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2017年8月30日

imdkm (28歳)
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言葉と歌が手と手をとって。

□□□“Japanese Boy”を聴く

 □□□がこの7月にリリースしたミニ・アルバム《LOVE》は、今年リリースされた数多あるポップ・アルバムのなかでも随一の存在感を放つ作品だ。それはたとえば彼らの諸作品、とりわけ2009年作《everyday is a symphony》などに見られるような、アルバムを貫くコンセプトやまとまりは欠いているかもしれない。けれど、むしろそうしたコンセプチュアルな枠組みを欠いているがゆえに、□□□の三人――三浦康嗣、村田シゲ、いとうせいこう――が産み出す音楽の、ポップスとしての強度を感じさせる。収録されている6曲は、歌謡曲調であったり(“Japanese Boy”)、アーバンなディスコ調であったり(“Good so Good”)、ラテンのフレイヴァーを含んだラヴァーズ・ロック調であったり(“踊り”、ちなみにこの曲のみ全編英詞だ)、その表情は一曲毎に異なっているものの、そのどれもが素晴らしいメロディとリズムに溢れている。

 それゆえこう言い切ってしまうのは気が引けるのだけれど、やはりなかでも耳を惹かれるのは、一曲目、“Japanese Boy”に尽きる。だから思い切って、ミニアルバム全体ではなくて、この曲に絞って、ちょっと文を進めてみたい。ほんとうは、作曲にボーカルにと活躍する村田シゲの力量にも言及するべきなんだろうとは思うけれど、分量的にも、能力的にも、それは控えておく。

 前述したように、古き良き歌謡曲の響きを現代的なサウンドにアップデートしたかのようなこの曲。その大半を占めるのは、いとうせいこうによるポエトリー・リーディングだ。いわゆる平歌にあたる部分はすべてそう。そこで描かれるのは「ジャパニーズ・ボーイ」と「ジャパニーズ・ガール」との、ふとした出会いや、こころに触れるささいな交流の様子だ。三人称で淡々と語られる情景は、いとうの声にのって、きわめて映像的に、まざまざと目の前に浮かび上がってくる。とりわけ、2つめのエピソードで描かれる、真っ暗な部屋のなかに放たれた蛍の群れと、その青い光に照らされる黒髪の「ジャパニーズ・ガール」の姿は、うっとりするほどロマンティックだ。

 対して、三浦康嗣が歌うサビは、恋に胸を焦がす「ジャパニーズ・ボーイ」の一人称で歌われる。それぞれのエピソードに登場する「ジャパニーズ・ボーイ」たちは、はちきれんばかりの切なさを胸に秘め、その思いを歌にのせる。しかし、三浦の爽やかな歌声は、そうした感情をやみくもに強調することはしない。むしろ、なまなましい感情からは距離を取って、「ジャパニーズ・ボーイ」たちの抱える切なさ、もどかしさを真空パックにしてしまったかのような手触りさえ感じられる。

 この曲で語られ、歌われるのはけっして物語ではないし、特定のメッセージでもない。語られるのは、物語に至る以前の、鮮やかで断片的な情景。歌われるのは、誰しもがこころのどこかに秘めているささやかな記憶と共鳴する、感情のゆらぎ。このふたつが組み合わさって浮かび上がるのは、ふとした出会いにこころ動かされる、人間の営みそのものだ。そう、どこか時間を超越したような普遍性のなかへと、この胸のざわめき、高鳴り、あるいは困惑が位置づけられていくのを感じるのだ。

