3561 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

世界の果てさえ見に行けるのは多分、帰れる場所があるからこそ

SEKAI NO OWARIにもMr.Childrenにも「家」がありますように

<<僕らはどこへでも行ける>>
<<どんな世界の果てへも 気ままに旅して廻って…>>

Mr.Childrenは楽曲「Worlds end」のなかで、そんな発信をする。もっとも、このフレーズは、主人公が自身に<<言い聞かせてみる>>というものだから、あるいは彼は、確信を得られてはいないのかもしれない。

それでも、このポジティブな発信は(緊急事態宣言こそ幾つかの場所で解けたものの)依然として「移動」の制限を受けている私たちの心に、炎を宿してくれるようなものではないだろうか。そして私は個人的に思うのだけど、<<世界>>というのは自分の内側にも広がっているはずである。そもそも物理的な移動というものを好まない人、旅行や出張が好きではないという人も、メロディーを聴いたり歌詞を読んだりすることで、心という広い<<世界>>を、隅々まで探索しうる。そんなことを私は考えている。

ただ、文字通りの旅行をするにも、自分の内奥を探索するにしても、それを楽しむためには「帰る場所」というものが、前提的に必要だとも考えるのだ。旅から旅へと、定住する場所を持たずに生活できる人は、相当に強い心身を持っているはずで、ほとんどの人が「安らぎのある居場所」なり「所属するどこか」なりを欲しているのではないだろうか。

***

SEKAI NO OWARIは「Home」という楽曲を生み出している(ちなみにMr.Childrenは「HOME」という題のオリジナルアルバムを発表している)。楽曲「Home」には、このような歌詞が含まれる。

<<雪が降ったならみんなで鍋を囲んでさ>>
<<君たちがどんな旅に出ようと いつでも帰っておいでね>>

この曲で示される<<家>>は、きっと<<鍋を囲>>めるような、字義通りの<<家>>でもあるのだろう。「ただいま」と言って帰ってこられるような、「おかえりなさい」と言ってくれる誰かがいるような、心地よい場所なのだろうと推察する。

それでも<<どんな旅に出ようと>>という部分が、この歌詞を多義的なものにしているようにも思えるのだ。<<どんな旅に出ようと>>と語りかけてくれるからには、きっとSEKAI NO OWARIは「内奥の探索」を終えて帰ってくる人も、迎え入れて入れるのだろう。

優れたメロディーを集中して聴いたり、卓越した歌詞を読みこんだりすることで、人は自分の邪(よこしま)な面に気付いたり、計算高さを再認識したりする(少なくとも私にはそういうことがある)。だから音楽鑑賞をするというのは、ある意味では疲れることなのだ、それが心地よい疲れではあれ。

<<僕たち大人になって何を得て何を失ったか>>

そんな問いをSEKAI NO OWARIは放つ。人は海外旅行をしたり、音楽を聴いたりすることで、感受性を得たり、見識を深めたり、新たなる視座を獲得したりするものだと私は思う。それでも、そうやって<<大人>>になっていく過程で、ともすれば私たちは、傲慢に(不遜に)なってしまうものだとも思うのだ。

音楽の話から逸れるけど、かくいう私も、若き日に夏目漱石の(ほぼ)全作品を読破した時、何かを悟ったような感覚に陥った。もう読むべきものは読み終えたというような、生意気な青年になってしまった。夏目漱石の作品群は、もちろん素晴らしいものである。それでも、それを読み終えたところで、自分の旅が終わったと決めつけてしまったのは、好ましいことではなかったと、あるタイミングで気付いた。夏目漱石を読んだ日々を、言うなれば<<家>>として、その後、私は、ほかの作家の作品をも読むようになる(そのようにして今に至り、初老の未成熟な読書家として日々を過ごしている)。

話が逸れてしまったので、自分のためにも少し私見を整理したい。私たちは旅行をできなくとも、あるいは好まなくとも、色々なところへ行くことができる。でも何かしらの「帰れる場所」を必要としている。SEKAI NO OWARIが用意してくれたHomeは、どのような疲れも受け入れてくれるはずだ。そして疲れが抜けた時、きっと私たちは新たなる旅へ出なければならないのだろう、何かを悟ったなどという思い上がりを捨てて。

***

そして今、気付かされた。Mr.Childrenの「Worlds end」にも、住居を暗示するような、戻れる場所を示すような、そんなセンテンスが含まれる。

<<僕ら繋がっている>>
<<どんな世界の果てへも この確かな思いを連れて>>

誰かとの繋がりがあるからこそ、<<世界の果てへ>>さえ行けることを、Mr.Childrenは歌ったのではないだろうか。パンデミックに直面している今に限らず、世界には住居を(持ちたいのに)持てないでいる人や、所属先(仕事先や学校など)を与えられない人が、きっと存在するはずだ。その人たちが腰をおろして、ほっと一息をつける場所というのが、ミスターチルドレンが歌う<<確かな思い>>なのではないだろうか。誰かと繋がりを持っている、その確信さえ持てているならば、私たちは絶望的な境遇に追い込まれても「世界の終わり」を迎えるわけではない、そう私は信じる。

SEKAI NO OWARIの作風を、私は温かなものだと感じている(もちろん例外もある)。そしてMr.Childrenの作風については、熱いという印象を持っている(それについても例外はある)。どちらが好きかを正直に言えば、今のところミスターチルドレンのほうである。特に「Worlds end」の勇壮なイントロを聴くと、本当に私は、心のもちようによっては、あらゆる場所へ行けるのかもしれないというような、誇り高い、あるいは不敵な心的状況を得ることができる。私を何度となく<<旅>>へと送り出してくれたのは、Mr.Childrenだ。

それでもSEKAI NO OWARIを聴くことで、とりわけ「Home」の歌詞を読みこむことで、いわば往復便のチケットを手渡されたような気分になった。Mr.Childrenが「往路」の切符であり、SEKAI NO OWARIが「復路」の切符である、そこに上下関係などはない。そして楽曲によっては、逆の役割を担ってもいるのだろう。SEKAI NO OWARIが人を熱くさせ、Mr.Childrenが人を穏やかにする、そういう事象も世界の各地で、きっと起こっているはずである(いずれ私の身にも起こるかもしれない)。

***

私たちに旅券を授けてくれ、そしてゆっくり休める場所を提供してくれるSEKAI NO OWARIとMr.Childrenに、ご当人たちの「Home」があることを願ってやまない。文字通りの<<家>>が、そして誰かと繋がりを持つという<<確かな思い>>が、どうか与えられていますように、今後も守られていきますように。

もしSEKAI NO OWARIの各位、あるいはMr.Childrenの各位が、本文を読んでくれているのだとしたら、少なくとも私は、あなたたちの楽曲を何度も聴きましたと伝えたい。それによって彼ら彼女らに、自分たちは「Home」という「繋がり」を持つのだという誇りを得ていただけるのだとしたら、この記事を書いた目的は果たされる。

行ってきます、Mr.Children。
ただいま、SEKAI NO OWARI。
そして、おかえりなさいませ、私たちリスナーのいる、この場所へ。
<<鍋>>を用意できるかは分からないけど、いつでも待っていますよ。

※<<>>内はSEKAI NO OWARI「Home」、Mr.Children「Worlds end」の歌詞より引用

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい