘘である。そして途中でトイレにも行ったしコーヒーを淹れに行ったりもしたので1万回も押していないのは確実だ。だとしても、少なく見積もったとしても、数千回はF5キーを押している。最初は中指で押していたが1時間ほど経っただろうか、中指が「もう無理です」と悲鳴をあげた。やむなく人差し指と選手交代する。また人差し指も「なんか指の筋がおかしいです」と悲鳴をあげた。手先を尋常ではない冷えが襲う。薬指に選手交代させ、ついでにスマホをタップし聴いていた音楽を変える。気晴らしをしよう。気晴らしでもしないと気が狂いそうだ。音楽を聴きながらF5キーをひたすら押し「×」を何千回も眺めていると何の感情も湧いてこない。無だ。無の境地に達しそうだった。もう少しで悟りを開いてしまいそうだ。
 

こうなったら仕方ない。最終秘密奥義、King Gnuを起動する。今をときめく最強のバンド。彼らの力をもってすれば今できないことは何もないはずなのだ。最新アルバム「CEREMONY」を再生し始める。F5キーを押しながら私は歌う。アルバムは3曲目に差し掛かる。私は私の中に潜むTeenagerな部分を爆発させながら熱唱する。F5を連打しながら「Teenager Forever」を歌う女。狂気だ。狂気的すぎる。しかし今は家に誰もいないから良いのだ。私は自由だ。すると画面に「◯」が現れた。今だ。「ニーヨンゴーハチサンロク!!」と曲の勢いのまま数字を読み上げ自分の持つ最速のスピードで数字を打ち込み、最速のスピードでカーソルを動かしピンクのボタンをクリックする。今までで一番速い自信があった。すごい。もしかしたら「Teenager Forever」は脳細胞を活性化する効能を持っているのではないか。恐ろしい話だ。見たことのない画面が出てきた。きた。これはきた。やったかもしれない。初めて先に進めた。ここからは焦る必要はないはずだ。慎重にチェックボックスにチェックを入れ、決済方法を選択する。胸の高鳴りを抑え、静かにボタンをクリックする。すごいなKing Gnu。今の彼らに「不可能」はないのかもしれない。
 
 
 

2020年2月23日の米津玄師のライブに行けることになった。
 
 
 

ここで私の「米津プロフィール」をご紹介したい。知っている曲は「Lemon」「LOSER」「ピースサイン」「まちがいさがし」「パプリカ」「馬と鹿(サビのみ)」「Flamingo(サビのみ)」「orion(サビのみ)」以上である。彼の名前を必ず「よねづ げんし」と一度読み間違えてから「ああ違う違う・・・げんと読むと見せかけてけんだったな。けんし。よねづけんし。」と確認しないと正しい読み方にたどり着くことができない呪いにかかっている。こんな所だ。にわかファンだとも名乗ることができない。ただの米津素人である。もはや米津素人と名乗ることすらおこがましい。私などただの「人間」でしかない。そういった所だ。
 

となると、そんなことをこの世知辛いネット上で言おうものなら「本当に行きたいと思っている人もいるのに」「そのチケットを本当に行きたい人に譲ってほしい」「興味のない素人は来ないでほしい」という大変有り難いお言葉を頂戴することもあろうと思うのだが、本来ライブというのは「ファンクラブ限定ライブ」だとか銘打っていない限り誰でも行っていいのである。古くからのファンだろうが、最近ファンになった新参者だろうが、何も知らない人だろうが、耳が聞こえる人だろうが、聞こえない人だろうが、誰だってお金さえ払えば参加する権利がある。むしろ、私のような温度感の低い素人に「なぜか知らないけど興味関心がわいてくるので見に行きたい」と思わせてしまうアーティスト側が、米津玄師がすごいと思うのだ。すごいのは米津玄師である。
 

ではなぜ私のような米津素人がF5キーを2億回も連打することになったのか。
 

2019年、私に突き刺さった歌詞オブザイヤーを受賞した歌詞がある。
 
 

《まちがいさがしの間違いの方に 生まれてきたような気でいたけど
 まちがいさがしの正解の方じゃ きっと出会えなかったと思う》
 
 

私が28回目の誕生日を迎えた5日後に配信されたこの曲のたったこれだけのフレーズが、私が28年間生きてきて物心ついた時からずっとおぼろげに抱えていた気持ちを見事に綺麗そっくりそのまま代弁してくれていた。ずっと喉の奥に詰まっていた何かが綺麗にすとんと腹落ちした。「はあ、そうか。そういうことだったのか。」と、この読み方が一生覚えられないアーティストが28年間詰まっていたそれを取り除いてくれた。「マイノリティ」をテーマにした歌詞などこの世にいくらでも転がっているが、この歌詞は違った。《まちがいさがしの間違いの方》それはきっと幼稚園児でも理解できるフレーズだろう。苦く飲みづらい薬のような難解な言葉よりも、甘いシロップ薬のようなそんな単純な言葉が飲み込みやすかった。
 

幼少期から自分のことを「普通じゃない」と思うことは多々あった。他人から言われる「面白いね」「独特だね」「個性的だね」という優しさのオブラートに包まれた言葉たちは全て「そういうこと」を指し示しているのだということも分かっていた。歳を重ねれば「普通」になれると信じ「普通」になろうと努力していた時期もあったが今ではもうそんなことは諦めた。「普通」とは何か、考えれば考えるほど自分の首を締めるだけな気がしてずっと遠ざけていた。しかしこのフレーズは違う。《まちがいさがしの間違いの方》という言葉にきっとマイナスイメージはない。まちがいさがしという遊びは「正解」と「間違い」があるから成立する。そしてそれは便宜上「正解」と「間違い」という呼び名がつけられているだけで、実は両者は「違う」だけでどちらが正解でどちらが不正解ということはないのだと思う。だから自分が《まちがいさがしの間違いの方》に生まれてきたと思っていたとしてもそれは何らマイナスでネガティブなことではなく、それはそれで何かを成立させるための大切で必要不可欠な要素なのだ。そう、認めてもらえた気がした。
 

正直、音楽や見た目などではなく「こんな歌詞を書く人は一体どんな人物なのか」という人物像だけが気になった。その思いだけで、3時間F5キーを押し続けた。残念ながら私は一度気になったらそれを確かめるまでそうそう諦めない驚異の粘り強さ、悪く言えばしつこさを持っている。そういう訳だ。
 

時代が令和に変わり、天皇誕生日が2月23日になった。それも味方した。もし三連休の中日でなければ、翌日が仕事だったなら、ライブに行こうとは思わなかったかもしれない。いつもはライブ会場に持っていくことなどないiPadを持ち新幹線に乗り込む。仕方ない。この人はサブスクにはいないのだから。テーブルを開き、iPadを置き、YouTubeを再生する。セットリストも事前に調べた。見たって何の影響もない。どうせ大半が知らない曲なのだから。片手でスマホを操作し、Wikipediaを眺める。誕生日が2ヶ月違うだけで、学年は向こうの方が1つ上だけど同じ年に生まれていることを知った。「愛聴していたアーティストはASIAN KUNG-FU GENERATION、BUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、椎名林檎、スピッツ」「小学生の時に流行していたFLASH動画」という文言さえあれば他に何もいらないというくらい、間違いなく同じ時代に生まれ同じ時代を生きていた人間同士だと確信した。
 

そういえば私が初めてBUMP OF CHICKENを見たのもここだったよなと思いつつ、会場へと向かう。会場の周りには親子連れが多くいた。しかし、少し眺めていると、親に連れられているのではなく自分の意思でここに来ているであろう子どもたちが多いことに気づいた。むしろ、親の方が連れられて来ている親子連れといったところだろうか。子どもが親にガチャガチャがしたいとねだる姿は、街のショッピングセンターで見かけるそれとはどこか違う。きっとその子はその動物のキーホルダー自体が欲しいのではなく、その先にいる「米津玄師」を求めているのだろう。大人だってグッズを買う心理は同じだ。別にそのキーホルダーやTシャツが欲しいわけではない。どうしても必要なわけでもない。ただ、その先にいるアーティストを求めているだけだ。
 

子どもとは未来そのものだ。ゲームやインターネットなどいくらでも他に最先端の娯楽があるこの世の中で「音楽」といういつまでたっても形のないものに夢中になっている子どもの姿はどこか眩しい。そんな子ども達が大人になった時、とある音楽に夢中になっている今はかけがえのない思い出になるんだろうなあと思うとなんだかそれだけで微笑ましい。今まで行ったライブではあまり見たことのない光景が新鮮だった。友達同士で肩を並べて楽しそうに歩く中高生、数人で輪になっている若者達、色違いのパーカーを着ているカップル、ガチャガチャで一喜一憂しながら普段伸ばせない羽を思う存分伸ばしているであろうマダム達、一見何事もないかのように歩いているが首にかけたオレンジのタオルから高揚感が滲み出ているおじさま達。なるほど、「2017年ブレイクアーティストランキング」において10~50代の全部門で1位を獲得したのはどうやら事実らしい、と新幹線の中で眺めていた知識を現場で再確認する。
 

会場に入り、スタンドの最上段の1つ下の段へと向かう。高さはあるもののちょうど会場の中心あたりで、演出が良く見えるなかなか良い席だ。そもそも、ドームに行き慣れているとアリーナ会場という時点で「遠い」という概念は私にはない。どこでも近いのだ、アリーナは。両隣の人も1人で来ているようだった。いつもならおひとり様が隣でその人が壮絶な話しかけるなオーラを発していない限りは必ず話しかけてしまう所だが、今日はなにせ私は米津素人なのである。話しているうちにうっかり口がすべって「いや〜、米津で1曲全部まともに知っててカラオケで歌えるのってLemonとLOSERくらいなんですよね〜」などと暴露してしまい相手のご気分を損ねたりしたら申し訳ないし、仮に「2枚目のアルバムだったらどの辺の曲がお好きですか?」と聞かれたりしたら「えっと・・・やっぱりグロレボとかグングニルはもう中学の時は自分のテーマソングみたいにしてましたね・・・あとこの頃はKとかエバラスとかそういう物語系の極致みたいな曲が多いのが良いですねぇ・・・KのFLASH動画が懐かしい・・・あ、バンプの2枚目の話ですけど・・・」という会話のキャッチボールのキの字の一画目にも到達できないような返ししかできないのである。危険だ。危険すぎる。とりあえず、全く眠たくはなかったが寝たふりをしてやり過ごした。
 