 それはなぜか? 手短に言えば、歌詞のなかに仕組まれた、意図的なアナクロニズム(時代錯誤)のためだ、と言える。

 いとうによって語られる3つのエピソードのうち、1つめ、そして2つめのエピソードの時代設定はわからない。ただ、少なくとも3つめのエピソードについては「昔、今から千年ほど前の話です」と示されている。けれど、もしかしたら、たとえば1つめのエピソードなら「サッカー」とか「カーテン」とかいった語彙が現代風に入れ替えられているだけで、ほかの2つのエピソードも大昔の話かもしれないし、少し昔の話かもしれないし、あるいはまさにいまを生きる私たちの話かもしれない。実際、「千年前の話」のはずのエピソードには、「メール」が登場する。これこそ、アナクロニズムが語りのなかにしくまれていることの証だ。いずれにせよ、日付を欠いた伝聞調という文体や、あまりにもポエティックで美しいその情景は、時間の中の具体的な点を想起させるというよりも、現在とも過去とも未来ともつかない「いつか」へと聴き手を導いてゆく。

 このことは、エピソードごとに少しずつかたちを変えながら、いとうによって語られる、次のような一節によっても強調される。

「いつまでも繰り返す 波のようなもの
 出会いは不意に訪れて 胸を焦がします
 わたしたちの今日も また日曜に
 あるいは月曜に 木曜に それは」

 あるいはまた、

「いつまでも繰り返す 歌のように
 出会いは不意に錯綜して 人をとらえます
 わたしたちの今日も また土曜に
 あるいは火曜に 水曜日に
 月曜日に 木曜に 日曜に
 わたしたちの今日もまた」

 いつまでも繰り返す波のように、あるいはいつまでも繰り返す歌のように、出会いは訪れる。その出会いはかつて私に訪れたそれかもしれないし、あるいはいつかあなたに訪れるであろうそれかもしれないし、もしくは誰かにいままさに訪れている出会いかもしれない。このように、人の世にあまねく行き渡る、淡く切ない「出会い」を想起させながら、いとうの語りは小休止する。

 そして、かわりに三浦の歌声が舞い込んでくる。三浦の歌声は、いとうの語りが描き出した情景と手と手をとりあうことによって、胸を締め付けるような情動を聴き手のもとに届けてくれる――。

 □□□は、とりわけいとうせいこう加入後により顕著になったことかと思うけれど、ラップや語り、会話といった声と、旋律を持ったいわゆる歌というものとを巧みに使い分け、そして融合させてきた。ユニットのそもそもの出発点であったサンプリングという手法を、トラックメイクのみならず、声の領域にまで拡張することによって、□□□は作品の都度、新たな音楽体験をリスナーに提供し、また新たなナラティヴの可能性をポップ・ミュージックのなかに切り開いてきた。2012年作の《マンパワー》に収録された、10分をゆうに超える長尺の2曲、“合唱曲 スカイツリー”や“いつかどこかで”は、そのひとつの到達点にあると私は思う。話し言葉と歌が、境界線などはなからなかったかのように自由に行き交い、音楽と日常が渾然となった“合唱曲 スカイツリー”は私のお気に入りの曲のひとつだ。

 そうした□□□の遍歴を一瞥した上で言えば、私見ながら、“Japanese Boy”は、これまでサンプリングやカットアップ、コラージュといった文脈のうえで行われたそうした実践を、よりベタなポップ・ミュージックのフィールドのなかに落とし込んだような手触りがある。この曲には、サンプリングという手法を異化効果として用いるようなこれみよがしのカットアップもなければ、ラップもない。しかしそれは、□□□が実験性を潜めてポップ・ソングを作ったというだけの代物では決してない。かわりに、語りと歌が交互にあらわれ、互いに補完しながら、ある情動を聴き手に喚起する。言葉と歌というふたつの声が、エヴァーグリーンなポップスのしらべのなかで手と手をとりあってまた新たなナラティヴの可能性を垣間見せているのだ。あえて私はそう言ってみたい。

 三浦へのあるインタヴューによれば、このミニ・アルバムは、フルアルバムの制作途上に生まれた作品だという。果たしてこのミニアルバムで見せた多様性と発展に、どのような作品が続いてゆくのだろうか。期待は膨らむ一方だ。

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