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第1回 入賞 | 2016年2月26日

西上典之 (50歳)

佐野元春『BLOOD MOON』レビュー

ジャケットのアートワークはミューズ、ピンク・フロイド、マーズ・ヴォルタなど数々のアルバム・カバーを手がけたイギリスのデザイン・チームであるStormStudiosによるもの。頭の上に積木のような木製の立方体のブロックを積み上げたスーツ姿の男女が荒野に立っている印象的なビジュアルになっている。

このビジュアルは、現代の高度情報資本主義を綱渡りのように危ういバランスで何とか毎日生き延びている都市生活者を想像させる。ひとたびその微妙なバランスが崩れればその下にはもう何もない。我々が直面している、そのような不可逆で非対称なリスクを内包した世界をこのアートワークは強く暗示する。中央の男性は積木を崩してしまい、大きく手を広げて地面に散らばったブロックを見下ろしている。

そうした世界に対する眼差しは、そのままこのアルバムで佐野元春が見つめているものの写像に他ならない。『THE SUN』以降、「この残酷な世界で」生き延びることを表現の中心に据え、回りくどいレトリックや煩わしい決まり事を省略して、生の核心に最短の手順で切りこむような直接性を求めてきた佐野の意識は、このアルバムで一層尖鋭になっていると言っていい。

ここで特に顕著なのは、この世界に対する違和感の表明だ。例えば繰り返し使われる「欲張り」「野蛮」「不公平」「不確か」といったキーワード。「すべてが壊れてしまった」「何もかもが変わってしまった」という時代認識。それらはすべて、この、不寛容で息苦しく、リスクとリターンのバランスが崩れてしまった世界への強烈な違和感に他ならない。

“優しい闇”はこのアルバムで最もはっきりしたプロテスト・ソングだ。人はあまりに傲慢で残酷だと佐野は告発する。「帰り道をなくしているのも知らずに」「約束の未来なんてどこにもないのに」。だが、佐野がそこで鋭く指摘する傲慢さや残酷さは、僕たち自身の傲慢さであり残酷さである。「優しい闇」、そしてそれと対置される「野蛮な闇」は何を意味するのか。

あるいは「市場原理主義」を告発する“キャビアとキャピタリズム”においてそれは一層明らかだ。吉本隆明の訃報に際して書かれた同名の詩を元にしたこの曲で、佐野は高度に発達した現代の情報資本主義をシニカルに揶揄して見せるが、浅薄で便宜的で功利的なその本質を支えているのはまさに僕たち自身なのである。

すべての人を等しく幸せにするだけの富がこの世界にないとき、僕たちが幸せになることは即ち誰かがどこかで不幸せになることと等価だ。そのような意味で、僕たちはグローバリズムにおいて疎外される者であり同時に疎外する者でもある。その両義性こそが現代の情報資本主義の抱える根源的なアポリアであり、自分一人そこから降りてしまうことのできない僕たちの不可避的な自己矛盾なのだ。

佐野はこうした多義的、両義的な現代社会の困難に対して声を上げ、プロテストしている。このアルバムは紛れもなく政治的であり、その奥には苛酷で仮借のない世界に対する佐野元春の静かな怒りがあることは間違いないが、それが自らの無謬性を根拠もなく前提して、それと対置した「ヤツら」を一方的に指弾する党派的な視線ではなく、僕たちが逃れようなく囚われたそのような現代の「魂の煉獄」を否応なく露わにし、僕たちがそれと対峙することを余儀なくしたことこそが真の意味で政治的なのだ。

そう、このアルバムで指弾されている者があるとすれば、それは政治家でも官僚でも資本家でもなく、その情報資本主義、グローバリズムの只中で、スマホを片手に通勤電車に揺られる僕たち自身である。これは僕たちについての物語なのだ。

ここにおいて、佐野が問う「生き残ること」、サバイバルの意識は、ただ単に毎日を食いつなぐという以上の意味を持っていることに僕たちは気づかない訳に行かない。それはかつて「つまらない大人にはなりたくない」と言い放った僕たちが、「時を重ねて」大人になり、取り敢えず毎日の食事には事欠かない程度には生活の基盤を確保したときに、この困難な世界を、いかに最大限誠実に生き抜くかということである。どのように生きたとしても手を汚さざるを得ない世界で、どのように真摯に手を汚すかということである。無謬ではあり得ないことを所与として、その上でどこまで正気を保つことができるかということである。僕たちは「善きこと」のためにどんな代償を支払う覚悟があるのか。

空には不吉な紅い月が浮かんでいる。それは僕たちの手が血で汚れていることを暗示している。「君が夢にみていたぬくもりは 他の誰かのためのお伽噺だった」。だが、僕たちはそこで立ち止まる訳には行かない。人生は短く、もう振り向いている訳には行かない。

あるいは「これ以上、待っていても無駄だろう」「待っていたって何も変わらない」という焦り、切迫感。厳しすぎる現実認識があるからこそ、僕たちにはもはや猶予はないことが分かる。いや、残された時間で僕たちが自分自身の生の核心をグリップするためには、リアルで容赦のない現実と向かい合う必要があったということなのだろう。

だが、このアルバムが素晴らしいのは、そうした尖鋭な問題意識が、生硬なポリティカル・ソングとしてではなく、この上なくシンプルで明快なロック表現として、繰り返し聴くに足るポップ・ミュージックとして成立していることだ。

例えば“境界線”のピアノのイントロが流れ出したときの「これから何かが始まる」という抑えきれない高まり。“紅い月”の破れたギターがドライブして行くソリッドな情感。あるいはまたフィラデルフィア・ソウルを思わせる“新世界の夜”のスムーズなストリングス。“私の太陽”のビートと歌詞が呼応し合うシンクロニシティ。

この音楽的な深化は、各々が名うてのミュージシャンズ・ミュージシャンであったホーボー・キング・バンドの卓越したプレイアビリティとも異なる、シンジケートとしてのアンサンブルの前進であり、佐野元春の言葉とメロディが求める世界観を共有し、それを音楽として表現するロック・バンドとしてのオートマティズムの獲得である。曲が内包する固有のビートを探し当て、召喚するインタープリターとしての一体性、共時性である。

深沼と藤田のツイン・ギターはもちろんだが、このアルバムでは特に渡辺のキーボードが重要なアクセントになっている。“私の太陽”でのアンビエントなピアノ、“誰かの神”や“キャビアとキャピタリズム”などでのクラビネット、そしてアルバム全編で効果的に使われるオルガン。シンプルでストレートなロック・アルバムとしての完成度に対する渡辺の寄与は大きい。

『COYOTE』以降、ラウドなギターの鳴りをジェネレータにしたストレートなロックで現代への危機意識を表現してきたコヨーテ・バンドは、このアルバムでラテン、アフロ、ファンク、ソウルと、幅広い音楽性を手に入れた。だが、その中心にあるのは間違いなく「ロック」と呼ばれるべきもの。ロックが僕たちの抱える過剰や欠損とフックする音楽だとすれば、このアルバムでバンドが鳴らしているのは紛れもなくそれである。

もはや猶予のない世界で僕たちはいかに生きるべきか。その問いに対する答えは僕たち自身が用意するしかない。しかし、そこに至るためのひとつのトライアルとして、佐野元春はこの、硬質でリアルなロック・アルバムを、他でもない2015年という状況に投下したのだ。

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