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ボブ・ディランの新曲に音楽は世界を変えると信じた

椎名林檎の本能とボブ・ディランのMurder Most Foulの歌詞へのシンパシー

昨年、思わぬ病気で3回の手術をした。今は、立派に基礎疾患を持つ身になってしまった。当時、全く自覚はなかったので驚いた。このご時世なので、外出は極力控えなければならない。人間ドックでは通常ひっかからないような異常を見抜いたお医者さんには感謝しかない。綺麗な女医さんだった。今年の人間ドックでお礼を言おうと思っていたのだが、今年は勤務日ではなかったのでお礼は言えなかった。発見されていなければ、死んでいたかもしれない。今、僕にできることは病気にならないことだけだ。

元々完全なインドア派で、酒も飲めない飲まない僕。歳をとるごとに自分に自覚的になり、中年のくせに引きこもり気味。音楽を聴くのが唯一の趣味。こういう文章を書くのを楽しみにしている。そんな自分なので、家に籠っているのは平気だと思いこんでいたが、やはり、人間には程度というものがあり、こんな俺でも外出したいときはあるのかと新たな自分を発見した思いである。ゴールデンウィークには、福島の実家に帰り、死んだオヤジの墓参りと25年ぶりの甲子園出場を決めた出身高校に数十年ぶりに行ってみるかなどと思っていたが甲子園も中止になってしまったし、諦めるしかない。

そんなわけで、溜まりに溜まった、衛星放送で録画するだけして、観ていなかったライブを観まくって、好きなナンバーの歌詞を読んだりしている。

そもそも洋楽ファンであるのに英語は全くできず、本は、故司馬遼太郎さん、海外のSF小説、村松友視さんの一連のプロレスのエッセイ、渋松対談ぐらいしか読まなかったので、歌詞を文学的な文脈で理解する読解力も想像力もない。歌詞を真剣に聴き、読み、味わってきたとは言えない。この音楽文で数少ない洋楽について書いている愛するライターさん達(尊敬を込めてそう呼んでいる。そして各ライターさんの文章を楽しみにし、あーこれ書かれた~と先を越されて、悔しがったりしている)もあまり歌詞には言及しないので、英語が出来ないんだと勝手に安心し、勝手に同志と思いこみ、サウンドへの緻密でマニアックな分析とミュージシャンへの深い愛情に溢れた文章に感動し、想像もしなかった切り口の新しい発見をし、なるほどと題材の音楽を聴きなおし、へぇ~と納得し楽しんでいる。

歌詞を重視していなかったのは、今更、反省しているが、基本的な僕の考えは、詩に演奏、メロディがあるからポップミュージックは優れた現代的表現であるということ。詩だけ読み込むなら、イェイツの詩でも読むか、純文学でも読んでいたほうがいいというのが、後付けの自分に都合の良い理由である。
本当はガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』はなんとか読み切ったが、『百年の孤独』は100ページより先に進まないことを卑下しないための言い訳である。難解すぎて、寝てしまうので、ネットでネタバレを読むのが限界で、意味を理解する能力がないだけなのだ。

そういう僕でも歌詞に心奪われるときもある。
昨年の手術に向かうベッドの上で、僕は何故か、ブランキー・ジェット・シティと米津玄師さんを唄っていた。誰にも言えない僕の心の闇を感じたブランキー・ジェット・シティの「ディズニーランドへ」と米津さんの「Lemon」。交互に歌い、こんな俺でもあの人には忘れないでいてくれ、もう一度会いたいと思っていたのだ。死ぬ前に彼女には会いたいと考えたのだ。手術から病室に無事に戻って、あ~情けない、両ミュージシャンのように俺はイノセントではないなぁと思った。
 

前置きが長くなった。
今、椎名林檎さんの2018年のライブを観ていた。生のライブを次のツアーにいくぞと決心させる圧倒的なライブ。オープニングの「本能」は異次元の凄さだ。ヤラレタ。歪んだギターに日本的なメロディを乗せた椎名林檎さんの出現は衝撃だった。何より心の闇を描いた歌詞は凄い。本能に言葉などあるわけはない。「本能」は愛を表現することのもどかしさ、不毛さ、それを伝えきれない言葉の無力さを唄った歌詞だと思う。本当の愛情を伝えるためには言葉はもどかしいだけである。

「本能」 作詞 椎名林檎
【約束は 要らないわ
果たされないことなど 大嫌いなの】
という歌詞は、約束は言葉があるから約束するという行為があり、言葉がなければ約束はできないので、破られない。だから、言葉はもどかしい、コミュニケーションの手段は言葉が中心だが、言葉ではないもっとストレートなコミュニケーションをしたいという願望を歌ったのだ。言葉はときに邪魔くさいのだ。
だから、
「本能」 作詞 椎名林檎
【どうして 歴史の上に 言葉が生まれたのか】
言葉以上のコミュニケーションが欲しいと歌ったのだ。

自分の経験で言うと、若い頃、恋愛の場面で、愛情の表現で『本当に好きだ』、『大好きだ』とか言ったこともあるが、何か本当にこの気持ちは伝わっているのかと思っていた。逆もまた然りである。100万の【ことば】を尽くし伝えても、伝えきれないし、伝わってこないこともあるのだ。お前の表現力不足と疑り深い性格だろうと言われればそうなのだが、やっぱりもどかしいのである。
だからブライアン・フェリーは「モア・ザン・ディス」と言うしかなかったし、デヴィッド・ボウイは【言葉は最大の障壁だ】とインタビューで答えたのだ。だからこそ、言葉だけでは伝わらない感情にサウンド、メロディを融合した表現手段≒現在のポップミュージックは心に響き、たくさんの支持をうける現代的な優れた表現だから、若いリスナーから、僕のような40年以上魅了されている中年も聴いているのだろう。
僕は歪んだギターとポップなメロディを必要としているのだ。(サウンドとメロディと言葉が分離したような音楽を僕は好まない)。
 

さてボブ・ディランである。ここからが本題。
言葉とサウンドが分離していているように聴こえて、超苦手だったミュージシャンの代表が、ボブ・ディラン。歌詞が素晴らしいといわれても僕には理解できないし、あのダミ声と抑揚のないメロディが、プログレ、ハードロック少年の僕にはダメだった。

しかし、そこは自称洋楽ファンの僕である。これだけの熱烈なファンがいるボブ・ディランを1度ぐらい観ておかないと自称洋楽ファンとは言えない。意を決し、勝手な使命感で2014年の来日公演を観に行った。さすが、自称洋楽ロックファンだ。しかもノーベル賞受賞前に観に行ったところがいい。ローリング・ストーンズの初来日時に増えた周りにいた俄かファンとは違うぞと、今、心の中でガッツポーズをしている。
登場から、鳥肌である。歌詞は全くわからないのであるが、その圧倒的な存在感(威圧感)、そして、抑揚のない面白くないメロディと思っていたメロディが、実は、非常にポップであることに気が付く。猛反省で、家に帰ってから、暫くの間はボブ・ディラン漬けの毎日である。
デヴィッド・ボウイがボブ・ディランの熱烈なファンであることもやっとわかったような気がした。ボブ・ディランのアルバムをランダムに聴き続け、ボブ・ディランの大ファンになってしまった。
デヴィッド・ボウイは様々なペルソナ、キャラクターを作りあげて、音楽性を変容させてきたが、ボブ・ディランは、ボブ・ディランという絶対的なキャラクターを作り上げ、様々に音楽性を変容させてきた。
フォーク、プロテストソングのカリスマであった時代に、エレクトリックなロックに音楽性を変容させた。
サイケデリックサウンド全盛期には、ジョニー・キャッシュと共演し、カントリーをのどかに声質まで変えて歌った。
ハードロック、プログレ時代には旅一座を率いローリング・サンダー・レビューを遂行した。
パンクの時代にはゴスペルを唄った。
現在のデジタルサウンド時代にスタンダードを唄った。
そして、先日、ポップミュージックが2分台になっている時代に17分の叙事詩を唄った。

唯一無二の超一流の捻くれ者である。神秘的で謎である。

ボブ・ディランの今年のツアーのチケットをゲットしていたのだが、この騒ぎで中止になってしまった。今回は心構えが違うから、より深い感動と聴こえ方が違うだろうと思っていただけに残念で仕方がない。せめて、延期にしてくれと心の底から思った。
しかも、この前、書いたブライアン・ウィルソンも中止になっちまった。
グリーン・デイは延期でよかった。1年後が楽しみだ。
サンダーキャットも延期でよかった。

