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ライブ文化よ、永遠なれ

MONOEYESが生み出す"場"としての音楽

関東の田舎町、早朝5時、空は快晴。

毎日のコロナウイルス関連ニュースに嫌気が差していた私は最近、あまりテレビをみなくなった。代わりに早起きして窓をいっぱいにあけ、空を見上げる。
今日の天気は快晴だ。なんだか清々しい気持ちになったそんな日は、決まってMONOEYESの曲を流すようにしている。

イントロが流れ出した途端、私の眼下には、青く光る空と大勢のお客さんと、ステージ中央に寄り集まって高らかに音楽を奏でる4人の姿が広がる。曲の合間に「イェーイ!」と心底楽しそうに声を上げるVo.細美の姿が、間奏で一歩前に出てギターを掻き鳴らすGt.戸高の姿が、ベースを銃のように構えてクルクルと回って見せるBa.スコットの姿が、それらをお父さんのような笑顔で包み込み、力強いドラムを響かせるDr.一瀬の姿が、わたしには全部みえる。空が彼らを祝福している。

MONOEYESは空が似合うバンドだなと、最近そんなことをよく思う。考えてみればわたしの中で彼らの曲は、ライブは、いつもどこかの空と繋がっている。そして彼らに出会ってからのここ数年で、私の音楽の聴き方は少し変わったような気がする。
昔の私は、好きなメロディーがあって、好きな歌詞があって、好きな曲があって、それを生で聴くためにライブ会場に向かった。目的は曲、ライブに行くことは曲を聴くための手段に過ぎなかったわけだ。
一方最近の私は、ライブ空間を楽しむためにライブに行く。曲と、アーティストと、観客が生みなすあの空間が好きでたまらなくて、気づけば私の足は会場に向かっている。もちろんそこには曲やアーティストが好きなことが前提にあるのだけれど、ライブはいつしか手段ではなく目的になった。

話を少し戻すけれど、彼らがわたしのライブに対する考え方を変えてしまったのにも、なんとなく空を連想させるのにも、その根底には一つの大きな理由があるような気がしている。それが、タイトルに書いた「”場”としての音楽」というものだ。彼らの音楽は、メロディや歌詞だけじゃなくて、場や空間によって初めて成り立つものなんじゃないか。ああだから、私は彼らの音楽にこんなにも惹かれてしまうんだなと、なんだかストンと胸に落ちた。

この”場”というものについて説明するまえに、印象的だった彼らのライブの話をさせてほしい。それは私が毎年夏に訪れている、地元大阪のラッシュボールという野外フェスでの光景だ。

MONOEYESが初めて出演したのは今から4年前、2016年の夕暮れ時のステージだった。ライブも中盤に差し掛かった頃、演奏の途中でVo.細美は「みて、うしろ!空すげー綺麗だから!」と満面の笑みでオーディエンスに語りかけ、ステージの反対側を指さした。ちょうど綺麗な夕日が水平線に沈んでいくところで、眩しげにそれを眺める私たちと日の光をいっぱいに浴びて演奏を続ける彼らに、ステージは多幸感に溢れた。その後に演奏された『グラニート』の素晴らしさはいうまでもない。穏やかで、ゆっくりで、それでいて熱量に溢れてて、なんて夕焼けが似合うバンドなんだろう、と思った記憶がある。
その翌年、彼らは出演2年目にして名だたるアーティストのトリを務めた。もちろん空は真っ暗、晩夏の少し涼しい風が吹く、夏の終わりを感じさせる夜だ。あの日の彼らのライブは今でも鮮明に覚えている。前年の穏やかなステージとは対照的に、その年のMONOEYESは勢いとエネルギーに満ちていた。音楽を掻き鳴らし、フロアを熱狂させ、まるで夏が終わるのを引き止めるかのような、怒涛のステージを繰り広げた。そして最後にVo.細美は「今日はみんなで叫んで終わろうぜ!」と吠えた。泉大津の空いっぱいにオーディエンスの声が響き渡り、彼らはステージを後にした。あれから3年が経つけれど、私は未だにあれ以上の夜に出会えた気がしない。
そしてその次の年、3年連続出場となったMONOEYESに泉大津が用意したのは、太陽の照りつける快晴の青空だった。その年の彼らはまるでやんちゃな少年達のようだった。夏の日差しに照らされた4人の姿は大人の青春を思わせ、夢や希望を感じさせた。そして不思議なことにそのときも私は、なんて青空の似合うバンドなのだろう、と思ったのである。

