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また明日も、なんとか地下鉄の階段をのぼりきって、

宮本浩次「宮本、独歩。」にまつわる私のすべて。

流行り病の影響で仕事が休みになって2週間ほど経ったころ、会社から次の仕事を探すことをすすめる連絡をもらった。ショックも不安もなく、ニュースでみた失業者77万人の見込みという数字がただ浮かんでいた。自分も77万人の1人かーと、その日はのん気に花を買った。大きなスズランみたいな花は、カンパニュラというらしい。
休業前に仕事をする私の真横で上司がコピー用紙と非正規雇用を削減すると話し、勤務時間と日数がみるみる減らされていく時は、正直これから生きられる気がしなかったけれど、もうここまでくると、なるようにしかならない。何より、コピー用紙である道を選んだのは私だ。

仕事に行かぬうちに、北海道にも桜が咲いた。
冬の景色から浮いていた黄緑色の蕗のとうは伸びきって、チューリップの強烈な色が目立つようになってきた。冬木の新芽は少しずつ開きだしているのに、仕事に行かないので未だに衣替えをすませられずにいる。

休業で唐突に与えられた時間を過ごすうち、発売から2か月以上たってもずっと書きあぐねていた「宮本、独歩。」について書きたいと思った。

アルバム発売前、次々と出る宮本さんのソロ曲を追いかけていて、まるでこれまでエレファントカシマシがアルバム単位でやっていたことを、曲単位でやっているみたいだと感じていた。だからきっと今度出るアルバムは「THE FIGHTING MAN」のように、宮本浩次のファーストアルバムでありながらベストアルバムになるのだろうと、わくわくしていた。ようこそ、おめでとう、ありがとうが、確約されているアルバム。
一曲ごとに、発表された当時の衝撃と思い出があって、そのたびに宮本さんがたどり着いた境地のようなものを勝手に思い、語り出したらきりがない。その歩みは見事に「宮本、独歩。」に収まって、私の手元にある。それなのに、自分の受けたものを書きあぐねているのは、この時系列の体験・ドキュメントということだけが、私の感じていることの本質ではない気がしているからだった。

アルバムを聴いていると、枝分かれしてそれぞれの曲が実った経緯ではなく、その真ん中の幹部分にひとつの流れのようなものを感じる。この、私が感じている根幹って何なのだろう。

それについて書こうと考えるほど、なぜだか考えがあちこちにとんで、うまくいかない。
じっくり聴いて考えようと思っても、気が付けばアルバムをかけっぱなしにしたまま、何も考えずに口ずさんで家事なんかして、気軽に聴いてしまったりしている。あの宮本さんの曲を、じっくりと向き合うということをすっ飛ばして、気軽に聴いている頻度が高いことに、自分で少し驚いている。
エレファントカシマシの最新アルバムであるWake Upが出たころは、発売して三日三晩聴き続けたころに、唐突にアルバム全体として捉えられた瞬間があったのだけれど、このアルバムはそういう感覚が未だになかった。うまく言えないけれど、最初から私の生活に「音楽」として馴染んでいる。

ともかく「宮本、独歩。」について書こうとすると、色んなことが浮かんで話がとんでしまう。もう無理をせずに、思い出したままに書いていくことにする。

* * *

■2019年秋のはじめ 宮本君の不在から

書いていて唐突に思い出しのたのは、出勤中によく見かけていた青年のことだった。
その青年を初めてみかけたのは、昨年の秋口。地下鉄を降りて、駅から会社へ向かっているときだった。
男性にしては長い肩までの黒髪、真っ黒なクルーネックのTシャツにジャケット、パンツ。右手には黒い革のボストンバッグを持ち、左手はポケットに突っ込み、なびく黒髪の間から左右を見渡し、道の端を弾むようにずんずんと歩いている。

「明日への記憶」のころの宮本さんみたいだ。

顔や特徴的な体躯は似ていなかったけれど、青年は少し昔の宮本さんらしい格好をしていて、私は一目で彼を気に入ってしまった。混同して申し訳ないけれど、私はひっそりと自分の内で彼を「宮本君」と呼んで、毎朝見かけるのが楽しみだった。(朝のよろこびはこの他、いつも見かけるお尻がふわふわのコリーと、時たま寄るローソンの店員さんがみんな優しいことだった)
「宮本君」とはいつも同じくらいの時間にすれ違い、たまに私とは反対側の美術館のある通りを歩いていることもあった。一度だけかなり残業をしてしまった夜にもすれ違ったことがあり、その時は私と同じ時間に出勤しているだろう彼が、随分と長く働いていると知り驚いた。

その「宮本君」を冬が近くなったころから、見かけなくなった。
仕事が変わったのか引っ越したのか、もしくは彼が真っ黒な服装と髪型を変えてしまったのかわからないけれど、「宮本君」は私の朝からいなくなってしまった。

その話がいったいなんなのかというと、私はこのアルバムに「宮本君」があんまりいないと思っていて、見かけなくなった彼のことを思い出したのだった。

エレファントカシマシの曲には、どうしようもない悲しさも、気がつかぬ怒りも、瞬間で輝く喜びも愛おしさも、いつかを願う欲望も、祈りも、孤独も、自分が一人で町を歩き、部屋にいて肌で感じていた、漂うすべてがある。
この世のどんな人の歌よりも深く届き、こんなところにまで何かが届くのだとうまれて初めて知った。そのくらい、唯一無二の大切なもの。だけれど、その曲を聴いていていつも浮かぶのは、ほとんどが私の姿ではなかった。
自分の感じるすべてがそこにありながら、曲の主人公として町を行くのは真っ黒な格好をした「宮本君」だった。もちろんそれが浮かばない曲もあるけれど、自分にとって大切で深く届く曲ほど、私はこの像をいつも浮かべていた気がしている。

その曲の主人公への勝手な、強烈なシンパシーがあった。
「宮本君」の葛藤に自分が重なって、時に背を押し、押され、寄り添い、見送り。だからこそ、そうして重ねた先の宮本浩次が、それでもと戦い歩み続ける道を見て、心底信頼して、敬愛していた。

「宮本、独歩。」にはその「宮本君」がほとんどいない。
曲にはしっかりと今の宮本さんが頼もしいくらいに在る。でも視点が、主人公が違っているように感じる。
なんというか、ソロの曲たちには余白があって場があった。世界の主人公は「私」で、地に足の着いた「時代」になっている。だけれど、ちゃんと宮本浩次が、鳴っている。
このソロアルバムなのにいる、いない、ということがあるから、私はこのアルバムについて語ろうとするほど、わからなくなってしまうのかもしれない。

2019年に冬の花が配信リリースされ、初めてフルできいたとき、私はこんなにもエレファントカシマシと違うんだと驚いた。
歌謡曲だからとか、その他音楽の技術的な部分での説明は恥ずかしながらできないけれど、宮本さんの歌の鳴り方そのものが、全く違っているように感じられた。エレカシは宮本さんを先頭に音を作り上げるからこそ、その像が濃かったように感じていた。でもソロは宮本さんは歌として、他の音と共に楽器としてあり、「ひとり」というより「一部」の印象だった。
その時、ソロこそ誰かとやることであると思った。手足の、体の一部のようなエレカシをはなれて、うまれた不自由さで誰かとやる。不自由で誰かに任すことで、生まれる自由。
あらためて今は、ソロこそ宮本さんは「うたう」ことだと強く感じている。(そして同時にエレカシだからこそ感じる大切なこともあるように思う)

2017年。30周年ツアーで初めて、エレファントカシマシをみた。その時、エレファントカシマシは音楽に身を準じるプロフェッショナルという印象だった。2017年から2018年までの30周年という大きな祝祭の光の中、主人公はエレファントカシマシでもあり、おこがましい話だけれど、私でもあるように感じられる、共に歩む時間だった。
30周年に身を捧ぐ宮本さんは、今回のソロでCM・映画・ドラマ・コラボなどのひとつひとつに、向き合い身を捧ぐ様子と重なる。
求められた場に身を捧ぐことで、「宮本君」はいなくなったんじゃないか。
そうして枝先の実に捧げて幹に残った部分が、私がこのアルバムに感じているものなんじゃないか。

* * *

■2020年冬のおわり ただ普通の一日から

「宮本、独歩。」が出てすぐのころ、遅く起きた昼。
iPodにいれたアルバムをスピーカーに飛ばしかけていると、姉が音量を上げてと声をかけてきた。
姉は私よりずっと音楽好きで、NO MUSIC,NO LIFE.を地で行く人だった。エレカシを気に入ってくれてはいたものの、私が延々同じ音楽を聴くのを嫌がったので、音量を上げてというのは珍しいことだった。
珍しいなと思いつつも嬉しい気持ちで音量を上げて、二人で口ずさみながら出かける用意をする。着替えて、化粧をして、その間にアルバムが何週しても、姉が止めてということはなかった。
家を出て、移動中の車でもかけ続け、どの曲も二人で口ずさみ、一日を終えた。
特になんということもない、ただただ普通の一日。

その日の夜。風呂上りに髪を乾かそうとドライヤーを引っ張り出しながら、ぼんやりと一日のことを思い返していた。
今日はずっと二人で一つの音楽を楽しんで、歌っていた。ドライヤーのコンセントをさしたところで、ふと、ああなんかこれって、幼いころ音楽があった時の風景みたいだな、と気が付いた。
幼いころ一つの歌をソファの上ではねながら、おもちゃのマイクで歌ったり、車の中、家族みんなで歌ったりした、それが音楽だともよくわかっていないころの、私にとっての音楽の姿。(歌はシャンソン歌手の母の影響で”私は鳩じゃないわ 今は恋をするメスの狼”なんていう激しいものだったりもしたけれど)
そんな6歳9歳の女の子にあった音楽の姿が、帰ってきたみたいだった。

ああそういえば、エレカシを好きになってから、思い出したことがある。
雨の日の学校は、朝から電気がついていて、まるで夜の学校みたいでわくわくしたこと。
雪解けの水が、道路の脇に小さな川をつくり輝いて、そこに笹舟を流したこと。
ピアニストの父がたくさん持っているネクタイを、ウインドチャイムのように撫でるのが好きだったこと。
共に眠る母が私の指をつまんで、指の先まで愛おしいというように爪を撫でてくれたこと。

このアルバムをきいていると、こういう幼いころのものがよみがえってくる。
まるで子供の時にみたあの雪解けの川みたいな、光のような、道のような一筋のものが、この一個一個確立された世界を持った曲たちの中心をしっかりと通っている。正しい方に流れる美しい、大好きな何か。
漠然とこのアルバムに感じている、原風景。

これって私のものでもあるけれど、宮本さんのものでもあるんじゃないか。

「エレファントカシマシの宮本」の前の、音楽の根本。もっともっと最初の、純粋な動機。
なんというか、宮本さんのやりたかったこと、夢や思い出を語って、教えて見せてもらっているような感覚がする。昔合唱団で歌ってて、大好きなひとがいて、こういう歌が好きで、歌いたくて、こうしたくって。

だから、私の所にこの音楽の原風景がよみがえってきたんじゃないか。
ドライヤーの風で髪がバタバタするのを鏡越しに眺めながら、少しだけ見つけた気がした私にとっての「宮本、独歩。」の端っこを覚えておこうと思った。

身を捧げ「宮本君」がほとんどいなくなり、そうしてそこに残った、原風景を感じる一筋の流れ。
決して逆らわずにあるべくほうに、正しく流れている。血の巡りの良さのような、健やかさのような、めぐりの良さ。
それが、私が感じている根幹だった。

* * *

■2020年春のはじめ 物語から

雪がほとんどとけた。
朝のラッシュを避け、勤務時間を削減するために出社時間は遅くなり、宮本君は当然ながら、いつも駅で見かける白髪のうつくしいおばあさんも、お尻がふわふわのコリーもしばらく見ていない。今日の朝焼けはどんなだったんだろう。
ここのところなんとか維持しようと必死に取り繕っていた生活が、さらさらと崩れていくようで不安ばかりだった。今朝はやっと春を感じられる気温で、久しぶりに悲観せずに朝を歩けていた。陽が心地よい。きっと子供のころ住んでいたところでは、雪解け水の小さな川ができているんだろう。

この一か月も経たぬ時間でじわじわと自分ではどうしようもない力で、生活が変わってきている。
でも結局、こうして朝起きて、決まりきった服を着て、化粧をして、歩いて駅へ向かって、地下鉄に乗っている。いつも地下鉄の階段をのぼっているとあと3段くらいのところで太ももが限界を迎え、もう絶対のぼれない、今日こそのぼりきれないかもしれないと、馬鹿みたいにナヨナヨとしつつものぼりきって、会社へ向かう。そういうことは変わらなかった。
行動も物も、あらゆることが制限されてゆくけれど、私は明日も地下鉄の階段を、もう無理だと思いながらのぼるんだろう。

駅の階段をのぼりきったところで、陽の気持ちよさを感じながらイヤホンをして「宮本、独歩。」をかけた。ここ数日、不安ばかりであまり聴く気分になれずにすごしていた。
こうして数日音楽を聴かなくても、コンサートに行けなくなっても、私の生活は変わらなかった。音楽は困窮していく生活の解決にはならないし、生活が揺らげば音楽を聴くことすらせずに、我が身を大事にしている。
悲しいことに、自分の暮らしに必要なものは意外と限られていることを知った。

そうして浮かんでくるのは、じゃあなんで聴いているんだろう。ということだった。
なんの機能もないけれど必要とするものこそ、自分にとって大切なものだということは、なんとなくわかっている。理屈ではなく好きだし、それが豊かさをうむこともわかっている。でも、そもそも必要とするのはなんでだろう。

