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クリムゾンのエピタフをスタジアムで熱唱する荒唐無稽な西城秀樹

甲本ヒロトもトリビュートする西城秀樹はオーダーフィフティーのロックオヤジの最初のロックスター

僕は右肩上がり信じて生きてきたので、現在が信じられなくてときどき無性にノスタルジックになるときがあるので、ノスタルジックな話をします。
丁度、2年前のこと
僕の親しい友人たち数人が、示し合わせたように、西城秀樹についてメッセージを送ってきた。
「俺達世代のヒーローだったよな」
「ひとつの時代が終わったな」
「俺は、炎が好きだったよ」等々
彼らと西城秀樹について話しをしたことはない。驚いた。僕は、小学生の頃から西城秀樹の熱狂的なファンでシングル盤を買い続けていた。そんな僕の過去をこと彼らは知らないし、彼らが西城秀樹に思い入れがあること僕も全く知らなかった。

アイドル歌手だった西城秀樹になぜ僕たちオーバーフィフティーおじさん世代は、こんなにも思い入れがあるのか、 僕は何故、こんなにも悲しいのか。
この想いを彼らの想いも込めてこの文章を今、書いている。
もう、西城秀樹のステージを観る事はできないのだから。

友人のなかで最も早く連絡をしてくると想像していた彼からだけは全く連絡がなかった。業界人の彼は、西城秀樹と沢田研二をこよなく愛し、学生時代からお決まりのモノマネを披露するという熱烈なファンだ。彼とは、学生時代にディスコに通った悪友。
彼だけは沈黙していた。彼がファンであることを僕は誰よりも理解している。
僕も彼にだけは連絡しなかった。
言葉がみつからない。

彼とは西城秀樹の最後になったツアーの恒例の中野サンプラザのコンサートを観にいった。45周年のアニバーサリーコンサート。コンサート直前に、西城秀樹のコンサートのチケットを手に入れたから観に行かないかと僕に連絡があった。何人か誘ってみたものの断られて僕に声をかけたのか、一番暇そうなのが僕だと思って誘ったのかその理由はわからない。
彼とコンサートに行くのは、ポール・マッカトニーの初来日のときにチケットを業界人の彼ならなんとかなるだろうと頼んで、2組のカップル4人でコンサートに行って以来のこと。実際はどうにもならなくて、2人で必死に電話した。今回は50のおっさん2人でひっそりと観にいった。

幕があがり、そこには手すりに捉まった西城秀樹がいた。席は二階席の最後列で、西城秀樹の表情を窺い知ることは出来なかった。手すりにつかまって立ち、椅子に座っての歌唱。往年のアクションはない。

しかし、西城秀樹のコンサートが元祖と言われるペンライトがヒカリ、ヒデキのコールアンドレスポンスも変わらずである。目を閉じれば、歌声、歓声は、往年の西城秀樹のコンサートだった
僕達は、話もしなかったし、立ち上がりもせず、歓声も送らなかった。数々のヒット曲に聴き入り、そして曲が流れる都度、目を見合わせ、2人ともヒット曲を口ずさんでいた。僕はほとんどの歌を唄えてしまうことに驚き、西城秀樹の歌は僕の記憶に刻まれているんだなと感慨深いものがあった。
彼はこれから打ち合わせがあるからと、僕たちはコンサートについて話すこともなくそのまま別れた。

西城秀樹は、ご存知のとおり、70年代に野口五郎、郷ひろみと三人で新御三家と呼ばれたトップアイドル、スパースター。繊細な歌唱力の野口五郎、ジャニーズの美少年路線の雛形ともいえる中性的で典型的美少年の郷ひろみ、そして、ワイルドな17歳のキャッチフレーズでデビューし、激しいアクションと絶唱型のボーカルが売りの西城秀樹。勿論、圧倒的に女性ファンが多かったのであるが、西城秀樹だけは小学生の男子のファンが多かった。
「ちぎれた愛」「傷だらけのローラ」の過剰なまでなドラマティックな曲「情熱の嵐」、「激しい恋」「炎」のコールアンドレスポンスを生み出したキャッチーで、アグレッシブな曲「薔薇の鎖」のマイクスタンドを振り回すパフォーマンスに代表される印象的な派手なアクションの曲。
そしてなによりハスキーで、過剰な絶唱型のヴォーカル。
ド派手な演出で唄われる歌詞は、時代を反映していて、弱い力のない愛する女性を一生愛し続ける、守り続けるというパターンである。当時の“男らしさ”の世界観を過剰に、わかりやすく表現していた。

「傷だらけのローラ」 作詞:さいとう大三
「今 君を救うのは 目の前の僕だけさ」

仮面ライダーにはなれないと悟った(あくまで当時の)小学生のカッコいいマッチョな“男らしい大人の男”の象徴は、太陽にほえろの松田優作であり、西城秀樹だったのだ。小学生の男子は、松田優作の殉職シーンと西城秀樹の「薔薇の鎖」のマイクパフォーマンスのモノマネに夢中になっていたのである。

西城秀樹は、幼少のころから、ジャズ、ロックに傾倒し、自らはドラムをプレイし、映画〖Woodstock〗に衝撃を受け、出身地の広島ではLed Zeppelinのライブを観たと公言するほどの洋楽好きである。
西城秀樹のヴォーカルが当時の歌謡曲で異彩だったのは、ハードロックに代表される70年代ロックのビートをドラムを通して学び、肉体化していて、歌謡曲という範疇の中で、ロックのビートを表現できる歌手であったからだと思う。そんな西城秀樹はステージでは洋楽のカバーを数多く唄い、「YOUNG MAN」に代表される数多くの洋楽カバーのシングルをヒットさせている。僕が初めて西城秀樹のライブをみた福島の田舎の映画にもなった温泉リゾートの歌謡ショー(と当時は言っていた)のオープニングナンバーは、当時大ヒットしていた「That’s The Way (I Like It)」だった。 ファンク、ディスコナンバーの極め付けをヒデキがアクションつきで唄うのである。それはそれは超格好良くて、その後、毎日、「ザッツザウェイ アハ アハ アイライクイット アハ アハ」とずっと唄っていた。
この歌謡ショーの直後から、僕は本格的に洋楽を聴くようになった。
そんな洋楽好きの、西城秀樹はステージでは洋楽のカバーを歌い、なんとKing Crimsonの「Epitaph」をスタジアムコンサートで唄っている。「Epitaph」を野外球場で唄ったのは世界中でGreg Lakeと西城秀樹しかいないだろう。洋楽ロック好きのヒデキはELPの来日コンサートを観て「Epitaph」を野外球場で唄うという企画を温めていたのに違いない。「Epitaph」の《コンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフ》と絶唱したかったのだ。その現場にいた人は何のことかわかったのかどうかは謎である

「Epitaph」と「YOUNG MAN」という組み合わせは、おいおいと突っ込みたくなるが、西城秀樹が唄えば不思議なほど普通に聴けてしまう気がする。なぜなら、西城秀樹という歌手の最大の特質は、どんなな歌を歌っても陽性な荒唐無稽にしか聴こえないところにあると思っている。「傷だらけのローラ」を絶唱し、「ちぎれた愛」の台詞を絶叫しても、「走れ正直者」をスカで唄ってもその違和感のなさは終生変わらなかった。荒唐無稽で底抜けに陽性な西城秀樹というジャンルに仕立ててしまう。
西城秀樹と同時代にロックのビート感を肉体化していて歌手は沢田研二だ。沢田研二のソロの初期の楽曲のテーマは年上の女性との叶わぬ恋だった。「あなただけでいい」「危険なふたり」等の楽曲である。
西城秀樹は沢田研二の後を追うようにその歌のテーマを徐々に変化させている。中期に発売された「ラスト・シーン」「ブルースカイ・ブルー」などだ。同じテーマでも両者の歌唱のイメージは対照的だ。沢田研二が死んでもいいと絶唱すると、気怠さと本当に死んでもいいという諦めを感じる。その冷めた歌声は、沢田研二の表現者としての真骨頂だ。非常に都会的で徹底して乾いている。
対して、西城秀樹が死んでもいいと絶唱するればするほど、絶対に死なないで愛する女性を守り通す、守り通すことができるんだということを感じさせる。ヒーロー的な勝利の歌になる。湿り気っている。
特撮ヒーロー時代に生まれ育った僕たちは、当時、どんな危機も必ず正義は最後に勝つという価値観を信じていたから、西城秀樹の勝利を信じるエネルギッシュな歌に心動かされたのだ。今振り返れば、右肩上がりのオーバーフィフティーおじさん世代の時代の音であろう、
衆知の事実であるが、僕と同世代の著名なロックヴォーカリストには西城秀樹に影響を受けたと公言するミュージシャンは多数いる。ビジュアル系で現在も活躍しているボーカリストには、直接、間接的にそのボーカルスタイルに影響力の大きさが垣間見える。また、ボーカルスタイルに直接影響を感じないが、僕と同世代の甲本ヒロト(当時THE HIGH-LOWS)も1997年発売の西城秀樹のトリビュート版『西城秀樹ROCKトリビュート』で「情熱の嵐」を歌っている。西城秀樹がロックの初期体験だったと自覚しているのだと思う。
そのヴォーカルスタイル、スピリットは次の世代にも受け継がれ、今後も生き続けていく。

お通夜に行ってきた。自分が、スターのお通夜に行くという人間だったのかと驚いたが、最初に音楽の素晴らしさを教え、僕の魂を突き動かすほどの衝撃を与えてくれた西城秀樹にお別れをしようと思った。

僕は、小学生低学年のころ、先生に授業中に指されると赤面してしまうような引っ込み思案で大人しい子供だった。両親もそんな僕を心配していた。そんな僕は、小学二年生のとき周囲の大人も友人も驚かす行動をした。当時、クラス替えが近くなると、グループを作って、歌を披露したりするお別れ会のような催しものがあった。僕は、たったひとりでヒデキの三枚目のシングル「チャンスは一度」を縄跳びを切り、マイクにして、振付をまねて震えながら唄った。ヒデキへの憧れは、人前では何もできなかった小学生の僕を突き動かし、ヒデキの素晴らしさをクラスメートに必死に伝えたいという衝動にかりたてたのだ。それほどヒデキの歌は衝撃的なエネルギーをもっていた。

その後、僕は徐々に友人も増え、積極的な子供になっていく。西城秀樹の歌が僕が変わるきっかけになった。何より、そこから、音楽はずっと僕の生活の一部であり続けている。

葬祭場は入場規制があり、僕は葬儀場に入ることはできなかったが遠くで見送るだけしかできなかった。が、それで充分だった。

会場を後にするとき、連絡をしていなかった、昨年コンサートに一緒に行った彼にメッセージを送った。
『お前の分も俺が最後の別れをしてきたぞ』
駅に向かう途中で返事があった。
『行ったのか、ありがとう』
それだけだ。

また、ツアーに行こうぜと言った約束はなくなったという事実だけが残った。
悲しい。とにかく悲しい。
そしてありがとうヒデキ

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