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藤原基央の決心 志村正彦の決断 それぞれの覚悟の行方

BUMP OF CHICKENとフジファブリックの楽曲に基づき、両者の相似性を正しく証明する

2018年12月から音楽文にて「藤原基央」または「藤くん」と数え切れないほど書き続けていたら、なんだか藤の花が気になり出した。
2019年5月、とある山中の公園が藤の花の名所だと知った。山道を車で上り、その公園に行ってみた。訪れた時間帯は夜だったのだが、外灯さえない。スマホの明かりで周囲を確認しながら、藤の花を眺めた。というより花の香りを嗅いでいた。藤の花って薄紫色がキレイだから昼間だったら、まず視覚で楽しんでしまうものだけれど、夜だと色が確認できない分、嗅覚の方が敏感になってしまう。こんなに甘い香りがするものなのかと初めて知った。スマホで写真を撮ったら、花の色をやっと確認できた。漆黒の闇に薄紫色が映える。遠くの月もぼんやり写り込んでいた。ふと蛙の鳴き声に気付く。藤の木の反対側には沼があった。こんなところに沼があったのかとようやく気付いた。魚が跳ねて、水の音も聞こえた。山の中の沼の周りに藤の花…月が笑っている気がした。
季節は巡って8月。BUMP OF CHICKENのアルバム『aurora arc』を堪能しつつ、相変わらず私は「藤くん」を書き言葉上で連呼していた。ふとMステでフジファブリック「若者のすべて」を耳にした。そう言えばカバーで聞いたことのある曲で、素敵な曲だなと改めて惚れ惚れしながら聞き入っていた。そうこうしているうちに私はいつの間にやらフジファブリックについての音楽文をしたためるようになっていた。あれだけ「藤原基央、藤くん」と書いていたのに、いつしか「志村正彦、志村くん」という名前を多く書くようになっていた。
フジファブリックのフジは藤ではなく、富士の方だということを知ったり、志村くんはもうこの世に存在しないことも知ってしまった。志村正彦が残したフジファブリックの楽曲は感傷的な曲も少なくない。もう彼は存在しないという事実がますますせつない気持ちを呼び起こさせた。夏の終わり、短い秋の始まり…私はフジファブリックという沼にはまり始めていた。5月に訪れた藤の花咲く沼はフジファブとの出会いを暗示していたのではないかと思ったりした。

とこれまではただの前置きで、真面目な考察はここから始める。
藤原基央経由でフジファブリックに辿り着いたという単純な字面の連想だけではなく、BUMP OF CHICKENとフジファブリックという(※今回は特に志村正彦在籍中の楽曲を中心に)両バンドの曲をひたすら聞き漁っていたら、やっと気付いた。藤原基央と志村正彦が描く音楽の世界が似ていることに。別に「フジ」という響きが似ているからとかそういう単純な話ではなかった。それはただのきっかけに過ぎなくて、実は両者が作る音楽には相似点が多いことに気付いた。完全に一致するわけではないが似ている。二人は1歳違いで同世代だし、運命的なものも感じてしまう。二人の虜となってしまったリスナーの一人である私はこれからBUMP OF CHICKENとフジファブリックの相似性を証明してみようと思う。

具体的に楽曲を挙げながら、見ていくことにする。まずはフジファブの代表曲とも言える「茜色の夕日」について。夢を叶えるために上京してきた主人公が夕日を眺めているうちに過去や君という大切な人を思い出しつつ、星は見えないと聞かされていた東京で希望を忘れずがんばろうと改めて決意するというような、上京したことがある人なら、一度は感じるであろう心境を繊細にかつ的確に表現した楽曲である。
<東京の空の星は 見えないと聞かされていたけど 見えないこともないんだな>
この曲を知って、改めてバンプの曲を聞き返すと、「東京賛歌」と「真っ赤な空を見ただろうか」がまさに「茜色の夕日」の世界観であることに気付いた。
「東京賛歌」において
<嘘が多いとか 冷たいとか 星が見えないとか 苦情の嵐>
<嘘が多いのはどこでもだろう 星が見えたって どうせ飽きるだろう>
と志村正彦と同じような東京の空を歌っている。
夜空を見上げて、過去を思い出して、東京で
<この街だけが知ってるよ 忘れた夢の 引き出しを>
<この街だけが知ってるよ 取り返した夢の その続きを>
と夢や未来に向かって生きていく決心が込められた楽曲である。
これは
<途切れた夢の続きをとり戻したくなって>「若者のすべて」
というフジファブの楽曲にも通じる。
<僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ>「若者のすべて」
「東京賛歌」でも似たニュアンスの歌詞が綴られている。
<空と地面がある街だよ 育った街と どう違うだろう>
<地面も空も 繋がってるんだよ 未来と過去も>
東京と故郷はつながっているんだから、がんばろうと都会に疲れながらも前向きに夢を追いかけようとする姿は志村正彦が描いた世界と似ている。

<夕焼け空 きれいだと思う心を どうか殺さないで>
<大切な人に唄いたい 聴こえているのかも解らない だからせめて続けたい>
<一人で見た 真っ赤な空 君もどこかで見ただろうか>
「真っ赤な空を見ただろうか」はまさに「茜色の夕日」の世界そのもので
<茜色の夕日眺めてたら少し 思い出すものがありました 短い夏が終わったのに 今 子供の頃のさびしさが無い>
童心を忘れたくないのに、忘れてしまいそうな、そんなことを考えることさえ放棄していたのに、夕日が思い出させてくれる大切な心を両者とも歌っている。

今度は両者が歌う唄にまつわる楽曲を見ていくことにする。
唄を歌うことに関しての歌は数が多く、すべてを挙げたらキリがないので、代表曲を厳選する。バンプに関してはまず「ガラスのブルース」が挙げられる。
<だから僕は唄を歌うよ 僕はいつも唄を歌うよ 僕はいつも唄を歌うよ 僕は今を叫ぶよ>
歌詞の全般に渡って歌うことが描かれている。
フジファブ「タイムマシン」において志村正彦は
<大きな声で 歌えば届くかと 出来るだけ 歌うんだ>
というように<君>に届けたいと思いながら、歌っている。
歌で気持ちを届けたいと思うのはミュージシャン特有の感情であるが、特に藤原基央と志村正彦は繊細な気持ちや臆病な心持ちが似ているためか、唄を歌う歌はより際立って似ている気がする。

ということで続いては孤独で臆病で不器用な心情が表れた楽曲を見ていく。
<捨てたくても捨てられなくて 小さな痛み溜まってた>
<別に今更辛くもないけど 誰かが見てくれたらな これだけあれば許されないかな 少し優しくされるくらい>
<捨てたものも拾って詰めて 満タンの箱積み上げた>
バンプの「ハンマーソングと痛みの塔」は次に挙げるフジファブの楽曲たちと同じ世界観だ。
<捨てちゃいけないもの 捨ててしまったんだ また拾って 仕方ないないないや>「Clock」
<誰か僕の心の中を見て 見て 見て 見て 見て>
<言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな 怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな だな>「バウムクーヘン」
<誰か僕に 誰でもいいよ 優しくしてくれないかい>「タイムマシン」
これらはすべてアルバム『CHRONICLE』に収録されている楽曲で、志村正彦の苦悩する心情が色濃く表れている。捨てたり拾ったり、どうにも煮え切らない気持ち、誰かを必要としているのに素直になれないもどかしい気持ちが鮮明に描かれていて、私はこのアルバムを聞いて以来、ますます志村正彦と藤原基央が伝えたい気持ちがシンクロしていると感じるようになった。