 

今まで見たことのないような先鋭的な演出で、会場にいる全員の心の目を一斉にバッと覚まさせるかのようにライブが始まった。
 
 

そして、このライブの中の1曲で、彼が「次の曲は、自分の特別な想いをのせて作った、自分にとって美しくて大切な曲です。」と自身にとって「特別な曲」であるという前置きをしたその1曲で、どうにもこうにも当分忘れられないようなものすごい体験をした。
 
 

「こんな歌詞を書く人は一体どんな人物なのか」という私が抱いていた疑問に対して、この1曲で全て答えが出た。
 
 
 

多分この人は「この世とあの世に片足ずつ突っ込んでいるアーティスト」なのだと思った。
 
 

そんなことを言うと、なんだか宗教じみたような表現になってしまうような気がするのだが、断じて違う。むしろ、彼はどこまでも「現実」を直視していると感じた。昔は「死」というのは特別なものであり忌み嫌われ穢れをまとったものであるという価値観が根強かったのかもしれないが、最近はそんな概念すら徐々に移り変わっているような気がする。彼は「死」という概念すら変えようとしているのではないか、この曲を聴いて素直にそう思えたのだ。
 

生と死は常に隣り合わせにある。人間は普段「死」を意識せず生きるようプログラミングされている。自分がいつか必ず死ぬのはわかっているはずなのに、毎日毎分毎秒「自分は死ぬかもしれない」「大切な人が死ぬかもしれない」と思いながら生きている人はあまりいないだろう。そんなことを常に考えていれば心が疲弊するだけだし、何もできなくなってしまう。本来人間は「重大な事実」からは目を背けある程度楽しく生きていけるように、最初からそうなっている。でもきっと彼はそうして人間が本来組み込まれているプログラミングから少し外れた、いわゆる《まちがいさがしの間違いの方》の人間なんだと、そう思った。
 

その曲を聴いている時、私は少なくともその会場にいなくて、他の観客も誰もいなくて、米津玄師すらいない場所に連れて行かれていた気がする。それくらい、本当に何も考えられなかった。自分の意思で自分の思考をコントロールすることすらできなかった。ライブに行っているとたまに「何も考えられない」瞬間に出くわすのだけど、まさにそれがこれだった。映像と演出と音と声が織りなすその大きな波に飲み込まれ、彼にだけ見えているその「生と死の境界線」に連れて行かれたような、そんな感覚だった。
 

そういえば彼の作る曲にはよく「幽霊」というワードが出てくる。「幽霊」と聞くと一見気味が悪いものに思えるが、例えばそれが自分の知っている人や大切な人の「幽霊」なら気味が悪いどころか怖くもなんともないしむしろ会いたいとすら思ってしまうのではないかと思う。彼のヒット曲となった「Lemon」でもどこか生と死の境界線をなぞっているようだし、きっと彼にとって生と死はかけ離れたものでも異なったものでもなく《切り分けた果実の片方の様に》限りなく近くで隣り合わせになっている同一のものなのだろう。
 

この日のMCでも「ずっと1人で穴を掘っていたら限界がきた。死のうと思った事もあった。でも、周りに誰かがいたから今こうして歌うことができている。自分1人では何もできない。周りの人や、映画や音楽や、俺にでも良いから歩み寄って欲しい。」というようなことを言っていた。彼の過去にはWikipediaには載っていないような何かがあったのだろう。それを知る由はないが、彼はきっと「孤独」と「死」を知っている。この世に「死」を知っている人は厳密に言えばいないのだが、彼はそこに限りなく近い場所を見たことがあるのではないだろうか。そんな彼の作る音楽には、気づかないけれどきっといろんな所にさりげなく「死」が転がっている。もはや国民的楽曲となった「パプリカ」にも、その明るい曲調の片隅に転がっている哀愁を感じるのだがきっとそういうことだろう。この世に死なない人はいない。大事な人を失わない人もいない。だからこそ老若男女問わず人々は知らず知らずの内に彼の音楽の中に自分との共通項を見つけ、言葉も理由もなく惹かれていくのではないだろうか。
 
 

最後のMCで、みんなと何か約束をしたいけどいい約束が思いつかないと悩んでいた彼が最後に捻り出した約束はこれだった。
 
 

「じゃ、それまで、死なないでね。生きましょう。」
 
 

ミステリアスな人に、秘密を持った人に人は惹かれるとよく言うけれど、きっとその通りだ。
 

多分きっと、彼は何かを知っている。
 
 

※《》内の歌詞は菅田将暉「まちがいさがし」米津玄師「Lemon」より引用

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