随分と長々書いてしまったけれど、そう、彼らはこういうバンドなのだ。無骨で飾り気がなくて、どこまでも真っ直ぐで。作り込まれた芸術作品というよりは、その時々のエネルギーの爆発とでも言えるだろうか。だからこそMONOEYESのライブの雰囲気は、場所や季節、天候、それらをひっくるめたそのときの空気感によって大きく変わる。そしてそれは毎回、その場その場で新たな音楽を生み出す。ライブ会場という”場”が新しい音楽を生み、その音楽がまた新たな”場”を生むのだ。「”場”としての音楽」というのはまさにこれのことだ。
洗練された芸術作品のような、世界観の完成されたライブも素敵だけれど、”場”のもつ多様で計り知れない力をぐんと吸収して音楽に落とし込み、その場その場で新しい顔を見せてしまうMONOEYESのライブにも底知れぬ魅力がある。”生きている”という”LIVE”本来の意味を考えれば、彼らのそれは最もライブらしいライブとさえ言えるかもしれない。簡単なことではないはずなのだけれど、それを息をするように、自然にできてしまうのも、彼らのライブが多くの人を惹きつけてしまう理由なんだろう。

そしてこの「場としての音楽」には、とっておきのオマケがついている。それが冒頭に書いたあれだ。
そう、私たちは曲という媒体を通して、いつだってその”場”に帰ることができるのである。ラッシュボールでみた泉大津のあの空だって、ニューアコースティックキャンプでみた夕焼けの水上高原だって、モンパチフェスでみた豪雨の沖縄だって、スカイジャンボリーでみた真昼間の晴天だって、もちろん野外イベントだけじゃなくて小さなライブハウスから大きなイベントホールまで沢山、MONOEYESの曲を聴けば、たった30分足らずのあの煌めきを全部全部わたしは思い出すことができる。会場にむかう軽やかな足取りと抑えきれないワクワクも、終演後の高揚感とどうしようもない寂しさも、一緒に思い出す。
そしてそのときの幸福はなぜだか、また別の幸福を連想させる。たとえば大好きな友人達と夜の公園でひたすら笑った思い出とか、大学の授業をサボって町のちいさなイルミネーションを観に行ったこととか、友人とあてもなくイベント前夜の街に繰り出したこととか。どこまでも非日常だったあのライブ空間は、曲を通じて日々の暮らしの”場”にまで入り込み、いろんな感情を呼び起こしてくれる。そしてそういうちいさな、でも思い出すだけで泣けてしまうほど幸せな思い出が私には沢山あって、いまここに自分が立っているという事実が、涙が出るほど愛おしくなってしまう、MONOEYESの音楽には、そんな力があるのだと思う。そしてそれを支えるライブ文化というものは、音楽を愛するもの達が一つの場所に集い、そこで音楽が鳴る、そんな当たり前のような、奇跡の光景なのである。

そんな光景が世界中で見られなくなってから、もう3ヶ月ほどが経ってしまった。コロナ禍を超えた世界では、この文化は一体どうなってしまうんだろう。

インターネットが登場してから”場”の概念は変わって、私たちはスマホの画面越しにいろんな所に行けるようになった。家からあまり出られない最近の世の中じゃなおさら、リアルな場というものは失われつつあるような気がする。
オフィスを持たない会社が増えて、物理的に離れてたって飲み会ができる時代になって、このままライブ文化も少しずつ、少しずつ消えていくのだろうか。 

それでもきっと。”場”としての音楽の力を信じ、愛する人がひとりでもいる限りそれはなくならないんじゃないかと、わたしはそう信じていたい。空間と楽曲が調和して新たな音楽が生まれるあの瞬間、そのときの魂がふるえるような感動、そして日常に息づく大好きな音楽達を、無くしてしまうわけにはいかない。残念ながら今年のライブイベントは夏まで軒並み中止になりつつあるけれど、それでも来年からはまた満員の会場の元に音楽が鳴り響き、去年は大変だったねなんて笑って言える私たちでいたいなと思う。

私が愛してやまない最高の”場”が、
MONOEYESが教えてくれたこの素晴らしい世界が、どうかこれからもずっとずっと続きますように。
今はそう願ってやまない。

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