続いては起きられない歌と眠られない歌に関して。
藤原基央は「ホリデイ」の中で
<巧くいかない 日々が繋がって いっそ 止めたくなって それも出来ない そんなモンだって 割り切れた訳でもない>
<いいや、ホリデイ 今日は起きないぞ 夢の続き 見るんだ>
とふてくされたように眠くもないのにぐだぐた過ごす朝の心境を描いている。
一方、志村正彦は
<今日も眠れずに 眠れずに 時計の音を数えてる>
<夢が覚めたらまた ひとりぼっち また戻って 仕方ないないないや>「Clock」
と寝つけない夜の孤独な気持ちや、眠れたとしても浅い眠りで夢から覚めてまた孤独を感じてしまう夜の心境を描いている。
なかなか夢が叶わず思い通りにならない現実よりも、願いが叶う夢の中にいた方が幸せだなとこの時、藤くんも志村くんも考えたのかもしれない。

そして「ホリデイ」の歌詞には<花>が登場する。
<君に貰った花 3日と持たず 枯らしたよ>
<君に貰った花を 買って帰ろう>
花が象徴的なモチーフとして描かれている。
志村正彦も<花>を歌詞のモチーフにすることが多かった。
<つぼみ開こうか迷う花 見ていた>
<花のように儚くて色褪せてゆく>「花」
<帰り道に見つけた 路地裏で咲いていた 花の名前はなんていうんだろうな>「ないものねだり」
花に自身の気持ちを投影させたり、純粋に名も知らぬ花にたくましさや美しさを感じる志村正彦の心情がよく表れている。
彼は「桜の季節」、「赤黄色の金木犀」など特定の花をモチーフにしている楽曲も多く作っている。 

藤原基央もまた「ホリデイ」以外でも<花>を巧みに描写している。
「ハルジオン」、「ダンデライオン」、「花の名」など、代表曲のタイトルにもなっている。
「とっておきの唄」の中では
<僕は花をつんで「きみに似合う花なんだろうか」なんて 本気で首かしげたりして>
と歌っているし、
「くだらない唄」の中ではタンポポが象徴的だ。
<神様見渡す限りに きれいなタンポポを咲かせてくれ>
<Tシャツに昨日しみ込んだ タンポポの匂いが忘れらんない>
「続・くだらない唄」においても
<湖の見える タンポポ丘の 桜の木の下で>
とタンポポが登場する。

両者が好んで使用した<花>は売られている上品な花というよりは、野原に咲いている雑草に近い花や自然界の木に咲く花が多い。
人工的に作られた色合いの花ではなく、豪華な生け花に使用されるような主役となる花でもなく、その辺に静かに咲いている、例えば<丘>や<路地裏>に咲いているような名もなき花を多く取り入れている。

<あなたが花なら 沢山のそれらと 変わりないのかも知れない そこからひとつを 選んだ 僕だけに 歌える唄がある>「花の名」
バンプのこの曲においても、別に貴重な花ではなく、その辺にありふれている花なのに、選んだことによってその花が大切な存在に変わるという、意味の成さなかった花に存在意義を与えている。
それは藤原基央だけでなく、志村正彦も然りだ。つぼみの花なんて、開花するまでは何の花かわからないし、普通はあまり興味を持たないのにちゃんと見ているし、<路地裏で咲いていた 花>に関しても、多くの人は見過ごしてしまいそうな存在にちゃんと意味を与えて、歌の主役にしてくれた。

<路地裏>と言えば、藤くんも「流れ星の正体」の中で、<太陽が忘れた路地裏に>と目立たない地味な場所に光を感じさせてくれる歌詞を紡いでいて、やはり二人が日常生活で何気なく注目している視点が似ていると思わざるを得ない。

<花>の次は<星>に関しても同じことが言える。
バンプが宇宙や星に関して多く歌っているのは説明するまでもないが、志村正彦も星(特に月)に関して歌詞の中で多く使用している。
両者とも多過ぎてすべては列挙し兼ねるが、今回は両バンドを並列させて相似点を探る趣旨があるため、それを感じられる曲を選ぶことにする。