「マーダー・モスト・ファウル」というセンセーショナルすぎるタイトルの新曲が発表されたのは周知のとおりだ。ボブ・ディランのオリジナル自作曲としては、実に8年ぶりだそうだ。
この世界が恐怖に包まれているときに暗殺の歌を発表するのである。英語がわからない僕でもタイトルで悲惨な歌であること、ケネディが映し出されるビデオをみれば歌の内容ぐらい想像がつく。日本語訳詞の意訳が発表されたが、やはり、悲惨である

しかし、僕は「マーダー・モスト・ファウル」を聴いて気分が落ち着いたのである。歌詞を読むと悲惨な事件を淡々と残酷に語っている。そこにはアメリカの過去の出来事が現在にも続いているというメッセージを僕でも感じ取ることぐらいはできた。
しかし、淡々としたボブ・ディランの歌を聴き、歌詞を読みこむと、僕にはこの歌が希望の歌だと思えてしまった。
この騒ぎでボブ・ディランの来日は中止になり、音楽イベントは中止になった。マスクは品切れ。そして僕は、家に籠っている。この騒動が始まったころ、音楽も文学も映画も命が危険にさらされれば無力なのかと思った。
ポップミュージックは、結局、「ウィ・アー・ザ・ワールド」とおめでたい夢物語と誰も反論できないヒューマニズムを振りかざすのが限界なのかと思ってしまった。
僕は、ブランキー・ジェット・シティの「ディズニーランドへ」の歌詞のような人間なので、ヒューマニズムを素直に述べれる人が羨ましいのだ。僕には出来ない。でも決して、その本性を表明できない臆病者でもあるのが狡猾なところだ。

キング・クリムゾン、デヴィッド・ボウイ、そしてビーチ・ボーイズのペットサウンズを今でも愛しているのは、徹底したニヒリズムを通過した先に希望があると感じていたからだと思う。10代で聴いたキング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン」で僕は気が狂うのではないかと悩み、「スターレス」のスターレス・バイブル・ブラックというメッセージに世の中はお先真っ暗なのかと思いながらロックを聴いてきた。しかし、実際はそうではなかった。その先に希望はあった。
絶望、ニヒリズムを通過し、その上で、その先にある希望を唄ったミュージシャンが好きだ。捻くれ者の音楽。山下達郎さん、佐野元春さん。僕が愛しているミュージシャンにはそういう臭いがある。デヴィッド・ボウイは、最後に「アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ」と歌い旅立った。

「マーダー・モスト・ファウル」の歌詞には、多数のミュージシャン、有名曲、映画がちりばめられている。その理由を僕は、絶望的に悲惨な殺人事件を乗り越える過程には、そこに音楽があったのだとボブ・ディランは歌ったのだと理解した。スタンダードをなぜ今更ボブ・ディランが歌い続けたのか僕にはわからなかったが、氷解したような気がする。そして無力でもどかしいものでしかないと思った【言葉≒詩】は、メロディを伴った際に【歌詞】になり、強力なメッセージになることを知った。ポップミュージックを信じたい。

音楽は僕の気持ちを変えたのである。僕たちひとりひとりの心に寄り添い、希望をもたらし、世界を変える可能性があるのだ。

僕は、「マーダー・モスト・ファウル」のメッセージを 【音楽は世界=人間の気持ちを変える】と歌った、希望の歌だと信じている。ボブ・ディランは多くを語らないから、本心はわからないから謎は残る。
(音楽評論のプロの皆さんが様々解説してくれるであろう)
が、僕は、ポップミュージックに出会い、ボブ・ディランと同時期に生きていたことに感謝する気持ちは深まるばかりだ。
最後にボブ・ディランが「マーダー・モスト・ファウル」を発表の際に添えたメッセージを引用する
「どうぞ安全に過ごされますように、油断する事がありませんように、そして神があなたと共にありますように」
(RO69より引用)
「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加し、歌ってもニコリともせず、誰とも交わらなかったボブ・ディランを当時ファンではなかったが僕は信じた。参加しなかったプリンスも信じた。熱唱したブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は歌詞を捻じ曲げられてしまった。
ボブ・ディランの次の来日があるのかはわからない。
しかし、次の来日を切に願って、今日も部屋に籠り「マーダー・モスト・ファウル」を聴き、古いものから最新のポップミュージックを聴き漁るしかない僕は、今、キング・クリムゾンの『メルトダウン〜ライヴ・イン・メキシコ』にDISKを変えたところだ。

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