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それが暗闇であったとしても直視したい

井上陽水と槇原敬之が「光ある場所」を用意してくれたからこそ

ガールフレンドから「聴くと辛くなってしまうので、滅多なことでは流さない曲がある」という趣旨のことを打ち明けられた。「本当に素晴らしい作品だとは思うのだけど、感情移入してしまって耐えられない」のだそうだ。

僕は、何ゆえに彼女が、その曲を流すことができないのか、その理由までを訊ねることはせず、どの曲かだけを教えてもらい、闇のなかへ踏み込むような覚悟をもって「集中力を高めての鑑賞」に臨んだ。

その試みを「好奇心ゆえの行動」とは表現したくない。近しい人の苦しさ、その正体を(おぼろげにではあれ)知ることで、あるいは自分の心も傷ついてしまうかもしれない。それでも僕は、もういい歳なのだし、見たくはないものこそ直視しなければと、大袈裟に言えば自らを鼓舞した。大事な人とは痛みさえも共有したい。それに彼女は、その曲を「素晴らしい」とも言ったのだから。楽曲の題は「ゼンマイじかけのカブト虫」、作詞・作曲は、井上陽水さんである。

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「ゼンマイじかけのカブト虫」を聴いた感想を述べる前に(そのメロディーを聴き、歌詞を読み込んだ上で感じたことを語る前に)僕に「暗闇をのぞきこむこと」の意義を教えてくれた楽曲について、書いておきたい。槇原敬之さんは楽曲「優しい歌が歌えない」のなかで、こんなことを発信する。

<<はじめてのぞいた心の中は 見たこともない暗闇で>>

この作品のメロディーやアレンジは、それほど重苦しいものではないようにも思える。上記のセンテンスに重ねられるわけではないのだけど、ピアノのグリッサンドが響き渡る瞬間などには、気分を高揚させられさえする。むしろ曲調は「軽やか」と形容してもいいような気がするのだ。もし日本語を母語としない人が本曲を聴いたなら「痛快でエネルギッシュな作品だ」と感じるかもしれない。

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それでも「優しい歌が歌えない」の主人公は、最終的には<<優しい歌が僕にも 歌えそうだ>>という前向きな心的状況を勝ち得るものの、いくつも辛い発信をする。それは<<心の中>>、<<暗闇>>をのぞいてしまったがゆえにもたらされた、ある種の「痛み」から生まれたのではないだろうか。

<<自分をかばう僕の手が 光を遮っていたからだ>>

痛みを味わうことになっても、ある時節を迎えた人間は(それまでに自覚できないでいた)自分の「もうひとつの面」と対峙しなければならないと、僕は個人的に思う。他人様から叱ってもらったり、諭してもらったりするのも「痛みを伴う貴重な経験」になりうるとは思う。ただ、それ以上に辛い「自分が自分を責める声」に、ある年令に達した人間は、何度か向き合わなければならないのではないだろうか。その試練を乗り越えてこそ<<光>>が見えてくるのかもしれないのだから。

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僕は「ゼンマイじかけのカブト虫」を聴いた。何度も聴いた。それは僕自身のためである、この曲を教えてくれた人のためではない。他ならぬ僕の<<暗闇>>が、そこに見つけられるかもしれず、それを直視して、ほんの少しは強くならなければ、大事な人を守るだけの胆力を得られないかもしれないと思った。

結論を述べる。

恐ろしい曲だった、かつ、素晴らしい曲だった。それは僕自身が(ある意味)恐ろしい人間であること、そして何かしらの<<光>>を内包することを意味するのかもしれない。

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アコースティックギターで幕を開ける「ゼンマイじかけのカブト虫」の歌詞は、歌い出しからして衝撃的だ。

<<カブト虫こわれた>>

生きものに対して<<こわれた>>という表現を使うことは、個人的には好むところではない(あるいは楽曲のなかで歌われる<<カブト虫>>は、文字通りの<<カブトムシ>>、つまり命を持つ昆虫ではないのかもしれないけど)。

いずれにせよ(それがペットであっても玩具であっても)自らが愛でていたものが損なわれたこと、取りようによっては「他ならぬ自分の手によって」損なってしまったこと、そんな歌詞を届ける井上陽水さんの声調は、パセティックなものとして僕の耳に届く。

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<<白いシャツ汚した>>

恐らく彼女は(僕のガールフレンドは)「ゼンマイじかけのカブト虫」の主人公と、まったく同じ経験を持つわけではないだろう(そのあたりは今後も確かめるつもりはない)。それでも、本曲を聴くことで苦しさを感じると言うからには、半生で、なくすべきではない何かをなくしてしまった、心から大事に想っていたものを汚してしまった、そんな哀しさを味わってきたのではないだろうか(まったくの推論である)。

それでも僕の「推論」が、見当はずれのものではないのだとしたら、同種の痛みを僕も抱えている。何かを慈しみ、いつしかそれを失い、それを他人様のせいだけにはできないという痛みは、僕だけでなく、多くの人が抱えているはずだと思う。

その手の痛みを分かち合えるなら、僕が「ゼンマイじかけのカブト虫」を聴き、怖くさえなった、その時間に意味は与えられる、そんなことを考える。

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明日を担う青年、あるいは少年少女に、暗闇をのぞきこむようなことを勧めるわけではない。むしろ(避けられるものならば)避けてほしいとさえ願っている。苦しさと向き合うこと、その意義を力説しておきながら、矛盾したことを書いているなと自分でも感じる。僕は身勝手にも、年少の人たち、とりわけ幼子には、それこそ「優しい歌」でも聴きながら、のほほんと(すくすくと、と言ったほうが適切だろうか)育ってほしいと思っている。

それでも彼ら彼女らが、いつか何かをきっかけに、暗がりへと足を踏み入れる決意を持ったならば、いわば「戻ってこられる<<光>>ある場所」を用意するべく、私たち大人は待っていなければならないとも思うのだ。

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井上陽水さんの作品にも、槇原敬之さんの作品にも(少なくとも僕にとっての)「優しい歌」はある、彼らは哀しみだけを発信するアーティストではないはずだ。そのことは、ハッキリと述べておきたい。この記事を書いたのは、つまり彼らのなかにいる<<もうひとりの自分>>を敢えて強調するような文章を書いたのは、この僕が少しでも、成長したいと思ったからである。

拍動が止まる日まで、何らかの形で、守りたい人を守るために。

※<<>>内は井上陽水「ゼンマイじかけのカブト虫」、槇原敬之「優しい歌が歌えない」の歌詞より引用

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