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偽善者の空洞が「ラブソング」の概念を塗り替える

2019年、Official髭男dism「Pretender」とKing Gnu「The hole」

「日本人は、異質なものに呼び名をつけたがる」という話を小耳に挟んだことがある。
 
 

確かに「異性愛」という言葉は聞いたことがないが「同性愛」という言葉は当然のように人々の間に浸透している。この時点で、「同性愛」というのはこの国において異質なものであるという認識がされているのだろうと想像することは容易い。
 

私自身の経験で言うと、以前とある女性に「付き合っている人がいるんだけど、女なんだよね!」とものすごく堂々とカミングアウトされたことがある。ここで「カミングアウト」という言葉を使い更にそれに「堂々と」という形容詞をつけてしまう時点で、私の中で「そのような人達はそのような事実をひた隠しにしているものだ」という凄まじいバイアスがかかっていたことも明らかになった。「何かにつけて色々と気になると思うから何でも聞いてくれていいよ。」と面と向かって言われたので、馴れ初めからデートの様子から夜の話まで私の中に潜む興味関心ウェポンをあらん限りに発動させ質問攻めにしてしまったことを覚えている。そして、彼女から返ってくる答えはどれも一本芯が通ったものばかりで、尊敬という感情すら抱いたことも覚えている。彼女のお陰で私は自分が知らぬ間に着込んでいたバイアスという名の分厚く重たい鎧のようなものを脱ぎ捨てることができたと、今でも感謝している。
 
 

自分を含めた今のアラサー世代は、この国において「男女平等」ということが叫ばれ始めたその過渡期のようなものを子どもの頃ダイレクトに体感していたはずだ。
 
 

私の話で言うと、小学校の時一つ上の学年は上履きの色が男子は青で女子は赤だったが私が入学した時から全員青と指定されるようになった。男が「くん」で女が「ちゃん」なのではなく男女どちらも「さん」付けで呼ぶように指導された。小2まで体操服が男子は短パン女子はブルマだったが小3からは全員がハーフパンツになった。小2までは赤白帽を被っていたが、小3からはなぜか青白帽に変わった。「総合」と名付けられた謎の時間では「男らしさ・女らしさとは何か」と問われ紙に書かされ「男が長い髪にしてスカートを履いて赤いランドセルを背負ってもいいし女が髪の毛を短くして黒いランドセルを背負ってもいいです」のような極端にも程があるような結論を教えられた。このように、今のアラサー世代は「ダンジョビョードー」という呪文を意味も分からぬまま唱えさせられながら、この国の意識が徐々に変わっていく過渡期を子どもの敏感な感性で感じ取っていたはずなのだ。
 

となると、ゆとり世代だなんてネガティブ気味な言葉で揶揄されることが多い私達アラサー世代だが、自分達の世代から「新時代が始まった」と思えばなんだか気分は悪くない。
 

2019年、2つのバンドが日本の音楽界を席巻したことは記憶に新しい。どちらも、メンバーの大半が20代後半のアラサーバンドだと言える。そして幕を開けた2020年代においても、先のことはどうなるか分からないがこの2つのバンドが日本の2020年代の音楽シーンを先導していく流れになることは容易に想像できる。
 

Official髭男dism「Pretender」
King Gnu「The hole」
 

この2つの曲の最大の共通点は、とにかく「汎用性が高い」ところだと思う。もう少し噛み砕いて言うとすれば「いろんな対象やシチュエーションにハマるよね~」ということで、小学生にも伝わるように言うとすれば「この ふたつのきょくは たくさんのひとの いろんなきもちに あてはまります」ということである。
 
 

「曲」ではなく「ラブソング」と呼んだ方が良い気もするのだが、なんだろう。もはや「ラブソング」という呼称を聞くだけで、タンスにしまいこみ防虫剤の匂いが染み付いてしまったセーターの匂いを嗅いだ時と同じような気持ちに陥ってしまう今日この頃だ。
 
 

そもそも、80年代や90年代の「ラブソング」というのは曲中に「あなた」と「私」、「君」と「僕」が出てくればそれはほぼ間違いなく十中八九「男」と「女」のことを指し示していたのだと思う。恋愛感情というのは男女の間にしか芽生えないものです、という固定観念を曲からビシバシとストレートに感じるのだ。
 

例えば、1993年リリースの広瀬香美「ロマンスの神様」においては《ノリと恥じらい必要なのよ 初対面の男の人って 年齢 住所 趣味に職業 さりげなくチェックしなくちゃ》と思いっきり分かりやすく《男の人》というストレートな表現がされている。そして《ノリと恥じらい必要なのよ 初対面の男の人って》というフレーズからは「男が釣り、女は釣られる」という当時の恋愛市場における釣り堀のような絶対的な構図とアッシー&メッシーが横行していた壮絶な売り手市場を容易に読み取ることができる。とはいえ女は女で「男なら誰でもいいわけではなくできればよりイイ男に釣られたい」という底知れない上昇志向や野望をとんど焼きのように轟轟と燃やしていたということも容易に読み取ることができる。このたった1フレーズに当時の時代背景が見事に描写されていると言える、まごうことなき名曲ではないだろうか。
 

そして時は80年代までさかのぼる。1985年にリリースされた小林明子「恋におちて -Fall in love-」はいわゆる「許されざる恋」のことを表現した曲である。曲中には《土曜の夜と日曜の 貴方がいつも欲しいから》という間接的と見せかけて実は凄まじく直接的で少し勘のいい人なら瞬時に「ははーん」と神妙な顔をしてしまうような名フレーズが潜んでいる。これはきっとそういう恋愛をしたことがある人、はたまたそのような恋愛に憧れている人にはマッハ30という米軍のジェット機も悔しくて悔しくて思わず実家の年老いた母親に電話し「ママァ・・・」とめそめそ泣き出してしまうような未知の速度で心臓のど真ん中に突き刺さったであろう。また《ダイヤル回して 手を止めた》というフレーズは「固定電話に電話するしかなかった」という当時の時代背景をリアルに描写しており、許されざる相手の自宅の固定電話に電話してしまいそうになるくらいの壮絶な心情が嫌というほど端的に伝わってくる。こちらも時代と交差し、当時の情景を今もなお新鮮に伝えてくれているという点でまごうことなき名曲である。
 

当時のラブソングはきっと直接的でなければならなかった。直接的であることは、人々の心に刺さるための絶対条件だったのであろう。若い男女が恋愛をしてゴールインする曲、大人が許されざる恋に落ちる曲、と分かりやすくカテゴライズされそれ以外の解釈が生まれないような曲が多かったのではないだろうか。若い男と女が純粋な恋愛をして、結婚して、子どもを産んで温かい家庭を築いていくことこそが幸せであるという「幸せの固定観念」が横たわっていた時代なのだろう。そしてその逆もまた然り。男は青い上履きを履き短パンを履き黒いランドセルを背負う。女は赤い上履きを履きブルマを履き赤いランドセルを背負う。全てが決められていた時代だったはずだ。「純粋な男女の恋愛の曲だと思えるのに、訳アリの恋愛関係にもしっくりきて、同性同士での恋愛にもあてはまります」そんな間接性や汎用性や曖昧さなどきっと全く必要とされていなかった。そんな単刀直入で勢いのある時代背景が見てとれる。
 
 

そんな「Pretender」と「The hole」に共通する「曖昧さ」とは。
 
 

まず、「男」「女」という単語が一つも出てこないという性別に対する表現の曖昧さがある。「君」「僕」「あなた」「誰か」「ヒト」という単語は何度も出てくるが、その性別は決して固定されていない。「僕」という一人称は一般的には男性が使用するものであり、この曲の歌詞は男性が書いているということも間違いないのだが不思議だ。何度歌詞を読んでも「男と女」という構図を連想させない。誰をどう当てはめても、どうにでも当てはまるのだ。曲の流れの中に柔軟な可変性を感じられる。性別や年齢や職業や立場など関係ない。「人間」であればどう当てはめても当てはまるようになっている。
 

次に、「他者と比べた曖昧な自分」に思い悩む点。「Pretender」では《もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった もっと違う性格で もっと違う価値観で 愛を伝えられたらいいな》と、「The hole」では《気づけば誰かの物差しで 人と比べた未来に傷ついて 身体にぽっかりと空いたその穴を 埋めてあげることが出来たのなら》と「他者と比べた曖昧な自分」に、その「違い」に思い悩んでいる。これはインターネットやスマートフォンやSNSが普及し、24時間365日いつでも他人の状況をうかがい知ることができる状況になったからこその姿ではないだろうか。90年代に流行したラブソングは《幸せになれるものならば 友情より愛情》と言い切っていたようにあくまで「自分至上主義」のような雰囲気があり、苦悩といえども自分対自分という構図で苦悩しているような気がするのだ。ところがこの2曲で描かれているのは自分対他者という構図での苦悩であるように思えてならない。24時間365日、自分を他者と比べては「違い」を認識し劣等感や優越感に浸らざるを得ないこの時代だからこそ、このようなライティングが人々の心に突き刺さるのではないだろうか。
 

最後に、結論の曖昧さ。例えば前述した「ロマンスの神様」は《土曜日遊園地 一年たったらハネムーン》《ロマンスの神様 どうもありがとう》と完全にハッピーエンドを迎え神に感謝さえ捧げているし、「恋に落ちて -Fall in love-」も《ダイヤル回して 手を止めた》から分かるように最終的にこの恋を諦めた様子が感じられる。しかし、「Pretender」も「The hole」も何か結論が出たわけではない。《「とても綺麗だ」》と《僕が傷口になるよ》という曲の最後を締める表現には、何かが終わったという完結の意味合いは感じられない。むしろ結末を遠くに見据えたまま進んで行くことを決めたような、終わらせることすらできないような曖昧すぎる苦悩が感じられる。
 

パズルのピースで言うと、ピッタリと完璧に型にはまるピースが求められていた時代から、どんな形にもはまることができる汎用性が高いピースが求められている時代に変化しているように思える。科学や技術が進み完璧さが追求され人々に自由や便利がもたらされればもたらされるほど、コンピューターや人工知能ではない生身の人間だけが持つ「曖昧さ」が浮き彫りになりそれがまた「エモい」という表現で称賛されるようになっている気がする。そしてそんな「曖昧さ」に助けられ救われる機会が増えた分だけ、それに苦しみ悩まされることも増えたのではないか。
 

「多様性を認め合いましょう」などということが軽率に必死に叫ばれるこの世の中。そこまで必死に叫んでいるということそのものが、この国に生きる人間が最も苦手なことを見事に指し示しているような気がする。
 
 

私をバイアスから解き放ってくれたあの人が今どうしているのかは残念ながら知らない。しかし、2010年代ラストの2019年にリリースされた「Pretender」と「The hole」で表現されている恋愛観のようなものが「新しいね」や「斬新だね」ではなく「防虫剤の臭いがするね」などと言われ遠い過去のものになるような、2020年代がそんな時代になることを願うばかりだ。
 
 
 

※《》内の歌詞は広瀬香美「ロマンスの神様」
        小林明子「恋におちて -Fall in love-」
        Official髭男dism「Pretender」
        King Gnu「The hole」より引用

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