Do you remember?を聴きながら、美術館の反対側で信号が変わるのをまった。
暖かくはなってきたけれど、風が吹くとまだまだ鼻先や手が冷える。手袋を冬コートのポケットに入れっぱなしにしてきてしまったので、手を春コートのポケットに突っ込んでしのぐ。目の前を朝からやたらスピードをだす車がどんどん通り過ぎてゆく。美術館の前の冬木は、雪が積もっていた時はあんなに好きだったのに、雪がとけてしまうと寂し気に感じる。
道路脇の雪は解けて路面が光って、濡れた春のにおいが立ちのぼってくる。早く春にならないかな。なんだかもう、不安なことばっかりだ。今日は何事もなく会社で過ごせるだろうか。
向こうを行く老人。お母さんに手を引かれる子供、車、木、風と陽。突っ立つしようもない私。
いやでも、まあ、悪くないんじゃないかなあ。なんか、みんな愛おしい気がしてくる。
なぜだか音楽を聴きながら考えているうち、気分が良くなって信号を渡った。

ああ、そうか。

宮本さんの歌が、私に物語をくれているんだ。
音楽がなくても生きていける。必要なものは限られていて、それは変わらない。
けれど、なかったら間違いなく、これからが不安で考えながら町を歩いた時も、姉と過ごしたあの一日も、物語は生まれていなかったんだ。きっとなんの背景もなく、ただ過ぎていた。
世間のことも、自分の暮らしのことも、思いも、季節も、全部。この人の歌があると、この小さい、なんにともなれぬ日々が彩られて、それもこれも悪くないのではないかと愛おしくなる。だから、私は音楽を聴いているんだ。

これは私の人生で鳴る音なんだ。

「宮本、独歩。」だけではない、ずっと、ずっと沢山の宮本さんの曲たちと、私の日々はひとつだった。
2017年からのことがいくつも思い出されてくる。ああ気が付けて良かった。そう思える自分で良かった。

どうか明日もこうしてすごせますように。また明日も、なんとか地下鉄の階段をのぼりきって、道を歩いて、すこし気分が良くって、なんだか全部それなりに愛おしくって、宮本さんの歌を好きだと思えますように。
そう願いながら信号を渡った。もう数分で会社だ。
今日もなんとか、がんばろう。

* * *

■2020年春 この身一つから

次の仕事を探すようすすめられた電話があってから、1週間ほど。
家にこもりっぱなしも良くないので、散歩に出ることにした。服は春夏秋冬通して着ている、気に入りのワンピースにした。衣替えは未だにすんでいないけれど、この服があれば十分。
外に出ると、くもり空だった。でもそれが気にならないほど暖かい。風が吹いても寒くなく、むしろ心地よい気温。気に入りのワンピースが揺れる。

「宮本、独歩。」を聴きながら、家のすぐそばにあるのに一度も寄ったことのない公園へ入った。学校が休みの子供たちがまばらに遊んでいる。公園の中にも桜があったのを初めて知った。もうひらひらと散ってきてしまっている。公園に入ったものの、ベンチはすでに人がいたので、丘の石段をのぼることにした。
アルバムについて、なんて書いたものかなあ。どうにもまとまらないんだよなあ。

あの春のはじめ、たった数週間前まで、明日も変わらず地下鉄の階段をのぼるのだと思っていたのに、あっけなく明日はなくなってしまった。生きる必要最低限のためには労働しなければならない、というそもそものことがこんな風にひっくり返るなんて思いもしなかった。
ああしてきらきらした気持ちで、明日をどんなに願っても、祈っても、自分の思い通りになんて何一つなりはしない。労働すら叶わない。

でも、今も私には物語がある。

公園、木々、遊ぶ子ども、気に入りのワンピース。気持ちの良い風と、陽。人も、町も何もかもが愛おしくなり、耳から流れるこの歌に、行く末に、祈りがわいて求めたくなる。
公園を出て家へ戻る道すがら、やっと自分の感想が書ける気がした。

* * *

■現在 「宮本、独歩。」について

手元にあるものは全部不確かで、簡単に失われてしまう。必要なものも確かなものもこの身一つだけだと、今回のことでやっと知った気がする。
でもだとするのならば、ただ確かなこの身一つで、この気持ちだけでも選び続けたい。
明日も、宮本さんの歌が好きだという、その気持ち一つだけ。

何度だってはじまる力をもつ「ハレルヤ」から、
何時だって歩み求め続ける力のある「昇る太陽」へ流れて行く、決して戻ることは出来ない、うつくしく正しい流れが見える。
私がこのすばらしい契機と巡りのよいアルバムに感じているのは、幼い頃から今この瞬間にいたるまでのすべての物語への、肯定と、光と愛だ。

ようこそ、おめでとう、ありがとう。
とっても、とっても素敵なアルバムだと思う。

ここからどうなるか全くわからないし、選び続けたいこの気持ちも、すぐ揺れて見失ってしまうかもしれないけれど、ああでも、何にもなれぬこの日々をどうせなら、明るく陽気に、気楽にいきたい。

宮本浩次の歌をききながら。

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