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変わりつつも変わらないものがそこにはある—米津玄師の音楽と言葉

根底にあるのは様々なものたちへの「肯定」—『海の幽霊』と”WOODEN DOLL”

 2020年5月28日——米津玄師の『海の幽霊』がYouTubeで公開されてから1年となる。『海の幽霊』は、名曲だらけの米津さんの楽曲の中でも屈指の名曲だ。楽曲のクオリティも、世界観も、米津さんの歌声も、新たなフェーズへの移行を告げるものだった。フラミンゴのひなが白から灰色へと変わり、やがて鮮やかなピンク色になるように、空の色が青色から夕暮れを経て暗闇となり、その後夜明けの紫陽花色となるように、米津さんは常に目まぐるしく変化を遂げてきた。だが、変わっていくと同時に、変わらずにあり続ける根源的なものが、米津さんの音楽と言葉の中にはいつもある。その根底にあるものが何なのか、『海の幽霊』と”WOODEN DOLL “の2曲と、米津さんの言葉から紐解いていきたい。

 “WOODEN DOLL”は、2014年のアルバム”YANKEE”に収録されている。この曲も例に漏れずいい曲だが、米津さんの曲の中ではどちらかと言うとあまり目立たない方かもしれない。MVの再生回数も米津さんの他の人気曲と比べると低く、また”Lemon”のようにカラオケランキングで上位に入るわけでもない。では、なぜ私がこの曲を選んだか。それは、まず個人的にこの曲がとても好きだということに加えて、この曲の根底には自分自身と他者への「肯定」があると感じるからだ。米津さんの音楽や言葉には、様々なものたちへの「肯定」が一貫してあり続けている。なぜ「ものたち」とひらがなにしているかというと、それは人間に対してはもちろん、人間ではないもの、形あるもの/ないもの、目には見えないもの、今はもういなくなってしまったもの、そういったものたちに対しての肯定でもあるからだ。

 まず、”WOODEN DOLL”を聴いて私が思い浮かべるのは、”Burning Man”(バーニング•マン)のイメージだ。この曲のMVを初めて観た時、木や布やガラクタのようなものでできた巨大な人形が燃え上がっているのがとても印象的で、何年も前に自分がたまたまテレビで目にした”Burning Man Festival”のドキュメンタリーを思い出した。

 “Burning Man”とは、アメリカのネバダ州にある荒野で、毎年夏の終わり頃に開催されている大規模なイベントだ。砂漠に広がる平地の上に、世界中から集まった数万人もの人々が一時的に街を構築し、助け合いながら共に暮らす。その街の象徴として、中心部に巨大な木製の人形”The Man”(ザ•マン)が作り上げられる。

 そして、約1週間続くフェスティバルの終盤で、その巨大な木製の像に火が放たれ、跡形もなく燃やし尽くされる。何も無くなってしまったその場所で、また次の年に人々が集まり、再び新しい街と巨大な木製の像を作り上げ、最後にすべてを燃やして無に戻す。それが繰り返し続いていく、とても不思議な祭りだ。ここでは、せっかく築き上げたものを完全に燃やしてしまうという、一見すると破壊的な行為に対してのネガティブさはなく、むしろ、すべてを一旦無にして再生していくというポジティブな意味合いがあるように思われる。この”Burning Man”が持つ世界観と、”WOODEN DOLL”が持つ世界観はどこか共通しているように感じられる。

 “WOODEN DOLL”の歌詞では、「不幸」、「恐ろしい」、「ぶん殴られる」、「嫌」、「絶望」、「諦観」、「痛み」、「嫌い」、「見下して」、「苛まれて」、「否定」、「嘘」、「傷つく」、「呪う」といったネガティブ•ワードのオンパレードだ。にもかかわらず、この曲には、心の中で今も息づいている過去の痛みや傷を想起させるような生々しさと同時に、すべてを受け入れて肯定してくれるようなやさしさと温かさ、すがすがしさがある。小気味よく軽快なリズムと音、米津さんの温かみのある歌声とともに、ネガティブな思いをくるっとひっくり返してくれるようなフレーズが出てきて、はっとさせられるのだ。

《ちゃんと話してよ 大きな声で
さあ目を開いて わっはっはは
自分嫌いのあなたのことを
愛する僕も嫌いなの?》

自己嫌悪に陥っている「あなた」に対して、「僕はあなたのことを愛している」とストレートに言うのではなく、否定(自分嫌い)に対して否定(僕も嫌いなの?)で問いかけることによって、「あなた」への肯定の気持ちを伝える変化球である。このちょっとひねくれたフレーズが、たとえ自分自身のことが嫌いでも、自分を愛してくれる他者を肯定する(愛する)ということは、巡り巡って自分自身を肯定することでもあるのだ、と気づかせてくれるのだ。

 他にも、はっとさせられる箇所がある。

《あなたが思うほどあなたは悪くない
誰かのせいってこともきっとある
痛みを呪うのをやめろとは言わないよ
それはもうあなたの一部だろ》

この部分の歌詞もとてもユニークだ。単に「あなたは悪くない」とかばうのではなく、「あなたが思うほど」と付け加えるところが正直だと思う。あなたにも悪いところはあるけれど、あなただけが悪いわけじゃなくて、「誰かのせい」な部分もあるよ、と言っているのだ。普通ならよくありそうな、「人のせいにするな」ではないのだ。自分嫌いになってしまうのは、「全部私が悪いのだ」、「全部私のせいだ」と自分だけを責めてしまうことによる部分があるように思う。そのネガティブな気持ちを、ここでも、きれいごとではない、リアルで心に刺さる言葉でひっくり返してくれている。

 単にネガティブな言葉にポジティブな言葉を重ねて打ち消すのではなく、ネガティブな言葉の裏をかく、という一筋縄では行かないやり方で、肯定に変えていく。それは、2015年に発表された『アンビリーバーズ』においても重要なテーマだ。米津さんは、『ROCKIN’ON JAPAN』2015年10月号のインタビューで、以下のように述べている。

「基本的にひねくれものなので、ただ肯定したくないっていうのは第一にあって。じゃあどう肯定するかっつったら、やっぱり否定による肯定っていうか。そういうものなら信じられるなっていう感じが、やっぱり自分の中にあって」

 また、『ROCKIN’ON JAPAN』2017年12月号での”Nighthawks”の曲解説で、米津さんは以下のように語っている。

「……昔の自分がいて。不安でしょうがなかった自分が、今の自分の頭とか体の中にいるんですよ。そういう自分に対して、何か言えることはあるだろうかと。こないだCUTでも、子どもの頃の自分に対する手紙とか書いたんですけど。そういう感覚で、昔の自分を肯定してやりたいなっていうことを、すごく思うんですよね。中学生とか高校生くらいの頃に、今の自分なんてどうでもいいようなことで悩んでるし、音楽作る上でも、技術的にものすごくちゃちなことをやってるであろうけれども、そういう自分を絶対にバカにするような大人にだけはなりたくないなって、ずっと思ってたんです。それは、中学生、高校生くらいの自分から、今の自分に向けてのメッセージだったなって思うんですよね。タイムカプセルを埋めるような行為だなと。で、それを受け取った、今の自分がいるわけです。その時に、やっぱ俺はそれを肯定したいなと思う。」

音楽を通して過去の自分自身を肯定していくことで、それを受け取る他者(聴き手)のことをも肯定していくことに繋がっているのだと感じる。

 ここから更に月日を重ね、米津さんが変化し、進化していくにつれて、以前の「否定による肯定」から、より開かれた肯定へと変わっていっているのを感じ取ることができる。そして、自己と他者への肯定だけに留まらず、様々なものへ向けた肯定へと広がりを見せていっている。その最たる例が、2019年に発表された『海の幽霊』だ。この曲は、映画『海獣の子供』の主題歌として制作された。  

