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格好わるくても岸に届けばいい

島袋寛子と菅田将暉が一緒に泳いでくれる

僕たちにとって「海」とは、どういう場所だろうか。ここで僕が言う「海」とは、字義通りの「海」であり、人生という(いわば)大海でもある。そこは潮風を吸い込める、そして奇麗な魚と出会える、魅力ある場所だとも思いたい。そう信じたい。

それでも時に、そこには荒波が立つし、離岸流のようなものが生じることもある。気が付けば沖で独りぼっちという経験を、多くの人が持つのではないだろうか。

あまりに表現が比喩的で、読みづらい文章になっていますかね。つまり「孤独」なり「逆境」なりを、僕たちは時に味わうことがあるのでは、そういうことを主張してみたいのです。

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人が孤独を感じる時、重要なのは、平穏な場所、あるいは自らの原点まで、懸命に泳いで戻ることだろう。人間は本来的には、きっと孤独ではないはずだ。その人、その人の無事を、きっと誰かが、どこかの誰かが案じている。そして僕たちには「取り戻すべき本当の姿」がある。それでも「岸に向かって泳ぐ姿」は、ことによると無様なものになるかもしれない。かくいう僕も、懸命に人の名を呼んだ経験を持つ。孤独という「沖」から戻ってくる時、人は必死の形相になるものだ、そう経験的に思う。

だからこそ「格好わるくとも応援しているぜ」と言ってくれるようなシンガー、そして「その格好わるさに付き合ってあげるよ」と語りかけてくれる作詞家、そういった存在は尊いと考えるのだ。僕にとって「一緒に泳いでくれるアーティスト」として思い浮かぶのが、菅田将暉さんと島袋寛子さんである。

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菅田将暉さんは「見たこともない景色」で、こんなことを歌ってくれる(本曲の作詞は篠原誠さんが担っている)。

<<泥臭くていい かっこ悪くていい>>
<<止まってもいい 逃げ出してもいい>>

同じような発信を試みるアーティスト、つまり人の泥臭さを支持するようなアーティストは、他にもいるかと思う。それでも僕が、菅田将暉さんこそ「一緒に泳いでくれる」人だと主張するのは、楽曲「見たこともない景色」のなかに、<<海>>という単語が含まれるからである。そして、その鋭くも温かな眼差しに、誰かへの共感があふれているように思えるからでもある。

菅田将暉さんの歌う<<海>>が、僕のイメージする、孤独と出会いに充ちた世界を意味しているのかは分からない。それでも彼は、少なくとも<<逃げ出してもいい>>とは歌ってくれた。人間という弱い生きものは、ありとあらゆるものと闘っていては身が持たないだろう。向き合うべき課題や、自力でふりほどくべき哀しみといったものはあるだろうけど、何と闘うにしても、誰かの呼び声が聴こえていなければ、それは切ない時間になってしまう。

そして<<逃げ出してもいい>>と認める菅田将暉さんは、こうも促すのだ。

<<もう一度漕ぎだせば 何かがみえるさ>>

僕にとって楽曲「見たこともない景色」は、束の間、心身を休めることのできる「陸地」である。そこで息を整えた時、体力を取り戻した時、あらためて海原は鮮やかな青に見えてくる、そんなことを感じるのだ。

<<同じ景色を見よう>>

それは辿り着くべき岸辺を意味するのかもしれないし、あらためて旅立つべき水面を意味するのかもしれない。孤独から逃げ切ること、そして新たなる冒険へと跳び込むこと。そのどちらをも、菅田将暉さんは見守ってくれているのではないだろうか。見守るというより、あるいは僕たちに寄り添ってくれるのではないだろうか。

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島袋寛子さんのことは、作詞家としてというより、どちらかと言えばシンガーとして敬愛してきた(何しろSPEEDという偉大なるユニットに青春を彩られた世代なので)。それでもアルバム「私のオキナワ」に収められている「ハロ」という楽曲の歌詞には、胸を打たれたものだ。島袋寛子さんの紡ぎ出した歌詞が、あっけらかんとした、もっと言えばユーモラスなものであるからこそ、僕は「この楽曲となら泳ぎ切れるかもしれない」と感じた。

島袋寛子さんが、悪戦苦闘する人を励ますべく、この詞を書いたのかは分からない。それでも、少なくとも僕にとっては、楽曲「ハロ」は労りの作品である。「見たこともない景色」が勇気をくれる曲、「ハロ」が力を抜くことを促してくれる曲、そんな印象を僕は持っている。

<<<ららら 弾むココロ 広がる海>>
<<優しさ あつめて うたうよ>>

島袋寛子さんは「心」をカタカナにしたり、一般的には漢字にするようにも思える箇所を平仮名にしたりした。その選択は僕に「海だって怖い場所ではないのかも」というようなことを思わせてくれる。懸命に泳ぐ誰かの隣に、こんな風に力を抜いてみればいいんだよと、笑いかけてくれる人がいる、そんな情景が思い浮かぶ。

圧巻は、この箇所だ。

<<いつだって そばにいる>>
<<届けー>>

「届け」と言い切るのでもなく、「!」を付けるわけでもなく、まるでリスナーに肩を貸すかのように、島袋寛子さんは長音符を置いた。あるいは島袋寛子さんは、何とかして誰かを救おうという、熱い思いを届かせたかったのかもしれない。それでも僕は、歌詞が柔らかであるからこそ「ハロ」は傑作に仕上がったのではないかと思うのだ。

島袋寛子さんが集めてくれた<<優しさ>>は、この社会という(言うなれば)広大な海原を、きらきらと輝かせてくれた、そう思えてならない。

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人生や社会を海に喩え、孤独から逃げることを水泳に喩えてきた僕は、実を言うと泳ぐのが大の苦手である(比喩的な意味での水泳だけではなく、字義通りの水泳が不得手なのだ)。クロールで25メートルを泳ぐのが関の山で、シュノーケリングの最中に溺れかけたことさえある。そして日々、比喩的な意味で溺れかけている自分に、ふと気付くことがある。

だからこそ、菅田将暉さんが安全な場所へと導いてくれることに、島袋寛子さんが、その道中に付き合ってくれることに、とても感謝している。

僕が菅田将暉さんに何かを言えるとしたら、やはり<<泥臭くていい>>と投げ返したい。むしろ泥臭くあってほしい、そんな風に歌いつづけてほしい。そして島袋寛子さんにメッセージを送れるのだとしたら、本文が<<届けー>>と願う。稚拙かもしれない、それでも感謝のつまった、この記事が届きますように。

「僕の沖縄」は、他ならぬ島袋寛子さんだ。瞼を閉じても浮かぶのは、菅田将暉さんという(言うなれば)「見たこともない景色」だ(もちろん僕は、ご両人と面識がない)。

もし島袋寛子さんが、そして菅田将暉さんが、時に沖へと流されてしまうことがあるのだとしたら、ご自身のことを孤独だと感じてしまうことがあるのなら、きっと僕は力を絞って、浮き輪を投げることになるかと思う。あなたたちに励まされてきましたよという、感謝の詰まった浮き輪を。それを受け取ってもらい、僕たちリスナーの待つ場所へと泳ぎ切ってくれるのだとしたら、どんなに有り難いことだろう。

※<<>>内は菅田将暉「見たこともない景色」、島袋寛子「ハロ」の歌詞より引用

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