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画一化されていく世界に抗うために

tetoの手をめぐって

 怒りが聞こえてくる。誰の怒りだろう。焦燥、諦め、悲しみ…。あの時感じた何か、今感じている何かが聞こえてくる。ああ、これは僕のことじゃないかと思った。歌詞がスーッと身体を抜けていく、サウンドが感情に熱を与える。僕が反抗したかったこと、疑問たちは僕だけが思っていたことじゃないんだ。このストレートなロックが救いになることが僕としてはとても驚いたが嬉しかった。

 tetoのアルバム『手』が僕にとってとても大切な一枚であることは間違いないだろう。何もかもがやり尽くされてしまったこの時代に、前述したようにこうしたストレートなロックが響くことを僕は評価する。一曲一曲の密度が高いのだろう。すぐ消費されてしまうはずの一瞬の衝動が永遠へと光輝いている。この光が明日も明後日も照らすことを願うばかりだ。
 
 さて、(乱暴な言い方をすると)何もかも平面になった世界=「ポストモダン」という言葉の響きを聞くと、ロックンロールでさえ平面であることは避けられないことを認識してしまう。ノイズが確かなノイズとして鳴り響くことはない。ノイズはフラットになった、いやなってしまった。<私>が感じる痛みによる叫び=ノイズは大音量でも小さな静かな叫びも何もかもボリュームは画一化され同じ音量になってしまったのだ。

 前述したように何もかもやり尽くされてフラット化してしまった世界に反抗するために、オルタナティブな音を鳴らし新鮮さを模索するものがいて(ただそれは幻想なのかもしれないが)、サンプリングやリミックスなど既存の音楽を解体し再構築するものがいる。それを僕たちは日々楽しんでいる。ただ、それだけではつまらないと僕は思う。この平面な世界の画一化されたボリュームなんかより、その音事態が持っている本質的なノイズが僕は聞きたいんだ…。

 そんな世界で音量を調整されず、そのままのノイズが聞こえてることがある。その一つがtetoの『手』だと僕は思ったのだ。このバンドは画一化されたボリュームに果敢に挑み続けている。この『手』により勝利への一歩をこのバンドは踏み出したのだ。いや、勝ち負けではなく、ただただ前へ踏み出したと言った方が適切なのかもしれないが(なぜならポストモダン理論は勝ち負け関係なく冷徹に進行するものだからだ)。

 小難しい話はここで終わりにしよう。僕みたいな馬鹿がするような話じゃないし、これ以上難しい単語を出すとボロが出るからだ(もう出ているのだが)。ただ、このフラットな風景が広がっていること、画一化されていく状況を確認したかっただけなのだ。ここからはtetoの『手』についてただただ褒めていこうと思う。

 このアルバムの最初の曲『hadaka no osama』のタイトルや歌詞で使われる「裸」などアルバム全体に散りばめられている「生身の身体」というモチーフについて注目してみよう。この「生身の身体」はtetoにとって重要なモチーフだと僕は思う(タイトルも『手』であることから間違いないだろう)。生身の身体は痛みをモロに感じる。無防備なその状態は物理的な痛みも恥のような精神的な痛みも一番体現できるものであるのだ。こうした節々にある歌詞により、聴く側の僕たちは無意識に生身の身体を想像してより痛みを同一化する。さらに、「裸」にはさらけ出すという意味もあるだろう。tetoは何もかも取っ払ってあなたと本音でコミュニケーションを取ろうとする。もっと付け加えると「裸の王様 頼むから腹を割れ / いつかあなたと巡り会えたら 裸の心臓を見せ合おう」(『hadaka no osama』)みたいに身体の深層、内臓までをも表現してしまう。そこまで言うなら腹を割ろう、僕のいいところも悪いところも全てさらけだしてtetoの曲と対峙することを決めたのである。このコミュニケーションの問題については後で触れることにしよう。とりあえず生身の身体のモチーフが重要であることをここに記しておく。

 さて、画一化されていくこの世界に抗うために、その生身の身体をボロボロにしながらこの社会の構造を顕著に告発して抗議する曲がある。それは『奴隷の唄』だ。文字通り奴隷のような僕たちの曲だ。ジョン・カーペンターの映画『ゼイリブ』(1998)を想起させるこの曲は極端に政治性を帯びることなく存在論的な叫びで終始する。だが、その存在論的なその叫びこそが説得力を持ってこの社会にメスを入れる。「ドレミファソラシドと均されてもそこに意思はない」(奴隷の唄)僕たちはそのことを自覚していたのだろうか?いつの間にか均されている=世界は画一化されていっている…。まずそれを自覚することが僕たちを一歩前へ進ませる。それは前述したポストモダン理論への抵抗をも意味する。確かに僕たちは奴隷だ。そのことを自覚した時にこそ存在論的な叫びが湧き上がってくる。そして、『市の商人たち』『洗脳教育』など続き、より僕たちが奴隷であることを自覚させる曲が続く。そうして(繰り返すが)存在論的な叫びを呼び起こし、主体性を獲得させる。それは均されること=(ある意味)全体主義への抵抗である。無理に政治性を帯びさせることなど必要ない。脳が機能停止した(させられている?)僕たちは政治の話をされても避けてしまうからだ。tetoの取っつきやすさはそこらへんにあるのだと僕は思う。
 
 最後に表題曲の『手』について書こう。tetoは「手」を介してコミュニケーションをする。「あなたが手」(トリーバーチの靴)と他者を手に例えてもいる。人と人は完全には繋がることはできない。皮膚があり血液があり、物理的に繋がることはどうしたって不可能だ。「憂いや悩みを抱え込んでそれでも恋人たちは今日も歩いていく」(夢見心地で)とある。これは恋人たちのリアリズムを描写している。恋人たちが甘い関係をずっと継続させることは不可能に近いだろう。他者と関係することはそういうことだ。一瞬だけ分かり合えた(気になった)瞬間に幸せを感じ、それを繰り返すために恋人たちは関係するのだ。それ以外は。どう関係を続けるかという問題に悩み続ける。「投げつけられた湯呑み 切った指先より傷む心がここに」(手)みたいに「他者の手」は湯呑みを投げることができる=「他者の手」は人を傷つけることもあるというリアリズムは認識しておきたい。ただ、手はそれ以上に温かい。

「まだ見ぬ時代に会いたい 会って直接臆せず触れていきたい あなたの手がそうだったように 辛うじてまだ自由に動くこの手で」(手)tetoは他者を諦めない。真っ裸になった僕たちとコミュニケーションする。そして、僕たちは歩き出す。大丈夫tetoがいるのだから。ボロボロだったとしても。これからたくさん傷つくことを知っていても…。前へ前へ一歩ずつ。懸命に。

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