 米津さんは今までも、音楽によって様々なものをクロスオーバーさせてきた。例えば”Lemon”では、歌謡曲とヒップホップを組み合わせた(『ROCKIN’ON JAPAN 』2018年4月号のインタビュー参照)。また”Flamingo”では、民謡や都々逸のような日本の土着の音楽と、フォルクローレのような海外の民族音楽から着想を得ている(『ROCKIN’ON JAPAN 』2018年12月号のインタビュー参照)。そして、『海の幽霊』では、デジタルクワイアによる幾重にも重なるボーカルと、オーケストラによるストリングス、イルカの声といった海の中にある音が混じり合い、幻想的で神秘的な美しい世界観を織り成している。デジタルで電子的な最新のテクノロジーと、クラシックな楽器が奏でる音、自然界に息づく音、そして米津さんの今までとは異なる、ファルセットを駆使した伸びやかな歌声がクロスオーバーし、”WOODEN DOLL”の頃から明らかに進化しているのがうかがえる。

 サウンドやボーカルだけでなく、歌詞や米津さん自身の言葉においても、変化を感じ取ることができる。以下は、『ROCKIN’ON JAPAN』2019年7月号のインタビューでの米津さんの言葉だ。

「『海獣の子供』って漫画は、自分がつくってるポップソングとかと比べると、わりと読む人に対して寄り添わないというか。その世界のなかで起こっている出来事をただひたすら淡々と描いていく。で、それに対してあんまり説明しない漫画なんですけど、だから、これはこういう意味なんじゃないかっていうのを自分なりに解釈して、主人公と男の子たちの関係性だとか、そういうのを1個ずつひもといていって……俺がこの漫画読んで思ったのは、誰しもが生まれ変わりというか、生命が死んで、またどこかで生まれてっていう、そういうひとつひとつの連鎖みたいなものを、すごく丁寧に精密に描く漫画だなと。生きるのと死ぬののちょうど境界線として波打ち際っていうのがあって、じゃあ自分はどっちで生きる存在なのかとか……そういうものを描けたらいいなあと思ってました。それは”Lemon”の時と似てるっちゃ似てるんですけど、”Lemon”の時に比べるともっとポジティブというか、いなくなってしまった人は必ずどっかでまた生まれ変わって生きていくだろうっていうことを——ほんとにこの漫画がそういうことを伝えたくて描かれているものなのかは全然わかんないですけど、少なくとも自分はこの漫画を読んで、そういうどこかポジティブなもの、いなくなってしまった人に対するポジティブなものを感じたんで。それを音楽にしようかなっていうことは考えてましたね」 

ここでは、死への悲しみやいなくなってしまった人への喪失感を超えて、いなくなってしまった人に対して、「ポジティブなもの」という言葉を使い、肯定の気持ちが語られている。それは、『海の幽霊』の歌詞にも込められている。

《星が降る夜にあなたにあえた
あの夜を忘れはしない
大切なことは言葉にならない
夏の日に起きた全て
思いがけず光るのは 海の幽霊》

この一節に、米津さんの音楽を紐解いていくうえでとても重要な言葉が凝縮されている気がする。それが、《大切なことは言葉にならない》というとても印象的なフレーズだ。

 米津さんは前述のインタビューで、『海獣の子供』について「わりと読む人に対して寄り添わない」、「あんまり説明しない漫画」だと述べている。それは、ある種のわかりやすさとは反対に位置するものなのかもしれない。だか、米津さんはむしろ、それを肯定的に捉えているのだと感じる。

 米津さんは今までも、「言葉にならないもの」をとても大切にしながら音楽を作ってきた人だ。以下の”Lemon”についてのインタビューでの米津さんの言葉も、それを物語っている。

「自分はそうやって言葉にして歌詞にすることによって、その言葉にならないあやふやなものの輪郭を手で触っている感覚がある。だから自分は、ただひたすらなんでもいいから言葉にして、『なんでこういう言葉になったのか』って考えることによって言葉でその周りを埋め尽くすんですけど、それでも言葉にならなかった空洞に一番美しさが残るんだろうなあっていうことを、“Lemon”に教えてもらいました」(『CUT』2018年3月号より引用)

また、2018年2月25日に投稿された米津さんのブログ『リビング』でも、以下のように綴られている。

「形をなくしてしまったもの、目には見えなくなってしまったものの輪郭を何もない空中でなぞることによって、それを浮かび上がらせて取り戻そうとする。畢竟、自分が音楽を作る理由はそういうところにある気がする。」  

そういった真摯な思いが、《大切なことは言葉にならない》というフレーズに込められているのだと私は思う。『海獣の子供』という作品も、生と死や、生命の循環といった、言葉にならないもの、目には見えないものを丁寧に掬い上げ、精緻に、美しく描き出している。その世界観と、米津さんの音楽の根底を流れるものが、深いところで美しく溶け合っている。  

 『海獣の子供』がそうであるように、『海の幽霊』はとても開かれている。「開かれている」というのは、決まった解釈やたったひとつの答えがあるのではなく、受け取る人の中で完成する、という意味でだ。明確な答えがあり、完結しているというのは、一見いいことのように思われる。だが一方で、その答えにあてはまらない誰かや何かに対して、ある意味閉ざしてしまうということでもある。解釈や受け取り方は人それぞれだ。開かれたままにしておくことで、様々なものたちのことを肯定してくれているのではないだろうか。「言葉にならないもの」に対して、無理やりこれはこういう意味だと結論づけてしまうのではなく、言葉にならないまま、開かれたままにしておく。それが、『海獣の子供』と『海の幽霊』のとても美しいところだと私は思う。

 では、「海の幽霊」とは一体何なのだろうか。それは、過去に存在した大切な誰かや何かだけではなく、今ここにいる/ある大切な誰かや何か、そしてこれから出会おうとしている誰かや、見つけようとしている何かのことでもあるのではないか。『海獣の子供』の登場人物たちの言葉にもあるように、光るのは「見つけてほしいから」である。《思いがけず光るのは 海の幽霊》というフレーズからも、「海の幽霊」とは、過去だけに留まらず、これから見つけようとしているものでもあり、現在と未来をも含んだ広がりが感じられるのだ。そして、曲の最後、《風薫る砂浜で また会いましょう》というフレーズで締めくくられる。離れ離れになり、もう会えなくなってしまったものたちへ向けて、また再び巡り合えることを願う言葉が、終わりではなく新たな始まりを告げている。

 ここまで見てきた通り、米津さんは劇的な変化と進化を遂げながらも、自身が紡ぎ出す音楽と言葉を通して、常に誰かや何かを肯定してくれている。米津さんはインタビューでも、自身のことを「蛇口」になぞらえていて、常に自分自身がオープンな状態でいようとするスタンスが感じられる。

「だから、インタビューとかで常日頃言うんですけど、ただの蛇口でいいんですよ。きゅっとひねったら、中から水がジャーッと流れてくるように、自分は
ただ音楽が流れてくる蛇口でいいと思っていて。その中で美しい音楽が流れてくる出口、蛇口でいるために、って」(『ROCKIN’ON JAPAN』2019年10月号より引用)

米津さんはこうも述べている。

「なるたけ身をフラットに保つっていうか。俺はずーっとそうやって生きてきて。それはもう、生まれた時からそうだなと思うんで。どちらの立場にも立ちたくないし、でもどちらも信用しないわけではない。その中で、ちょうど真ん中を探していく——さっきも言った、磁石のS極とN極をちょうど半分で割ったら、またこっちがS極とN極になって、それをまた半分に割りながらっていうのをずーっと繰り返していって。それがついぞどこかに辿り着くことはないっていうのは、最初っからわかってはいるんだけれども。でも、ポップソングを作る、普遍的な事実を追い求めていくっていうのは、そういうことなんだろうなあとすごく思っているから。」(『ROCKIN’ON JAPAN』2019年10月号より引用)

 どちらか一方に偏らず、その中間を常に探し続けること、それは場合によっては、あいまいでどっちつかずだというふうに捉えられかねない。だが、常にフラットでいるからこそ、相反する様々な思いを受けとめることができ、自分自身や他者に対して、そして様々な物事に対して開かれた状態でいられるのではないだろうか。それが、米津さんのブレない軸となり、すばらしい音楽を生み出していくことができるのだと思う。

 過去から現在へ、そして未来へ向けて、変わりつつも変わらない米津さんの音楽と言葉がそこにはある。

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