3894 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

メーデーという名の救難艇

たとえ冷たい海の底にいようとも、BUMP OF CHICKENの唄が届く理由

多分だけれど、多くの人間は助けて欲しい時に自分から救難信号を出すのは難しい。
時と場合にもよるが、それが精神的に沈み込んでしまったり、漠然とした不安を抱えていたり、ただただ眠れなかったり、そういう目に見えないピンチなら猶更だろう。
そういう時は大体黙って我慢してしまったりするものだから「音沙汰がない」とか「平気なふりをする」とかでやり過ごしがちだ。

いくら心の深い奥底で、悲鳴をあげていたとしても、対外的に見た時に「沈黙」ならばだれにも聞こえない。
それは自然だし普通のことだし、沈黙している自分が悪いのだから誰も助けてはくれないのは当たり前だと思っていた。
助けてください、と言ってもいないのに誰か察してくれ、なんてあまりにも横暴だ。

だけど、「メーデー」は違った。
冒頭のフレーズから、ぐっと引き込まれた。

『君に嫌われた君の 沈黙が聴こえた』

それはあまりにも衝撃的な歌詞だった。
一番はじめの掴みの部分で、なんというか、気付かれた!と思ってしまえたのだ。
沈黙の悲鳴というあまりにも判り難い、というより普通なら判るわけもないヘルプを、メーデーという唄は検知した。
「沈黙が聴こえた」という一行で矛盾している言葉を「メーデー」は覆した上に、そこからどんどん心の底へと潜ってくるのだ。
 
 

タイトルである「メーデー」は船舶や航空機、あるいは人間が差し迫った重大な危機に直面し、即時の救助を必要としている救難信号に由来されている。
そしてこの歌詞から見える風景は人の心を水面、水中、海底に準えながら、あたかもこの唄自身は救難艇となってどこまでも深い海底まで救出しにきてくれる。
例えばこうだ。

『息は持つだろうか 深い心の底まで 君が沈めた君を 見つけるまで潜るつもりさ』

冒頭で”君に嫌われた君”はすなわち、”君が沈めた君”であり、自分自身を嫌うような後ろ暗い姿でさえも。
メーデーはそんな本当の”君”の姿を見つけたくて、救いたくて、心の底に潜ってきてくれる。
もしかしたらそれはみっともないかもしれない姿だとしても、救難信号に気付いた以上、命懸けで潜ってきてくれる。
その証拠に、

『苦しさと比例して 僕らは近付ける 再び呼吸をする時は 君と一緒に』

という言葉が続く。
救出しに向かう救難艇だって、底が深ければ深いほど苦しい。
そして、苦しければ苦しいほどこの唄でいう”君と僕”の距離は近くなり、もう息さえ出来ないような”君”と運命共同体となる決意を唄ってくれるのだ。
 

この唄が心の底に響くのはこういうところだと思う、
生身の人間が身体ひとつで身の危険を顧みず、一緒に溺れるかもしれないのにそれでも助けにきてしまうような、途方もないほどの絶対的な愛情を感じる。
音楽というものは身体を寄せ合うことも息を探り合うこともできない筈だけれども、この唄はまるで血が通っているかのような、距離の近さなのだ。

さらに、安全な場所から安全な方法で、優しく耳障りのよさそうな言葉で、助けるよとか頑張れるよとかあたかも遠くから励ますような雰囲気は一切ない。
丸裸にされた心には、ちゃんと丸裸でぶつかってきてくれるような真っ直ぐさがあふれ出している。
 
 
 

そして、救出しに来てくれた”僕”もスーパーヒーローでもなんでもなく、ちゃんと血の通った人間であり、2番では”君”が”僕”の沈黙を聴く展開になる。
これはもしかしたら、”僕”が”君”を救出する為潜りこんだ時、゙”君”と”僕”の距離が縮まったことによって、逆に今度は沈黙が聴けるほどに通じあえたのかもしれない。
命懸けで潜りこんでくれた”僕”に対して”君”が心を開いたのかもしれない。

そして、こう問いかけてくれる。
『誰もが違う生き物 他人同士だから 寂しさを知った時は 温もりに気付けるんだ』

冒頭から途方もない孤独感を感じさせていた”君”は、寂しいからこそ、冷たい海底に沈んでいたからこそ「あたたかさ」を知ることができたのだと。
ずっとあたたかいところで、救難信号を出す必要もないほど恵まれた人だったなら”僕”にも出会えないし”僕”の温もりも気付けないのだと思う。
寂しさや孤独感を肯定し、むしろ愛する、BUMPらしい歌詞だ。
 
 

『怖いのさ 僕も君も 自分を見るのも見せるのも 或いは誰かを覗くのも
 でも 精一杯送っていた 沈めた自分から 祈る様なメーデー』

そして、そんな「寂しさや孤独感」のある心の深渕に触れる行為も、心の深淵を知られる行為も、どちらも痛みを伴うこと。
そしてそれはとても怖いということ。
しかもお互いに見せあおうとしなければ相手も閉ざしてしまうであろうこと。
だけれどもそうしなければこのメーデー(救難信号)を救うことは出来ないであろうこと。
そんなことを、次第に気付かされるのだ。

この歌詞の直後に、まるで差し迫ってくるような、沈んだ”君”と救出しにきた”僕”の手と手が繋がるような、
物語のクライマックスのような、不規則だけれど力強く逞しく、心を開きあった彼らのように勇敢なドラムソロが響く。

(余談だが、私はこのメロディも歌詞もない音だけの、まるで信号音を体現しているかのようなこのドラムの音色で毎回泣けてしまう。
本当に泣けてしまうので、頻繁にはメーデーは聴けないほどだ。)

そして、きっとこの時に本当に海底で彼らの手は繋がったのだと思う。
“君”と”僕”が手を繋いで陽の光がゆらめく水面をめがけて泳いで昇っていく情景が目の奥に浮かぶ。
 

─ 『勇気はあるだろうか 一度手を繋いだら
     離さないまま外まで 連れていくよ 信じていいよ』 
 
 
 
 
 
 
 

さて、メーデーは、心情や言葉やすこしの動詞が中心で、情景描写を沢山しているわけでもない。
なのに全ての歌詞の情景がフルスクリーンで眼の奥にうかぶような、まるで映画のようである。少なくとも私はそう感じている。
そして、その物語の”君”は決して他人事ではない、他人と他人の身に起きた感動物語ではない。
自分事のように感じさせてしまうのだ。

それは、冒頭で触れた「気付かれた!」と感じさせるフレーズ
『君の沈黙が聴こえた』
がきっかけとなって、始まっていた。

高みから「がんばれ」「元気だせ」「君ならできる」「這い上がれる」なんて薄い言葉を投げるわけではなく、同じ深さまで潜ってきてくれて歌の中に潜む孤独を見せてくれたことも。
痛みや孤独は無くしてしまおうなんて不可能なことは言わずに、痛みや孤独を大事にしてくれたことも。
何もかもをさらけ出しながらも流れるその唄は、まるで手を繋いでくれるような温もりがあったことも。
全部が自分とBUMPの唄のこととリンクしていた。
 
 

私にとっての”僕”はBUMP自身だ。

そして、私にとってのメーデーという唄は、救難信号を検知する救難艇だ。

海底に沈みこんで救難信号すら声に出せない時にも助けにきてくれる、そんな存在なのだ。

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい