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思い出しては取り出して聴き返す或る日の音楽

ジェフ・ベックはロックの熱狂を感じさせないおとなの音楽だった

イギリスのロックギタリスト、ジェフ・ベックのバンド、JEFF BECK GROUP「ROUGH AND READY」は、1971年のアルバム。今考えると、その前作「COSA NOSTRA BECK-OLA(ベック・オラ)」と比べても、いかにその音楽が洗練されたものかと思う。そもそもバンドのメンバーが一新されているのだから音楽性の同質と異質を言うことは出来ない。それにしても、この「ラフ・アンド・レディ」には、熱狂を興さずに流麗を想わせるところがある。太さと繊細さを併せ持った緊張から転じての流れの強弱。ごつごつとした激情を高まらせる前に降下して叙情へと緩和させるという様に、不確かな幅を往き来する。
1970年代前後の時代のジェフ・ベックのバンドはアルバム2枚を制作しては解散、メンバーを変えて音楽の方向性も次へ次へと展開されてゆくという傾向がある。「ラフ・アンド・レディ」からはじまるこの時のジェフ・ベック・グループは第2期だと言われている。メンバーは、ギターのジェフ・ベック、ベースのクライヴ・チャーマン、ドラムのコージー・パウエル、キーボードのマックス・ミドルトン、歌うボブ・テンチ、聴いてすぐに分かる音楽性にはブラックミュージックの印象が強い。バンドが志向したごつごつの黒いグルーヴとそれに釣り合わないかの饒舌なギターサウンド。圧力を強めながらも洗練は拒まぬ、強さとしなやかさ、荒さとなめらかさの崩れないバランス感覚。風向きはロックの時代より先を吹き抜けるかの様に熱さの向こう側へと。
 

僕は自分が高校生の頃の1995年、ロックを聴き始めた。ロックを探る情報の中からまず知らされた伝説のギタリスト、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの3人の存在をロックの三大ギタリストとして認識した。なかでも何故かジェフ・ベックがお気に入りだった。初めに聴いたのが「ROUGH AND READY」のアルバムで、学校の行き帰りにも休み時間にもイヤホンで聴いていた記憶がある。たぶんその時の同級生でこの音楽を聴いている人はいなかったのだと思う。
1990年代には、洋楽にも日本の音楽にも、一部では70年代ロックの再評価の機運が在ったように思う。その意識に影響を受けてのことか単なる偶然の一致なのか、自分にもその時代から20年30年と歴史を遡ってゆく指向が芽生えた。ロックミュージックの勃興、全盛を顧みることが奮わされるような感動になっていったこの時期だった。ロックの存在感が最高だった。それも伝説のロックだ。僕はこれは凄いぞと思いながらわくわくしていた。ロックが最重要だった。しかしこれは孤独な戦いみたいなものだった。周りにいる人たちはこれらの音楽に興味がないらしい。

そもそも自分が中学生の頃、音楽に何の興味も無かったのだからこれは訳の分からない革命だった。学校では人の前に出て歌わされるような音楽の授業や合唱の練習など駄目で、いつも口パクでごまかす。態度はいつもだるそうなふりをする。課題曲の翼をくださいを繰り返し聞くのも不快だった。それは音楽体験というものでない。楽しめる音楽体験として記憶に残るものも実に何もない。中学生のとき、流行っていたのか、LINDBERGとブルーハーツの曲を聞いたような覚えはある。学校の帰りに通っていた道の横の溝の排水口から茶色いネズミが出てきたとき、初めてネズミという動物を本物として目にしたときに心に浮かんだのは、ドブネズミみたいに美しくなりたいということばの断片だったような気がする。今すぐKiss Meのチュッチュッとネズミのチューチューは別の話である。中学3年のとき、流行っていたのは広瀬香美の”ロマンスの神様”だった。これは躍らせる弾ける歌と音楽とで耳に残って好きだった。それから中学を卒業して友だちと離れてしまった独りの日々、1993年から94年は高校1年だったのかそこへ至るまでの隙間の日々だったのか、記憶は深夜のテレビ番組COUNT DOWN TVの映像に変わる。たぶんそのとき、初めて自分の意思で気に入った流行の歌は、JUDY AND MARYの”Hello! Orange Sunshine”だった。JUDY AND MARYはまだ人気の出始めだった気がする。他にも番組で見たのかTHE BOOMの”島唄”から、MIYA&YAMIの”神様の宝石でできた島”という歌が好きになった。これらを聞いて少しだけ、音楽を聴きたいと思うきっかけになったのかもしれない。
それから急展開の、1994年は忘れない。ビートルズの「ライヴ!! アット・ザ・BBC」という1960年代初期のビートルズがラジオ放送に出演した音源をまとめたCDが発売されるのを知り、何故か心が躍った。家にあったCDのなかにビートルズの非正規のパチもんのCDが何故か何枚もあってそれを聴くようになったのも同じ時期かもしれない。お母さんがスーパーマーケットで見つけてきたものだったらしい。そこにはまたも、何故か「サージェント・ペパーズ」のアルバムのジャケットのデザインを変えてあるパチもんCDがあった。僕はこれを変な音楽だと思う。そして怖い音楽だった。異質にモヤモヤとした歌声、効果音、笑い声、歓声、波が急上昇して脱落急降下して弾けて消える不気味な音響、最期にはきもちわるい呪文みたいな声が聞こえてくる。アルバムであるらしいそれよりも魅力的に聞こえたのはビートルズのヒット曲だ。他にもジョン・レノンとポール・マッカートニーのヒット曲を何故かひとつのCDにまとめたパチもんCDがあってそれを聴いて覚えた。聞いていても、時代への感覚は意識としてなかった。古くさい音楽とは思っていなかった。ビートルズの歴史は知らないけれど、何十年ぶりにビートルズの未発表曲が話題になった1994年は、その後のビートルズアンソロジーシリーズへと至る布石のようなものかもしれない。

それから1995年だ。この年に大震災が起こり、ラジオ放送を聴くようになる。ラジオから聞こえる音楽で耳を引くのはロックだった。家の片付けをしながらローリング・ストーンズの”サティスファクション”が流れるのを聞いた。映画が好きだった影響で知ったステッペンウルフの”ワイルドで行こう”が流れてくるのは嬉しかった。僕は古い音楽が好きかもしれないと気付き始めていた。
もう細かいところは忘れたけれど、マイケル・ジャクソンのベスト盤と新作盤の2枚組「ヒストリー」が発売されるのを知り、手にしたのだと思う。その時の自分にはマイケル・ジャクソンもまた魅力的な音楽だったのかもしれない。新作の方にビートルズの”Come Together”のカバーバージョンが入っていたのも気になる。お気に入りのヒット曲は”Black or White”だった。これもロックのギターリフが良い。こういう感じが好きだとだんだん分かってきたのだと思う。いつの間にか独りにも慣れて高校生になっていて学校に行っている。ある日、教室のクラスメートが、マイケル・ジャクソンの新発売の「ヒストリー」の話を隣の席でしていたのを聞いて聞き耳を立てた。最近マイケル・ジャクソンの新しいのが出たやろ、と言っているから、そうそう僕も買ったよ、と言おうと思っても急に話しかけるのは無理なのでやめた。僕は人見知りだった。そしてここは男子校である。
高校生になった頃、流行っていたのはMr.Childrenのヒット曲だった。その辺りから小室哲哉がプロデュースを手掛けるダンスグループと歌手が目立ち始めてきた。けれど僕は実はTRFの最初の頃のヒット曲を何故だか良い感じだと思っていたかもしれない。そんな記憶がある。僕はなんとなく、みんなとおんなじような青春の日々を送れると信じていた。

学校の休みの週末、ラジオ放送を聴くのが楽しみだった。流行のヒット曲よりも日本の音楽よりも洋楽とロックが目当て。そんな日々で、たまたま聞いたT・レックスに何故か夢中になる。音楽が流れたちょうどその時、T・レックスの70年代のアルバムがいくつか発売されるというのをDJの人が言っていたのをメモした。T・レックスがロックの本当のきっかけだったのだ。”Get It On”から”20th Century Boy”や”Metal Guru” 胸をすくギターサウンド。個性的な歌い回し。いったいこのギラついたきらびやかさと高揚とした熱と勢いは何なのか。ロックには何かを突き動かすエネルギーがある。僕は窓の外へと目を移し、空を見上げて、部屋の天井を見て部屋中辺り知らずに見回して訳も分からず決意した。自分にも解らない。僕は心に決めた。1970年代ロックを追求すると。これは革命だった。その日の瞬間は消えない。

ビートルズの「アンソロジー」シリーズ、未発表曲の発売に併せてのドキュメンタリー番組がテレビで放送されたのを観たのはその年の年末だったと思う。
家族のみんなが紅白歌合戦を観ているときに、僕は別の部屋でビートルズに釘付けだった。今から考えても4時間以上に渡ってゴールデンタイムにビートルズが放送されるのは異例な気がする。ビートルズはいくつか聞いたことがあるから知っている曲はある。ビートルズは初期の音楽性からコンサートをやめて、芸術性に傾いた。実験的かつ革新的、自己の表現と意志の表明。僕は”Strawberry Fields Forever”の奇妙な映像に心奪われた。ビートルズの面々は不条理で不気味に見えた。以前に聞いた「サージェント・ペパーズ」の音楽と続いた世界がここにあって繋がった。ビートルズはマッシュルームカットの髪型と揃いのスーツを着た、いにしえのオールディーズのビートバンドではなかったのだった。しかしドキュメンタリーのなかで一番耳を引いたのは1968年の「ホワイト・アルバム」からの曲だ。ジョン・レノンが聞いたことのない調子でもって”Yer Blues”を叩きつけるように叫んでいた。思ってもみなかった激しいロックサウンド。”Helter-Skelter”や”Everybody’s Got Something To Hide Except Me And My Monkey”のビートの印象が衝撃だった。”Revolution”のノイズギターに揺れるビートルズの姿。ビートルズはロックバンドだったのだ。ここで第二次革命が起きた。
それから後に初めて買ったビートルズのアルバムは1967年の「マジカル・ミステリー・ツアー」だ。なんでやねん!革命と大それた事を言っておきながら、どないやねん!とずっこける。いやそこまでずっこけはしないのだけれども。その当時、ビートルズの「ホワイト・アルバム」のCDが店に行ってもどの店でもなかなか見つからないのは困った。とりあえず在るものを買うしかなかった。そうだとしてもビートルズは「マジカル・ミステリー・ツアー」が最初で良かったのだ。ここが自分の出発点。だからこそ1967年からの音楽の展開の数々が興味深く、その方向性が今も鮮明に残る。

次はエリック・クラプトンのバンド、CREAM(クリーム)だった。これもラジオ放送で特集されたところを聞いた。テレビでもロックのルーツを探る番組が毎週放送されているので見ていた。エリック・クラプトンがギターを弾いていたバンド、YARDBIRDS(ヤードバーズ)にその後順次ギタリストとして在籍した人たちを三大ギタリストと呼ぶらしい。クラプトンの後にジェフ・ベック、そこへ加入したジミー・ペイジ。
ヤードバーズから抜けてブルースを追究したのちのエリック・クラプトンのクリーム。続いてバンドを抜けてジェフ・ベックは自身のグループを結成。ヤードバーズを引き継いだジミー・ペイジのその後に発展した形のレッド・ツェッペリン、という事らしい。
今考えると、ヤードバーズというひとつのバンドから輩出された3人のギタリストだけが、ロックの三大ギタリストだと言われていたのはとても狭い感じがする。本当は他にもロックの名ギタリストはたくさんいるのだが、どこが素晴らしいからその3人がそうなったのだろう。やはり考えられるのは人気と影響力の強さかもしれない。そして実際にロックの名盤として認知されているもののなかにはこの3人が残したものが必ず入っているのだからその称号には相応しいのだろう。