バンプの「銀河鉄道」について
<電車の窓はガタガタ鳴く 生きた街を遠ざける>
<誰もがそれぞれの 切符を買ってきたのだろう 今までの物語を 鞄に詰めてきたのだろう>
という歌は
フジファブの「銀河」(タイトル)と「夜汽車」と「花」のハイブリットみたいな歌だと感じた。
<長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む>「夜汽車」
<かばんの中は無限に広がって 何処にでも行ける そんな気がしていた>「花」
これらの楽曲の中には直接、星や月は登場しないものの、夜空の下、明るい未来ではないとしても、希望を頼りに、前に進んでいこうという姿勢がそれぞれの楽曲の中で感じ取れる。

フジファブに関して「お月様のっぺらぼう」、「星降る夜になったら」、「ムーンライト」などがタイトルとして星(月)が使用されている。
<この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか>
<壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです>「同じ月」
このようなフレーズは次に挙げるバンプの曲と比較できる。
<その日 僕を見ていたのは 欠けた月の黒いところ>「ジャングルジム」
バンプの場合、「天体観測」、「プラネタリウム」、「Spica」など挙げ始めたらキリがないほど、宇宙や星に関する曲が存在するが、今回注目したいのは「ジャングルジム」における<欠けた月の黒いところ>である。
月を見ているのは両者とも同じで、志村正彦は月本体を眺め、藤原基央は月の光っている部分ではなく、月の黒い部分に注目している。見ている部分に少しズレはあるものの、それぞれ月から自分を見つめ直したり、過去と向き合う取り組みをしていて、月を味方に楽曲作りをしている。

そして「ジャングルジム」の中には<公園>という場所も登場する。「透明飛行船」の中にも<公園>というフレーズが出てくる。
<公園>は志村正彦も歌詞の中で取り上げている。
<人の少ない公園 速度あげていくボート>「B.O.I.P.」
<二人でちょっと 公園に行ってみたんです>「花屋の娘」
公園は童心に帰れる場所であり、空想にふけることができる場所でもある。二人ともストーリー性のある作詞能力に長けているため、公園は歌詞に描かれる物語のロケーションとしては最適なのかもしれない。

それから両者の歌詞の相似点として一番最初に思いついたのが、<手紙>というモチーフである。
二人ともファンからの声、お便りつまり<手紙>を大切にしてくれている。
2009.3.16<手紙を下さい。手紙はとても勇気づけられます。>『東京、音楽、ロックンロール』より
<ならば愛をこめて so 手紙をしたためよう>「桜の季節」
<手紙に添えられた 写真見たりするんだろな>「記念写真」
このように志村正彦は歌詞の中でも<手紙>という言葉を使用している。

一方、藤原基央も頻繁に<手紙>をモチーフにしている。
「宇宙飛行士への手紙」というようにタイトルに使用されているものもあるし、
<それ故 アンタは冷たくなった 手紙は確かに受け取った>「K」
<せめてその白い手紙が 正しく届きますように>「Aurora」
など歌詞の中で使われている場合もある。
端的に<手紙>という表現は使われていないが、「流れ星の正体」もリスナーからのお便りで勇気づけられたことが元になっているという。
<誰かの胸の夜の空に 伝えたい気持ちが生まれたら 生まれた証の尾を引いて 伝えたい誰かの空へ向かう>
二人の作詞能力は文豪と呼べるほど卓越している。歌詞の表現力がずば抜けていると感じる。言葉を巧みに操る達人の二人だからこそ、リスナーからの手紙、つまり言葉に真剣に耳を傾けてくれるのだろうと思う。

作曲はもちろん作詞能力を多くの人々から認められているというのに、二人とも謙虚で、歌の中では臆病な気持ちをさらけ出してくれた。それがますますリスナーから共感、支持される理由につながっていると思う。決して着飾らず、等身大の気持ちを伝えてくれるから、心に響きやすい。

作詞能力が優れ過ぎているせいなのか、不思議なことに二人とも言葉では表現しきれない心の叫びを、オノマトペの重ね言葉や感嘆詞で表すことが多い。
<無責任でいいな ラララ>「茜色の夕日」
<チェッチェッチェ うまく行かない>「バウムクーヘン」
<僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh~>「同じ月」
これらが志村正彦の心の叫びであるとすれば、藤原基央もまた同じように叫んでいる。
「ラフ・メイカー」では<ルララ ルラ ルララ ルラ>、「才悩人応援歌」では<ラララ>を多用し、歌詞カードには表記されていないが<オーイエーアハーン>「天体観測」の類はかなり多い。

