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悲しみが役に立つ時

槇原敬之の、雲間から光を感じさせるような着眼

この文章を、おもに中学校や高等学校に通っている人たちに読んでほしくて、いま書き始めています。槇原敬之さんが2007年にリリースしたアルバムの題「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」というものが不意に思い出され、若かったころの自分が、同じように(悲しみが役に立たないと)考えていたことに気付きました。

ただ私は、何かを諭すのが主目的で、本文を綴るわけではありません。むしろ自分自身に、文章を書く上で(気持ちを言葉に置きかえる上で)何が大事なのかを、あらためて言い聞かせたいと思っています。身勝手な試みかもしれません。それでも、大学や専門学校に進もうとしている人も、中学や高校を出たあとは(すぐに)働きはじめようとしている人も、きっと「論文」や「レポート」の類を書く機会はあるはずで、そのときに役に立つかもしれないことを、ほんの少しは届けられるかもしれません。

私は「技巧」をお渡しできるような立場ではないと思われます。それでも「書く時」だけでなく、何かを「考察」する時の、一助となるような思想や発想を、いま手渡せたらと願っています。

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私は本文を「典型的な論文」のスタイルで書いているわけではないのですが、主題を決めてはみたいと思います。「悲しみが役に立つことはあるのか」というものにしましょう。結論から述べますと、私は「ある」と思っています(はじめにハッキリと、どんなことを述べたいがゆえに筆をとったのか、それを書くことが「論文」を仕上げるうえでは求められます)。

私は「悲しみが役に立つことがある」と思っているわけですが、このような自身の(漠然とした)意見や想像といったものが、いわゆる「主観」というものです。誰かから意見を聴かせてもらったり、典拠性の高い情報を得たりすることで、人は「客観性」を獲得していきます。「主観」と「客観」を分けることは、なかなか難しいことです(この年齢になった私にとっても困難なことです)。

だから私は日々、何かを書いたり、発言したりする時、それが「主観的なこと」なのか、誰かの存在に支えられた「客観的なこと」なのかを、よく考えるように心がけています。このように書くと、まるで主観を持つことが「悪いこと」のように聞こえてしまうかもしれませんね。私が強調したいのは(自分に言い聞かせたいのは)、思い込みだけで何かを決めることはせず、できるだけ「人の力」を借りたいということです。そして誰かから力を借りたなら、そのことに感謝したいということでもあるのです。

そして矛盾したことを書くようですが、私は音楽を聴く時、時として主観と客観がないまぜになったような、不思議な気持ちになり、それを尊い時間だと感じもするのです。アーティストの紡ぎ出す詞が、まるで自分を代弁してくれるもののように感じられ、その「あまりにも強い共感」に誘われるように、青年期の感懐を取り戻せることが(私には)あります。

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槇原敬之さんは、楽曲「太陽」のなかで、以下のようなことを歌います(このように、楽曲に限らず、何らかの作品から言葉を借りる時、それが「引用」なのだと明示することが、文章を書くうえで重要です)。

<<例えばあの時の雨雲が 僕らにかからなければ>>
<<前より強いこの気持ちを 感じられていただろうか>>

私の胸には、このセンテンスが、いつの間にか深く刻まれていました。だからこそ、あるタイミングで「悲しみが役に立つことがある」という私見を持つに至ったのだと自己分析しています。つまり私は、本曲の詞を紡いだ槇原敬之さんに支えられるようにして、自分の意見(大袈裟に言えば世界観)を持つに至ったのです。

ただ、この歌詞を槇原敬之さんが、実体験をもとに「本音」として放ったのかは、もちろん私には知りようがないことです。そして<<雨雲>>という単語を「悲しみ」の暗喩だと感じたのも、ことによると独りよがりな受け止め方かもしれません。

それでも私は、悲しい経験をしたがゆえに、ある歓びを感じられたという経歴を持ちます。それは「事実」と称して差し支えないと思います。私は高校受験で、第一志望に合格することができませんでした(その高校は、ある大学の附属校だったのですが、その大学へ内部進学する権利を得られなかったわけです)。その「悲しみ」は、かなり長い間、心のなかに残りつづけました。それでも、その挫折を味わったがゆえに、同じような痛みを感じる人の気持ちは、うっすらと察せるようになりました。そういう形で、私は悲しみを、役立てられているかもしれません。

そして大学入試に臨み、合格できた大学で、私は貴重な教訓を多く得ました。経験から何を得るかは、人それぞれに違うものだとは思います。だから私ひとりの「事例」を根拠に「悲しみは役に立つ」と断言するのは、あまり好ましくはないでしょう。それでも私は「太陽」の主人公もまた、悲しみの果てに「人生に役立つ何か」を得られたのではないかと、そう思わずにはいられないのです。

<<確かに一度も迷わずに いられた訳じゃないんだ>>
<<誰かのための幸せを 当たり前の様に祈りたい>>

私は大学で、文学部に籍を置いていたので(身を入れて学んだのは倫理学や哲学ですが)、その立場から詞を読み解いてみたいと思います(つまり、ある程度の見識にもとづく、それでも主観に過ぎないかもしれないことを述べるということです)。

<<前より強いこの気持ちを 感じられていただろうか>>

これは恐らく「反語」なのだろうと思います。槇原敬之さんは<<感じられていただろうか>>と、まるで問いかけるような言葉を放ちました。それによって「いや、きっと感じられはしなかっただろう」という主張が、むしろ強調されているのではないでしょうか。<<雨雲が>>自分たちの頭上を覆った、その経験を持たなければ、楽曲の主人公は<<強いこの気持ち>>を勝ち得ることはできなかったはずです。

<<誰かのための幸せを 当たり前の様に祈りたい>>

この歌詞も、注意深く味わってみるべきだと、私は考えます。<<祈りたい>>、それはつまり、まだ祈れてはいないことを意味するのかもしれません。少なくとも<<当たり前の様に>>は、彼は祈っていないのでしょう。文末をどうするか、私たちには多くの選択肢が与えられています。「祈ります」と言い切ることもできるし、「祈れたら」と嘆くこともできます。それでも槇原さんは<<祈りたい>>と、願いを表すことを選びました。それが私に、この記事の副題を付けさせました。槇原敬之さんの着眼、その選び抜いた言葉は、雲間から微かな光が漏れてくるような、そんな情景を私に想起させるのです。

人間という弱い生きものが<<誰かのための幸せ>>を祈れるかというのは、哲学的、あるいは倫理学的な問題かもしれません。私は今宵、名前も顔も知らない、若い人たちに語りかけるような気持ちで、この文章を書き進めてきました。あなたたちの<<幸せ>>を祈ってはいるつもりです。それでも、やはり私にとっては、身近な人のこと、そして自分自身のことが、より大事だと(優先度が高いと)思えてしまっています。

それを申し訳なく思うと同時に、そんな姿に親近感を持ってもらえるのだとしたら、そのあなたこそが人間味を持っているとも思うのです。<<誰かのため>>に祈ることは、何かしらの充足感、あるいは自尊心といったものを持っていなければ果たしえないのではないかと、個人的な体験から考えています。できることならば、以下の歌詞に呼応するように、<<幸せ>>になって下さい。その温かな場所から<<誰かの幸せ>>を祈ってくれるなら、その<<誰かの>>なかに私や、槇原敬之さんがいるのなら、その<<祈り>>を有り難く受け止めます。

<<喜びも悲しみも 自分がすべて選び心に 招き入れていることに>>

※<<>>内は槇原敬之「太陽」の歌詞より引用

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