そんななかで、まず僕はエリック・クラプトンのクリームが演奏するサイケデリックな雰囲気たっぷりのハードロックサウンドが気に入った。クリームの代表作「DISRAELI GEARS(カラフル・クリーム)」も1967年のアルバムだった。バンドサウンドでは特にジンジャー・ベイカーのバタバタしてゆくリズムが気持ち良かった。聴きながらよく膝を叩いてリズムに合わせたりしたものだ。ドラムの演奏を意識として聴くこと体感としてリズムを感じることをここで覚えたのだと思う。
けれど、エリック・クラプトンのギターがやはり凄いのだと思う。ビートルズのように編集や録音技術を駆使せずともギターサウンドだけでサイケデリックを表現することは出来る。クラプトンはこういうディストーションギターを弾き始めた最初の1人なのだろう。しかしハードなギターでロックをやるのは1960年代で終わってしまう。クリームの後のブラインド・フェイスというバンドでは、まだサイケが残るギターサウンドが聞こえてくるけれども、70年代以降のソロ活動にはそういう傾向が失くなってゆく、と僕は思った。クラプトンを追求するのはやめておいて、ジェフ・ベックへと傾いた。ジミー・ペイジへと傾いた。

ある日レッド・ツェッペリンの名曲を連続で流していたラジオ放送を聞いてすぐにラジカセにカセットテープを入れて録音ボタンを押した。その日からテープを繰り返し聴いていた。ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンのバンドに於いて、1960年代から続くロックの、期待通りのギターサウンドを鳴らし続けている、と僕は思った。やはりハードロックが好きだったのだと思う。
毎週楽しみにしていたテレビ番組のなかでロックの昔の映像が見られるのが良かった。特に印象深いレッド・ツェッペリンだった。1969年の映像が衝撃に過ぎる。歌うのは”Dazed And Confused”だ。変わって1973年のマディソンスクエアガーデンのライブ”Rock And Roll”を見比べれば、4年の間でレッド・ツェッペリンが如何にロックスターになったのが明らかに分かる。ロバート・プラントは胸をはだけた姿でへそ出し。ジミー・ペイジはパンタロンのズボンも印象的な黒の派手な衣装を身に付けて踊るようにギターを弾いていた。そして一番気になったロバート・プラントの声だった。声が高いこと、余裕綽々にレッド・ツェッペリンの名曲を歌いこなすこと、それは1969年のロバート・プラントと対照的な姿だった。69年のプラントは雰囲気たっぷりに髪を振り乱して声も割れんとばかりにマイクへと襲いかかるかの様に全力だった。若さの強烈なエネルギー、声はざらつきギラついていた。ロックはそのエネルギーだと僕は信じ込んでいた。レッド・ツェッペリン、1970年代のロバート・プラントの高い声が苦手になったその時だった。レッド・ツェッペリンを進んで聴くか聴かないかはロバート・プラントがどういう声なのかというのがポイントだった。聴きたいのは初期であり1969年だった。今見てもその時期のツェッペリンのメンバーは魅力的な若者だ。服装も面構えも。そしてジョン・ボーナムはイケメンだった。ジョン・ポール・ジョーンズもジミー・ペイジも美しく、ロバート・プラントはスタイル抜群の貴公子で、野獣だった。
ロックと云えば、やはりヴォーカルの強さが重要だと僕はその時、勝手を想っていた。聴きたいのはざらついたシャウトだ。しゃがれていればなおのこと良い。そんな野獣の如くの声を求めていた。ワイルドで行こう。