言葉の魔術師だって、本当に伝えたい気持ちは言葉では表現しかねる場合も往々にしてあるのだろう。言葉って思いを伝える一つの手段でしかないから。思いは音で表現したっていいし、ダンスや絵画で表現したっていいと思う。言葉なんて不要な場合もあるのだ。そんな時はラララ、オー、ウーなどで気持ちは伝わってしまう。もしも志村くんが生きていたなら、藤くんと二人でオノマトペの繰り返しのみの歌を作って、デュエットしてほしいくらいだ。気持ちを伝えるのに言葉なんていらないと思わせる名曲が完成するに違いない。「タッタッタッ タラッタラッタッタッ オーイエーアハーン」だけでも歌になりそうだ。
つまり彼らは言葉や音符の力を借りて、思いを伝える達人だとも言える。

そしてさらに、そこから派生して、二人とも実は子ども向けの歌も得意ではないかと考える。実際バンプはNHKみんなのうたに「魔法の料理~君から君へ~」を提供している。他にも「かさぶたぶたぶ」なんていうかさぶたを擬人化した遊び心のある歌があったり、バンプ恒例の隠しトラック自体がその類だなと思う。

歌詞は大人向けかもしれないが、志村くんの楽曲も子どもに受けそうな旋律が多いことに気付いた。
「同じ月」、「ないものねだり」、「タイムマシン」あたりは子どもも興味をひくようなメロディで、みんなのうたで流れてもおかしくない楽曲だなと感じる。
特に「タイムマシン」は童謡というより、合唱曲にもなり得そうだ。「魔法の料理~君から君へ~」が合唱曲の定番となっているように、「タイムマシン」だって合唱曲にふさわしい。歌詞が奥深いのに、メロディが子どもにも馴染みやすいなんて、親子で楽しめるのがバンプとフジファブの音楽だと考える。
重くもの悲しく暗い歌詞だったりするのに、キャッチーなメロディで明るく元気づけるように歌ってくれる。例えばフジファブだったら「Bye Bye」、バンプなら「望遠のマーチ」など。まだ彼らの音楽を知らない子どもたちに心から伝えたいと思える。

この音楽文を書くにあたって『志村正彦全詩集』とバンプの歌詞カードを参考書代わりに使用しているのだが、『志村正彦全詩集』に関しては高校生の頃、世界史の参考書がふせんとマーカーだらけになるくらい使い込んだように、開き過ぎて本として劣化しつつある。バンプに関しても『藤原基央詩集』を発売してほしいと願っている。それさえあれば歌詞を考察する時、助かるから。それに詩集にしてしまえば、バンプに興味のない人たちにも手に取ってもらえるかもしれない。例えば、ロックなんて聞かないと流行りの音楽を好まないシニア世代にも読んでもらえるかもしれないし、親子どころか三世代で楽しめる音楽になり得るのが、バンプとフジファブの音楽なのである。両バンドのメロディは日常の癒しに、歌詞は人生の参考書になる。

そしてバンプもフジファブもたとえラブソングであっても、別の捉え方のできる楽曲が多く、リスナーの好きなように解釈できるため聞きやすいという点も相似点だ。バンプのあからさまなラブソングは「新世界」など数えられる程度だが、フジファブはラブソングが多いのに、なぜか恋愛感情抜きに別の状況や感情としても読み取れるから、恋愛から遠ざかっている人間でも聞きやすいのだ。つまり万人にうける理由はそこにもある。

さてここまでは相似点を中心に述べたが、目的は同じでも手段が異なる二人が選んだ覚悟についても述べたい。
バンプは幼馴染のメンバーで継続している仲良しバンドであるが、フジファブはメンバー変更が少なくなかった。
志村正彦以外の初期メンバーはメジャーデビュー前に脱退している。自ら他の道へ進んだ二人とそれから志村くん自身がメジャーでは通用しないと判断し脱退をお願いしたメンバーがいたことをテレビ番組で知った。つまり幼馴染たちとは決別することを決断してメジャーデビューを果たしたのである。その話を知った時、藤くんとはまるで違う判断だなと驚いた。

藤原基央はデビュー前に「お前ひとりでいい」とレコード会社的なものから引き抜かれそうになった経験がある。その時メンバーを切るという考えが世の中にはあることを知り、ショックを受ける。でも藤くんはすぐにデビューという甘い言葉は蹴散らして、今のメンバー4人で「BUMP OF CHICKEN」でいると決心した。

志村くんより、藤くんの方が仲間思いで素敵だと最初は思った。けれど志村くんだって好きでメンバーを切ったわけではないと気付いた。自分にしか作れない音楽を志す上で、メンバーのサポートは重要だからより良い演奏や技術を求めて、苦渋の判断でメンバー変更を決めたのだと考えれば、彼の決断はむしろ潔い。実際、元メンバーはそれぞれの道をしっかり進んでおり、むしろ志村くんから直接決断を告げられたから、間接的ではない分うれしかったと話している。苦しい決断はきっと間違ってはいなかったのである。おかげで今もフジファブリックはちゃんと存続しているのだから。

藤くんの決心も正しい判断だったと言える。仮に引き抜き側につられたとしても、華々しいデビューを迎えて音楽を作ることはできただろう。けれど「リボン」という楽曲があるように絆の深い幼馴染メンバーでしか作ることのできない音楽もあるわけで、今、BUMP OF CHICKENというバンドが続いているのはメンバーが変わることなくずっと藤くんを支えているからに他ならない。藤くんがメンバーを支えているとも言える。4人で支え合っていなきゃ、紡げない音楽だってたくさんあっただろう。4人の絆が結晶して完成したバンプの音楽は永遠にバンプで、夜空で最高に輝かしい一等星になった。

志村くんが新しいメンバーと一緒に作り上げた音楽もまた、新しいメンバーがいなければ完成しない音楽もあっただろうし、メンバーチェンジを経てこそフジファブリックは進化し続けているのだから、志村くんの決断もきっと正しかったと私は思う。

藤くんも志村くんも音楽で思いを表現するために最善を尽くしたのだ。手段は違えど、音楽を極めるという目的は同じだ。自分の唄を歌うために、全力で二人とも音楽と向き合っている。二人の歌声はやさしく力強い。私は両者を尊敬している。

志村正彦はもういないけれど、その意志を引き継ぐように現在のフジファブは止まることなく動き続けている。
山内総一郎が作った「手紙」という曲だって、志村正彦の歌詞に登場しそうなモチーフがたくさん散りばめられている。<夕暮れ>、<部屋の匂い>、<同じ夢>など…。過去を振り返りつつも、たとえ大切な人と<さよなら>することがあっても、未来に向かって進んでいく前向きな手紙に心を打たれた。

そうだ、きっとバンプもフジファブもリスナーにいつでも音楽という手紙を届けてくれているんだ。きっと両バンドとも末永く活動し続けてくれることだろう。ファンやリスナーからの手紙(思いのこもった言葉)を受け取って、音楽(思いのこもった歌詞と旋律)を作り続けてくれる。藤くんの決心と志村くんの決断は実を結んで、二人の音楽と向き合うという覚悟は今も聞き手にしっかり伝わっている。

BUMP OF CHICKENとフジファブリック、藤原基央と志村正彦の思いはこれからも途切れることなく生き続けることだろう。臆病で弱そうな二人の揺るぎない強い決心と決断、投げやりで荒んだ歌詞からは想像し難いまっすぐな姿勢に基づく二人の正しい覚悟。

両バンドの沼にはまり、藤原基央と志村正彦について考えていたら、このような結論に至った。
今年もまた藤の花咲く季節になったら、あの沼の公園に行ってみよう。バンプとフジファブの音楽を聞きながら。

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