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Mr.Childrenに会えなかったけど、会えた

「ライブ」とは一体なんだろう

YouTube、20時、プレミア公開。
 
 

普段YouTubeをほとんど見ない。なので用語に疎かった。20時にプレミア公開。4月18日と19日の2日間にわたり前後編に分けての公開。それは、1回きりしか公開しないということ?仕事や家庭の事情で20時にYouTubeを見られない人にチャンスはないということ?なんだよ、ケチくさいなぁ。なんで2日間に分けるんだろう。1日で全部公開してくれればいいのに。自分だって、特に何の予定もないとはいえ土日どちらも20時にYouTubeの前に腰を据えられるかわからないし。と思ってしまったことは紛れもない事実である。文句だけは一丁前というのは、私のためにある言葉だと思う。今となれば、一瞬でもそう思ってしまったことに対して床に頭がめり込んで抜けなくなるくらいの勢いで土下座して謝罪したい。プレミア公開後も映像は期間限定配信されるとのことで、そして1つの公演を前後編に分けたことにもきっと意味があった。なのでここからの文章は床に頭をめりこませたまま書いていきたいと思う。
 
 

『Mr.Children DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25』
 
 

約3年前に開催されたMr.Childrenのデビュー25周年ツアー。「感謝祭」と銘打たれたそのツアーは今までにない試みが満載だった。会場周りに設置された大量のフォトスポット。今までのCDジャケットのデザインがあしらわれたピンバッジのガチャ。開演前の待ち時間でのブラスバンド演奏。開演前と終演後の会場内での写真撮影OK。
 

お世辞にも、普段ファンサービスが充実しているとは言い難く、良い意味でシャイでドライな彼ら。もしMr.Childrenというバンドをひとりの男性として擬人化するとしたら、「好き」だとか「愛してる」だとかは普段絶対言わないし、ご飯を作っても特にリアクションはなく「ありがとう」とも「美味しい」とも言わないし、県外に出張に行った時お土産も買ってこないし、メッセージの返信も遅いし文字は少ないし絵文字も顔文字もスタンプも使わないし「!」も「?」もなんなら伸ばし棒すら滅多に使わないタイプの男だと思う。でもそんな男が、結婚記念日に大きな花束を抱えて帰ってきて「いつもありがとう、これからもずっと愛してます。」と真正面から真っ直ぐ言ってくる。そんな凄まじい一発がドカンと響き、これまでのいろんな不安や心配や憂鬱や鬱憤が全て吹き飛んでどうでもよくなり「私もこれからもずっと愛してます」と心の底から素直に言ってしまった。例えるならそんなライブだった。25年分の感謝と愛をMr.ChildrenとファンのみならずもはやMr.Childrenに関わる全ての人同士で伝え合い交換し合うような壮大で素晴らしくただただ感謝と愛に溢れたライブ。それが通称「サンギビ」という25周年ツアーだった。
 

そんなサンギビにはドームとスタジアム1公演ずつ計2公演参加したし、ブルーレイも持っている。何度も高画質で見た。だから別に今更画質の悪いYouTubeで、時間を縛られてまで見る必要はないと思っていた。見ようと思えばいつでも見られる。こういう時に「ミスチル最高!!絶対見ます♪♪」と素直に思えるような人間に生まれてきたかったような気もするけど、私は一生解けない知恵の輪のようにとことんひねくれてねじ曲がったこんな自分が割と気に入っているのできっとこれでいい。それに、困ったことに最近の私はあつまれなんとかの森に寝食を忘れる勢いでのめり込んでいた。つよがるのは得意技だ。「ブルーレイがあるし」だとか「1時間半あったらゲームをした方がいいし」だとか、言い訳という名のつよがりを振りかざしつつ何食わぬ顔でゲームを続けるが、なんとなく時計が気になる。両手にゲーム機を抱えながら19時55分を迎える。時計が気になる時点で多分答えは決まっていた。うーん、あれだな、あの、もしかしたら、冒頭にサプライズでオリジナルメッセージ動画みたいなのがついてるかもしれないし。一応確認のために見ておいた方がいいかもしれない。確認しておいて損はないだろう。確認だ。確認。表向きは平静を装いながらリモコンを操作していたが、悔しいことにライブ前のあの胸の高鳴りが25%くらい芽生えていた。25周年だけに。
 

2分前くらいからサムネイル画像がカウントダウン画面に切り替わった。なるほど。こういうシステムか。どんどん減っていく数字を目にすると、嫌でも勝手に胸は高鳴っていく。悔しいよMr.Children。多分、どれだけつよがっていても私はMr.Childrenがどうしても好きらしい。この胸の高鳴りがその事実を突きつけてくる。何度もブルーレイで見た映像が20時にYouTubeで公開されるだけなのに。それを待っているだけで、ここまで胸が高鳴る。10秒前からは大きな数字がひとつずつ画面に現れる。あーあ、始まっちゃうな。いつも、ミスチルのライブが始まるその瞬間に思うこととまったく同じことが心に流れ込んでくる。
 

子どもの頃から何も変わらない。何も考えずただ素直に楽しみにしておけばいいのに、始まる前に終わった後の喪失感を想像してしまう。何かが始まれば必ず終わりがくる。楽しいことなんてずっと始まらなければいい。そしたら終わらないのに。そしてMr.Childrenのライブがこんなに楽しみでなければよかった。いつからこんなに楽しみになってしまったんだろう。楽しみどころか「生きがい」のようになってしまっている。楽しみであればあるほど、その楽しみが自分にとって途方もなく大きな「生きがい」のようなものであればあるほど、想像する喪失感は大きく膨らむ。いつも、今からは想像もできない先の季節に立つ旗。寒い冬には暑い夏に、暑い夏には寒い冬に。今こんなに寒くて震えているのに、暑さにうだる7月なんて来るのか?なんてことを思いながら、そこに旗が立った瞬間、大袈裟ではなく自分のなんてことない人生という道の上に「希望」が生まれる。遠くに微かに見えるその旗だけを目印にして、その旗だけを目指して必死に日々を過ごす。その旗と自分との距離はだんだん近づき、今までなんだかんだ言いつつも無事にその旗が立つ場所に辿り着いていたのだけど、きっとそれは奇跡のようなものだったんだと今なら分かる。
 

初めて、一度立ったその旗が消えた。折れてしまったのか、誰かに抜いて持っていかれたのか、飛んでいったのかもわからない。旗が消えた理由や行く末など考えたくもなかった。その頃にはもう「中止」や「延期」という文字に慣れきっていた。どう考えても、行けないほうが当たり前になっていた。だから、想像していたよりショックは少なかった。つよがるのは得意技だ。そうだ、別にミスチルのライブに行けなくたって生きていける。今は命の方が大事だ。非常事態なんだ。お互い元気で生きていればまたいつか会える。そんなに悲しむことではない。何も感じなくて済むように、「飛び出したい」と疼く自分の感情に必死にフタをした。何重にも重ねた。最終的にそのフタ達をまとめてテープでぐるぐる巻きにしてやった。二度と開かないように。
 

しかし、つよがるのが得意技だと思っていたけど、本当の私は正直で素直なのかもしれない。その日からどうも積極的にミスチルの曲を聴く気になれない。新しいテレビを買ったので、より高画質でブルーレイが見られると喜び勇んでミスチルの最新のライブのディスクを入れた。今までのテレビとは比べものにならないくらい大画面で、音も画質も良かった。3曲くらい見て、そういう物理的なことを確認し終えた所で封じ込めたものが飛び出してきそうになり反射的に停止ボタンを押した。どうやら突然YouTubeにMVが20本あげられたらしい。普段YouTubeをほとんど見ない。よかった。偶然再生されてしまうことがないから。
 
 

冒頭のサプライズオリジナルメッセージなんてものはなく、何度も見たことのある映像が目の前に広がる。
 
 

なんだろう、何度も見たことがある映像なのに、初めて見ているような気がする。左側を、これが回転寿司だったら一生取れないだろうなと思うくらいのスピードで流れていく白い物体。あまりのスピードに文字は読めない。ただひとつだけ分かるのは、そこに「誰か」がいるということだけだ。確実に誰かがいる。誰かがその白い物体を流している。その「誰か」が何万人もいるから、この白い物体は狂った回転寿司のようなスピードで流れ続けている。ライブでスタンド席やアリーナ後方席になった時に感じるのと似たような感覚だ。この場所に、同じものを求めてきた「誰か」がこんなにいる。顔も名前も知らない誰か。その誰かが視界に入ることで、自分もこの場所にいることを初めて実感できるような、あの感覚。
 
 

彼らがステージに現れた時、彼らがその第一音を鳴らした時、彼がその第一声を発した時、私はMr.Childrenに会えた。
 
 

曲が終わり、突然映像が途切れ、見慣れたサムネイル画像が現れる。え、もう終わったのか。驚く程一瞬で1時間半が過ぎた。バカみたいに大声で歌った、バカみたいに腕を振った。完全に没入していた。皮肉にも、こんなにも自由なライブは初めてだった。家でライブ映像を見る時はいつも途中で集中力が途切れたりしてしまうものだけど、不思議だ。1時間半ただただ無我夢中になって見ることができた。そして、動く彼らを見ても「本当ならこの人たちに会えてたのにな。」という無常感や虚無感のようなものなど全くこみ上げてこなかった。なぜだろう。もはや、あの日旗が消えたことすらなかったことになっているような気がする。
 
 

それはきっと「明日」に旗が立ったからだ。
 
 

「明日」も彼らに会える。自分にそう約束された瞬間、何もかもが消し飛んだ。先のことなど何もわからない。消えた旗がまた戻ってくるのかもわからない。でも、きっと、おそらく、明日この世に電気と電波が通っていて、私が生きてさえいれば、また「ここ」で彼らに会える。たったそれだけの「希望」という旗。自分はこんな今でも普段通り元気だと思っていたけど、実はあまり元気ではなかったのかもしれない。明日に立った旗を目指して生きられると気づいた瞬間、一気に沸き上がってきた元気のようなものを感じてそれを知った。明日も彼らに会える。希望だ、希望でしかない。
 

そんな「明日」はあっという間にやってきた。しかし状況は芳しくなかった。日曜の20時に立ちはだかるお化け番組。テレビの主導権を握ることができなかった。無用な確執を生じさせてまで、大画面にこだわることはないだろう。仕方なくiPadを寝室に持ち込む。20時を待っていると、友人から「オンライン大富豪をしないか」との誘いが飛んできた。「ミスチルのライブ配信があるから」と断るのも野暮な気がして、オンライン大富豪を始めた。イヤホンから友人達の声を耳に入れつつミスチルのライブを視界の片隅でとらえる。まあこれもライブ配信のひとつの形なんだろうと思いつつ、軽く歌いながら、時にはiPadの映像に見入ってしまってカードを出し忘れ順番を飛ばされたりしながら大富豪を堪能し、お開きになる頃には既に本編ラストの「エソラ」に差し掛かっていた。
 

ここ最近始まったテレワークによる自宅でのデータ通信量の増加に加え、2日連続で長時間のYouTubeを視聴させられている我が家の貧弱なポケットWi-Fiは既に限界を突破していた。全世界が驚き慌てふためき開いた口が塞がらないような画質の悪さだと言ってもいい。でもそんなことは一切関係なかった。夜空にきらめく紙吹雪は、彼らの25年間の道のりをただただ祝福しているように思えた。それはどんなに画質の良いモニターで見るより、美しく見えた。
 

全てが終わり、アンコールが始まる。アンコールとして選ばれた2曲は、もはや2人とも左打者だとしてもイチローと松井が同時にバッターボックスに立つようなものだ。「最強の」だとか「無敵の」という形容詞が良く似合う。アンコールがこの2曲であるという事実がMr.Childrenがこのツアーに懸けている想いの強さを証明していた。
 

真っ暗な部屋で、自分の耳だけに響く《何度でも》という言葉と、画面の左側を狂った回転寿司のようなスピードで流れていく《何度でも》という言葉。前年に震災が襲った熊本に向けて響かせている2017年のその音と声が、2020年の真っ暗な部屋に届く。何度も繰り返される《何度でも》という言葉。ぐるぐる巻きにしたテープは見事に剥がし取られた。そうだよな、知っていた。最初から分かっていた。結局、いつだって私はこの音楽に救われてしまう。
 
 

《そう何度でも 何度でも 僕は生まれ変わって行ける》
 
 

「飛び出したい」と疼いていた感情が飛び出した。「こんな時だから仕方ないことなんだよ」「命があるだけで十分なんだよ」「いつか会える日がくるはずだよ」という理性という名のフタで無理矢理封じ込めていた「悲しい」「つらい」「悔しい」「本当はライブに行きたかった」「なんでこんなことに」「明日はミスチルに会えていたのに」「なんで」「なんで」という誰に向けるでもない猛烈に自己中心的な感情が涙に変わり一気に溢れる。
 

ブルーレイに入っている映像と、今ここで流れているこの映像は、同じだけど全く違う。今この時、同じものに触れている「誰か」がいる。ただそれだけで、ひとつの映像が全く違うものを纏う。同じ場所にいなくても、直接顔を合わせなくても、そんなことは多分どうでもよかった。大切なのは、場所を共有することではなく「時間」を共有することなのだと思った。同じ「時間」を誰かと共有することで、誰かがどこかで生きているのを感じる、それにより自分も生きていることに気づかされる。
 