レッド・ツェッペリンのアルバムのCDが店に置いていなかったのかどうなのか記憶が定かではない。とりあえず、僕は高校生の時にはレッド・ツェッペリンのCDを持っていなかった。数年経って最初にアルバムを手にした時、それは1975年の「フィジカル・グラフィティ」だった。なんでやねん!ロバート・プラントの高い声が苦手と言っておきながら、どないやねん!とずっこける。いやそこまでずっこけはしないのだけれども。その当時、店に行ってもどの店でもレッド・ツェッペリンのアルバムが揃っていなかった、と言うつもりはない。もう忘れたのだけれど、たまたまあったからそれを手にしたのか。「フィジカル・グラフィティ」だった。そこで僕は一旦ツェッペリンに挫折する。”Trample Under Foot”のリフとリズムを聞いてなんか聞いたことある、と思った。中学生くらいの時、友達の部屋で聞いたB’zだと思い出した。
家族で行く里帰りの車中で、大学生になっていた僕は「フィジカル・グラフィティ」の音楽をかけさせてもらった。しかし聴いていたのは自分ひとりだったと思う。こういう風に車の中で音楽を聴かせてもらうのも楽しみだった。お父さんもお母さんも気に入ってくれたらそれは嬉しいのだけれど、うるさい、やかましい、めんどくさい、ねむたい、と言われるのがオチだった。言葉がわからんと言われたらどうしようもない。
レッド・ツェッペリン方面に行くことなく、高校2年の時1996年、僕はジェフ・ベック・グループ「ラフ・アンド・レディ」のアルバムを毎日のように繰り返し聴いていた。そのきっかけのひとつは、夜のラジオで紳士なDJピーター・バラカンさんの番組”BBCロックライブ”というのを聴いた事だった。放送されたレッド・ツェッペリンのライブとジェフ・ベック・グループのライブを聴き比べて、その時選択したジェフ・ベックというわけでもあったのだと思う。展開がアコースティックにもなるある時期のライブのツェッペリンよりも、黒いビートで疾走するかの様な第2期ジェフ・ベック・グループが魅力的に聞こえたのだ。
ツェッペリンよりもカッコいいジェフ・ベック、と信じたかったのかもしれない。僕は山あり谷ありの寄り道の曲者忍者だった。
ある日、学校の休み時間に教室の片隅でジェフ・ベック・グループ「ラフ・アンド・レディ」をイヤホンで聴いていた。するとそこへ忍びの如く、クラスメートがサッと近くに来て僕の耳からおもむろにイヤホンを取り上げた、そうして、何聴いてるん?と言いながら自分の耳に着けて聴いたという事があった。僕は説明はせずにその子の表情を見ていた。しばらく聴いて、反応があるのかと期待したのだけれど、無言の無表情でイヤホンを返された。その時流れていたのはたぶん、”New Ways Train Train”という曲だった。わかるわけないよな。なんやねん、と僕は忍んだ。
そういえば、教室でまた別のクラスメートが話しているのを聞いたことがあった。3人くらいの中の1人が、その頃人気の出始めたスピッツの素晴らしさについて熱弁していた。流行っていた歌は、”ロビンソン”だったと思う。その彼から、あとのふたりに対して、おまえらにロビンソンの良さが分かるか?というような言葉が放たれていた。僕は、なんやねんと思っていた。忍びの世界には関わりのないことだった。

それから、ジェフ・ベック・グループの「ラフ・アンド・レディ」からさらにその先を聴きたくて2作目「JEFF BECK GROUP(オレンジ・アルバム)」を手にした。これはバンドメンバーが同じながら、印象がだいぶん変わっていた。歌心も豊かに、音楽の幅は広がったにせよ、1作目の勢いと熱量に比べれば激しさが物足りない、とその時は思った。より黒人音楽に近づいた印象。しかし求めていたのはロックのダイナミズムだったのだ。少しだけあてが外れた想いがした。

電車に乗って通学するなかでイヤホンを着けてずっと音楽を聴いていた。「ジェフ・ベック・グループ(オレンジ・アルバム)」から充分満足な1曲を挙げるとするならば、”Ice Cream Cakes”だ。音楽の全体が気に入らないと思いながらもこの曲だけは凄いと感じた。
今聴いても、グルーヴが生む緊張感は半端ない。不穏な空気感に切り込むギター。空間全体が揺らぐほどにうごめくリズムとベースの低音の歪みと重み。ぎらつく反射のジェフ・ベック。緊張の糸を途切れさせない凄みのコージー・パウエル。分厚く全体を采配するクライヴ・チャーマン。ざらつく声のボブ・テンチ。絶妙なタイミングを知り尽くすマックス・ミドルトン。それが耳のなかで響いている時、僕には電車に揺れる他校の女子高生の後ろ姿が見えていた。ミニスカートとルーズソックスの時代。これは孤独な戦いになるだろうと感じた瞬間だった。

僕は何故だか、自分が聴いている音楽に対する自信がなかった。揺るぎないものはその時にまだ打ち立てられてはいなかった。ジェフ・ベック・グループにまつわる存在として知ったアメリカの1960年代のサイケデリックロックバンド、VANILLA FUDGE(ヴァニラ・ファッジ)を、学校の行き帰りに聴いていた同じとき、そのバンドから出たベース奏者ティムボガートとドラム奏者カーマイン・アピスとギターのジェフ・ベックによるトリオ編成のバンド、1973年の「BECK.BOGERT&APPICE(ベック・ボガート&アピス)」も聴いていた。「ジェフ・ベック・グループ(オレンジ)」の翌年であるにもかかわらず、それまで表現していた黒いグルーヴが続いていなかったのが残念だった。音楽性はギターによるハードロック仕様へと変貌した。ここにはあの求道と洗練からの落差が感じられた。バンドメンバーが一新されているのだからこれを比べるのは無意味だが。

一方で僕は、ヴァニラ・ファッジを表現する”アートロック”という言葉の響きに惹かれていた。ロックは遊びでなく芸術なのだという意味が自信にも繋がる。そして気恥ずかしいまでにヴァニラ・ファッジのロック表現は過剰につき過激だった。ビートルズの名曲”エリナー・リグビー”や”涙の乗車券”を拡大解釈でサイケデリックに不気味なオルガンロックに仕立て上げていた。僕はイヤホンで聴きながら、この歌を音漏れさせたくないなぁと思っていた。しかし過剰すぎるところがロックのすべて、という気持ちはあった。同じ時期、ラジオ放送で聞いた英国のロックバンド、SPOOKY TOOTH(スプーキー・トゥース)の1969年の傑作”Evil Woman”がその時の気分の最たるものだった。しゃがれた声と対比する調子外れな裏声が交互に現れ展開してゆくヘヴィーロック。雷が直撃するかの様なギターソロと打ちつけるドラムの後光。凄いと思った。
あるいはアメリカのロックバンド、MOUNTAIN(マウンテン)の名曲”For Yasgur’s Farm”にも同趣の響きがあった。また、例えば、PYTHON LEE JACKSONのバンドで歌うロッド・スチュワートの雰囲気たっぷりな叙情、そこにもロックに於ける叙情と激情のバランス感覚を見いだせた。ロックに求めたかったのはそれかもしれない。僕はオルガンとキーボードとギターによって発散するロックの過激さと趣向に惹かれていた。

ベック・ボガート&アピスは、それらの気分を裏切りさえするほど、暗雲とは無縁の明解さのハードロックだったかもしれない。ヴァニラ・ファッジから続くかのようなハイトーンのヴォーカルスタイルは、高校生の自分には響いてこなかったのだと思う。切実なものは歌の強さと荒々しさだったのだ。それでも繰り返し聴いてはいたのだと思う。

自分がそれらの音楽を自信を持って聴いていないとき、例えば音漏れさせないようにと忍びの如く、辺りを気にしていたとき、何故か、僕は世代よりも世界の幅と落差について感じていたのかもしれない。
朝の通学でバスに乗っている時、同じ学校の生徒がイヤホンで音楽を聴いていたのがデカい音で漏れていて歌詞の内容まで聞こえてきた。

恋しさと切なさと心強さと。
青春の日々と響き。
20年経っても聴き足りない音楽を、
僕は聴こう。

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