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音楽に救われる日々を祈って

東京事変 ロックの閃光少女は夢の中を通り抜けていった

いつの事だったか、数年前、東京事変がNHKの番組に出演したのを夜遅くにテレビで見た。
最後に演奏された”閃光少女”のパフォーマンスを見て僕は、目の前の一瞬が固まってゆっくりと熱くなって崩れ落ちてゆくのを感じた。その一瞬で、自分の時間は遡られ、記憶は目まぐるしく重なり合い、その心の確固たる何故か自信のようなものは、ほんの薄い紙切れから分厚いページへと変わり、ひらひらとめくられる本の様に、棚の中の字引の如く、塊のある芯になった。その時から僕は、今まで感じてきたロックの快感を改めて心に刻みつけた気がする。

東京事変の”閃光少女”という曲を初めて聞いたのは、それよりももっと前にテレビCMに使われていたところの断片だったと思う。”閃光少女”はその当時シングル発売されたのだと思う。アルバムに収録されたのは「スポーツ」2010年の事だった。自分がそれを聴いたのはさらにその数年後だった。ずっと気になっていた”閃光少女”。最初に音楽を聞いた感触でも、歌詞の意味は理解せずとも、これは凄い曲だと分かっていた。そうして後にテレビで見た東京事変の姿はひとつの決定打だったのだと思う。

僕は、そのあとすぐ「スポーツ」のアルバムを手にして、”閃光少女”ばかりを夢中になって聴いた。リピートにして、2、3時間ずっと聴いて、飽きなかった。飽きるどころか曲が終わりに近づくにつれ、毎回のように目が熱くなっていた。歌詞を何度も読み、自分の手で紙に詞を書き込んで読み返した。そのCDを職場の親しい女の子にあげて歌詞まで書いて渡すぐらいだった。僕はだいぶん気が狂っていたのかもしれない。しかし当然なのかそうでないのか、自分の音楽に対する想いは全然伝わっていかなかった。ひとつの挫折のような気分だった。それは笑えないどうでもいい話だ。
 

あの夜、テレビで、くぎづけになって見た東京事変の”閃光少女”は今でも動画で観ることが出来る。数年の間、思い返しては見直して何度観たことかわからない。ここでの椎名林檎のパフォーマンスは素晴らしく美しい。
身に纏った白と共に黒をも印象づける姿、半身右側を前に斜めの角度でマイクに立ち、真っ直ぐ視線を向けてくる。その眼のまばたき1つもすべてコントロールされたかのような美しい一瞬の重なり合い、顔を横に向け、正面に戻し、また斜めにという少しずつの変化、歌い上げるときの視線と角度とそこからも乱れない身体のバランスは美しいアートと同質だ。
歌詞を理解しながら聴けば、これは紛れもなくロックの本質を突いた見事な表現力だ。静と清の世界を別次元で体現する椎名林檎に目が離せないが、その姿とは対照的に、動きを止めない東京事変のバンドは、ひたすらにこのロックを、その詩世界を形として確実視させる。その演奏が激しくなってゆくのをよそに、椎名さんは落ち着きを乱すことなく、曲が終わるのを待たずに颯爽と歩いてゆく。いったいこれはどういう事だ。美しく完璧に、究められた世界観。椎名林檎はまるで、ヴァン・モリソンのようだと僕には見えた。ザ・バンドの映画「ラスト・ワルツ」を観たことがある人なら思い出してもらいたい。”CARAVAN”を情熱的に歌いきったヴァン・モリソンは、ザ・バンドの熱い演奏のなかを颯爽と立ち去ってゆくのだ。これはロックの伝説的パフォーマンスが時を越えてつながり合った瞬間だった。
今思い出しても目が熱くなってゆく。
 

「閃光少女」 東京事変 椎名林檎 亀田誠治

“今日現在(いま)が確かなら万事快調よ
 明日には全く憶えて居なくたっていいの
 昨日の予想が感度を奪うわ
 先回りしないで

 今日現在(いま)を最高値で通過して行こうよ
 明日まで電池を残す考えなんてないの
 昨日の誤解で歪んだ焦点(ピント)は
 新しく合わせて

 切り取ってよ、一瞬の光を
 写真機は要らないわ 五感を持ってお出で
 私は今しか知らない
 貴方の今に閃きたい

 今日現在(いま)がどんな昨日よりも好調よ
 明日からそうは思えなくたっていいの
 呼吸が鼓動が大きく聴こえる
 生きている内に

 焼き付いてよ、一瞬の光で
 またとないいのちを 使い切っていくから
 私は今しか知らない
 貴方の今を閃きたい
 これが最期だって光って居たい”
 
 

僕は今から10年以上前、30代の歳になる頃、ロックの本質をこう思った。
“ロックは轟音のなかの静けさ”
“ロックは轟音のなかで静かなる自分を実感する事だ”

そして”閃光少女”の歌詞を理解するなら、刹那は永遠になりうる。この一瞬は永遠にもなりうる。美しい瞬間を、いのちを懸けて生きぬくこと、それは永遠だと。
東京事変を見た夜にそう感じた。

決してこの手に届くことのない閃光少女は、ロックの揺らぎない光となって今も自分の中を駆け抜けてゆく。

たとえば、
轟音のなかで静かなる自分を実感する事、そして刹那と永遠、その瞬間を他にも感じたことがある。

“日が暮れてゆく”という曲がある。
THE GROOVERS(ザ・グルーヴァーズ)のベストアルバム「VERY BEST OF THE GROOVERS」のCDを買った日の事は忘れもしない。二十歳の自分は大学生で、学校帰りにタワーレコードに寄ってCDを探すのが楽しみだった。そのつもりで帰っているある日、電車のなかで、車椅子のおじさんを見かけた。そのおじさんを以前にも見たことがあった。今日はなぜか、勝手におじさんが困っているのかもしれないと思って、車椅子押しましょう、と声を掛けて、車内からホームへ降りるのを手伝った。おじさんは50才くらいか、その歳に似合うのか似合わないのか、腕にはGショックの時計が立派に装着されていた。僕は、車内からホームにかけてみんながこちらを見ているのを気にせず、おじさんの車椅子を押して行った。おじさんに方向を聞いて、お礼を言われながら少しはずかしかった。おじさんが僕に言う。にいちゃんありがとうな、でも電車賃が無いねん、という。とりあえずおじさんの向かうホームへ連れてゆく。エレベーターに乗ると、また他の乗客の人から見られた。降りてホームへ。そこでおじさんが僕に言った言葉の感触は忘れられない。
おかねちょーだい、その言い方が変でちょっとおもろかった。苦笑いして500円渡した。そこでおじさんとお別れした。これはどうでもいい話だ。
自分がグルーヴァーズを初めてちゃんと聴いたその日の記憶はなんだか切ないもので、説明がつかない。

「VERY BEST OF THE GROOVERS」のCDは、初回限定でライブ音源のボーナス盤が付いてくるというものだった。今でもそれは宝物だ。今までCDをたくさん手放したが、これは取っておいた。ベスト盤よりもこのライブ盤の方がグルーヴァーズのバンドサウンドの素晴らしさが強く伝わってくるようだ。このバンドはギターとベースとドラムによるトリオ編成だ。しかしバンドが放出する響きはそれよりもっと分厚く豊かに聞こえる。
ギターを弾きながら歌も唄う藤井一彦さんは素晴らしいギタリストで熱い歌い手だ。このライブ盤ではロックギター音響の真髄を垣間見ることができる。

初めて聴いたのは二十歳、しかし改めて聴き直した20代半ばになって僕は、”日が暮れてゆく”を素晴らしい名曲と記憶した。グルーヴァーズのロックはオールドスタイルのロックンロールにも通ずるスタンダードな響きを感じさせるものだったが、そこには洋楽ロック、ローリング・ストーンズからボブ・ディランの強い影響を見出すこともできる。その上に、この”日が暮れてゆく”には、オルタナティヴとグランジとノイズギターロックの影響が強く出ている。自分はその若い時分にはオルタナにあんまり興味がなかったが、”日が暮れてゆく”が改めてその種の音楽性へと自分の感覚をつなぐきっかけになったのかもしれない。

このライブ盤にはボブ・ディランの”Like A Rolling Stone”の日本語バージョンが収められていた。でもそれよりも、グルーヴァーズの自作曲”ONE FOR THE ROAD”の方が、ボブ・ディランの名曲をカバーするよりも、いかにもそのオールドスタイルの酔いどれロックンロール感覚と武骨なフォークロックを想い起こさせるところが良い。
だが、何よりも素晴らしいライブバージョンの”日が暮れてゆく”は必聴だ。
強く優しく、武骨な男の心意気を描く詩世界の合間に通低音として拡大してゆくギターノイズのなかで、轟音は感覚として、いつしか静けさへと変わってゆく。
 

「日が暮れてゆく」THE GROOVERS 藤井一彦 藤井康親

“酔っ払った時でさえ 俺は冴えてる
 疲れ切った時でさえ 朝まで騒ぐ
 目を閉じている時も 世界が見える
 背を向けている時も 君を想っている

 いつまでもこのままでいられれば うまくいくのだが

 浮き足立った時でさえ 俺は冴えてる
 殺気立った時でさえ 優しくなれる
 耳をふさいでいる時も 歌が聞こえる
 遠く離れていても 君を感じている

 いつまでもこのままでいられれば うまくいくのだが

 日が暮れてゆく

 いつまでもこのままでいられれば うまくいくのだが

 日が暮れてゆく
 日が暮れてゆく ”
 
 

グルーヴァーズのベスト盤にも、その付属のライブ盤にも入っていた”SWEET HEART OF MY SOUL”という曲がある。僕はこの歌の最初の歌い出しの部分の歌詞が凄いと思った。これは音楽を聴いた響きそのものから感じるものでないが、言葉が伝えるものは如何にもロックで、痛快そのものだった。この一言で決まりだった。

“どん底の床板を 踏み抜くこのブーツ”

ふつうなら、どん底は這い上がってでも出るものだ。這い上がって出るなんてめんどくせえ、というこの気概。どん底なら、踏み抜いてでも出てやるというこの反骨精神。痺れに痺れた。これがロックだろ。凄いな。

僕は藤井一彦さんの存在に感銘を受ける。
この人が歌う”美しき人よ”という動画がある。これもグルーヴァーズの曲だ。男気のフォークロック、日本のボブ・ディランと言っても言い過ぎない、反骨のシンガー。
人は皆、孤独だ。そうであっても、かなしみに暮れていないで、唄ってくれる歌に耳を傾けよう。ここにある感情に黙って乗せられよう。そういう日が大切な感覚としてずっと残ってゆくものだ。
誰を思い浮かべよう。美しいあなた。ここに居ずとも心はきっと届くと信じて。
 

「美しき人よ」THE GROOVERS 藤井一彦

“絶え間ない焦燥 夢は野晒し
 遠き日の向日葵 目映い空に
 言い難い怒りを 胸にしまえば
 今日はもう終わりと 街の灯も消え

 夜を切り裂く長い汽笛が
 世界を止める旋律ならば

 美しき人よ 今日がまた終わっていくぜ
 どうしたらおまえの 未来をくれる?

 マエストロの指揮棒が稜線を描き
 終わりなきリフレイン 舞う花吹雪

 夜明けを告げるレールの響き
 郷愁の種火 また燃え上がる

 美しき人よ 季節がその頬を撫でて行く
 どうしたらおまえの 心奪える?

 夜を切り裂く長い汽笛が
 世界を止める旋律ならば

 美しき人よ 今日がまた終わっていくぜ

 どうしたらおまえの未来をくれる?
 どうしたらおまえの未来になれる? ”
 
 

心はいつも孤独だ。
そこを駆け抜けてゆく閃光少女に手は届かないが、目で追って、それでも手は伸ばし続ける。
斉藤和義がジョー・ストラマーと、心を共に唄ったように、月に手を伸ばせ たとえ届かなくても。
 