 

今この瞬間は今しかないということを全身で感じ、今自分が生きていることを感じられるのが「ライブ」だと知った。
 
 

『最後の最後、この曲だけは、過去じゃなくて、みんなにとっても、僕らにとっても、ただただ、未来だけを見据えて、この曲を、この熊本の夜空に、響かせたいと、思います。』
 
 

25周年ツアーということで、普段好んで過去を振り返ることのない彼らが、あえて過去を振り返りながら音を奏でた。しかし、この曲だけは違う。ただ「未来」だけを見据えて奏でられる音。もはや今、家でライブ以上の何かを感じているような、そんな気すらした。いや、もう、チケットを取り直接会場に足を運び目の前で生の音や声を聴くことだけを「ライブ」と言うのは私の中だけでやめにしよう。何もかもが飛び出しむき出しにされた心は開ききったキャッチャーミットのようだ。ただ、投げられたものを受け止めることしかできない。ものすごいスピードでズバンズバンと何かが投げ込まれてくる。普段は何かを押し付けたりすることを嫌いあくまでリスナーの捕らえ方に委ねるような彼らが、今この時だけはただただ何かを凄まじい熱量で投げ込んできているとしか思えなかった。イチローも松井も、きっとこの球だけは打てないだろう。今まで何百回も聴いたこの曲は、完全に違う姿をしていた。4人が円を作り、向き合って、お互いの全てをぶつけ合い、これまで歩んできた道のりを確かめ合いながらも「未来」だけを見据えて演奏する姿は、この世にあるどんな光景よりも心強いと思った。それが2017年の映像だとしても、そんなことは関係なかった。時間も場所も越えていける音楽は、きっと、何よりも強い。
 
 

『あのね、本気の本気よ?同じ規模の、いやもっとでかいやつとか、また何年か経ったら、やりたいと、思ってます。また来てくれ!そん時までみんな元気で!頑張って!!』
 
 

最後の最後に投げ込まれたのは、まるで今の状況を予言したかのような渾身の直球。私の心は、一生解けない知恵の輪のようにとことんひねくれてねじ曲がっている。「また元気で会いましょう」という、世界が平和で自分が健康でいられる未来が当たり前に来ることを前提にしたような言葉の、眩しさが嫌いだった。「頑張って」という、事情も知らず無責任に他人を奮い立てるような言葉の、軽々しさが嫌いだった。
 
 

でも、この時言われた「元気で」と「頑張って」は違った。一生解けないはずだった知恵の輪は見事に解かれた。その言葉は、心のど真ん中の一番奥にズドンと納まった。
 
 

わかったよ。もはや他人の健康を祈る余裕もなくなりつつある今だけど、少なくともまず私は絶対に元気で頑張る。絶対に、元気で、頑張って生きてやるよ。ただでさえ何が起こるかわからない世の中が、ますます何が起こるかわかりにくくなっている今だけど、何が元気で、何が頑張るのかもよくわからなくなっている今だけど、絶対に、絶対に、まず私は元気で頑張ってやる。「元気」や「頑張る」なんて好き好んで口にしたことはなかった。でも今は心の底から「元気で頑張ります」と言いたい。どこに向けるでもなく、叫んでやりたい。
 
 

そう思った瞬間、遠くにまた新しい旗が見えた。今、その旗との距離は縮まることも遠ざかることもない。でも、きっと、その旗が消えることだけは、ない。
 
 

「ライブ」とは一体なんだろう。
 
 

もし、「今自分が生きていることを感じ、この先も生きていこうと思える瞬間」をライブと言うとするならば、4月18日と19日は「プレミア公開」でも「ライブ映像の配信」でもなく、間違いなく「ライブ」だった。
 
 

そしてこれを書いている今日、2020年4月20日。何が本当かは知らないが、本当ならMr.Childrenに会っていた。会えていたはずだった。でも、会えなかった。私は今、家にいる。家から出ない。Mr.Childrenには会えない。でも、もうその事実から目を背ける必要もないし、感情を封じ込める必要もない。
 
 
 

私が見据える新たな旗の名は、「希望」ではなく《未来》だから。
 
 
 
 
 
 

※《》内の歌詞はMr.Children「蘇生」「終わりなき旅」より引用

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