閃光少女は他の歌の中にもいるらしい。
僕はミッシェル・ガン・エレファントの”ジプシー・サンディー”という曲が好きだ。流れ星は見たことがないけれど夢に見る流れ星みたいに、ここにも美しい人がいる。詩世界だけでなく、これを演奏する人たちもまるで流れ星だ。そして音楽は自分にとって閃光だった。
ロンドンパンクに憧れた日本のパンクスは、全盛期のロンドンにもニューヨークにも劣らず、時代も飛び越えて古びもせず、今もリアルな感触で堂々と自信を持ってロックの本質を知らしめてくれる。パンクと武骨なロックリズムと反逆のレゲエビートが、個人事情に渦巻くギザギザな心情を嗜めてくれる。そんな感覚も良い。ジプシーは放浪する流れ者、やはり人は孤独なものだ。
“ジプシー・サンディー”は自分が今まで嫌いだと思い込んでいたパンクの音楽を、逆転して覆してくれたような曲だ。そしてレゲエビートをリズムの快感として馴染ませる、その種の音響志向の音楽への架け橋へと導いてくれたのだ。20年経って未だに興味深いミッシェル・ガン・エレファントの後期の音楽性はまだまだ終わっていない。
僕は初め、チバユウスケの歌詞をずっと意味が分からないと思って聞いてきた。数年経って20代半ばの頃、”ジプシー・サンディー”を初めて聴き、このバンドは言葉遊びのただの激しいロックンロールバンドじゃないと分かった。チバさんはいつの間にこんな美しい詩を描くようになったのか、詩と情景と研ぎ澄まされたロックサウンドがこの様に組み合わせられる奇跡を初めて実感した。後のASIAN KUNG-FU GENERATIONが”リライト”で見せる曲展開、激情ロックが途中でレゲエとダブの音響へとシフトしてゆくのも、”ジプシー・サンディー”の影響ではないかと思う。これは余談。

“ジプシー・サンディー”が美しい響きで聞こえるのはミッシェルのラストツアーを収めた「LAST HEAVEN’S BOOTLEG」というライブ盤だと思う。これも何度聴いても飽きない曲だ。
 

「ジプシー・サンディー」
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT チバユウスケ

“流れてゆく夜と時間の途中で
 12月が汚れ始めたその時から
 あの子に居場所はいらない
 空と海と大地に降り立って人から人へと
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー

 寒がりのパンクス 吐く息はダイヤモンド
 チャイナドレスのあの子に一目惚れ
 ずっと彼女と二人でいれたら
 それだけでいいと言って笑った
 流れ星みたいにゴージャスに踊って
 誰にも気付かれず消えてった ジプシー・サンディー
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー

 ジプシー・サンディー
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー

 アイスバーンをすべる 星達とララララ
 フィルムメイカーにもう用はないだろう
 無言の宇宙で声が聞こえる
 最初からさ 何もないのは
 どこかに本当に果てというものがあるなら
 一度くらいは行ってみたいと思う
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー

 Let me go Let me go Let me go
 Let me go Let me go Let me go

 連れてくよ 犬だって猫だって
 いつだって別々さ
 君がそう思うなら
 ジプシー・サンディー ジプシー・サンディー
 ジプシー・サンディー”
 

ここにも、ロックが描く刹那と永遠が見えてくる。
 
 

僕らは今、社会、世界に及んで、焦燥にさらされて生きているのかもしれない。
ある人はどん底を見ているかもしれない。そして当たり前だと思って生活してきた安全が、すぐそこで脅かされている不安につきまとわれてもいる。
 

どん底なら、踏み抜いてでも出てやろう。その気概だ。反骨だ。
怒りや苛立ちではなく、誰かを想い、安穏を祈る。
今まで聴いてきたロックが、教えてくれたのは、感情の暴発なんかでは無かったのだ。そんな単純な慰めでは無かったのだ。
刹那だ。この一瞬を、瞬間を美しく生きよう。
永遠は確証出来ないけれども、あなたの、わたしの、
このまたとない、いのちを大事にしよう。
 
 

僕は音楽文に何を書けるか、しばらく考えて、書きたいことはたくさんあって、まとめられなくて、毎日毎日、思い返してもうまいことは書けないのだと気づいた。

今までたくさんの人がこの音楽文へ投稿して、掲載された人もいれば、されなかった人もいるかもしれない。一度掲載されて、書くのを止めた人もいるかもしれない。誰かに共感してもらえなければ、おもしろくない気持ちは分かる。僕の書いた文なんて「いいね」が1つしかないのもある。でもそれは別に気にしない。

どうか皆さんに伝えたいことは、どんな単純な文章でもいい。あなたが無事であることを教えてください。音楽を描写する言葉は、下手なものであってもいい。
そんな文を書いている場合じゃないと思う人もいるだろう。
それでも、美しく生きるあなたの命を、心を応援したいと思うのです。
姿も顔も名前も知らないけれど、生きてください。

無事であることを祈る。

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