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いつだって”あたし”を唄う言葉はない

ヒトリエと私と、孤独の共有

音楽が好きな人なら誰しも、『このアーティストが自分の中で最強だ』、と思うアーティストが居るかと思う。

そのアーティストがバンドであろうとソロの歌手であろうと、はたまたアイドルであろうと、そういった想いを抱ける存在が有るのなら、それは確実に自分の中の軸になっているだろう。

その想いの根っこには、歌詞や、メロディーや、そのアーティストの想いや考え、必ずどこかで引っかかる、共鳴できる部分が有るからだ。

さて、私は、その”最強”のアーティストを問われた時、即答する事ができる。

“ヒトリエ”、と。

私とヒトリエとの出逢いを細かく説明すると長ったらしくなるので、書くのはなるべく最小限に留めるが、
ヒトリエのボーカルギター、wowakaさんとの出逢いが小学1年生の時、ニコニコ動画で彼のVOCALOID楽曲を閲覧した事だと記憶している。思えばそれが全ての始まりだったかもしれない。

VOCALOID楽曲を投稿していた頃のwowakaさんは、架空の少女を主人公としたものがメインだった。

それはヒトリエとしての活動が始まってからも、ヒトリエの、そしてwowakaさんのコンセプトのようなものとして定着し続けているが、決定的な違いは、人間が歌うか、ソフトウェアが歌うか。

人間ではない初音ミクが、架空の少女の心情を唄うこと。
wowakaという人間の存在を直接的に見せないような、そんな形。

当時、顔出しする事が無かった(リアルイベントでは顔を見せていたのであろうが)wowakaさんは、幼き日の私にとっては果たして本当に実在する人物なのか疑わしくなる程に謎であったし、他のリスナーも恐らく謎に感じていたであろう。

私なら当時の彼を、”肉体を持たない” wowakaであると表現する。

wowakaさんのVOCALOID楽曲の歌詞は、あくまで架空の少女の語る言葉なのであって、wowaka本人の言葉ではない。wowakaであってwowakaではないのだ。
また、それに加えて、その歌詞を初音ミクという架空の存在に歌わせることで、wowakaさんが生身で、肉体でアプローチするという事が無いのだ。

架空の少女を介してリスナーの前に立っていたwowakaさんは、その実在性を我々に訴える事は無かったのである。

そんなwowakaさんだが、ヒトリエの前身、ひとりアトリエのボーカルとして自ら歌い始めてから、途端に彼はちゃんとそこに存在しているのだ、人間であるのだ、と思い知らされた。

生身の肉体でギターをかき鳴らし、歌い、等身大の、ありのままの”僕”を歌詞に落とし込んだwowakaさんは、確かに肉体を獲得したのだ。

某テレビ番組のインタビューで、『自分の身体で、自分の声で歌いたい_____』と言ったwowakaさん。

それは彼が、架空の少女を介さずに、世界に、リスナーの前に立った、宣言のような感じがした。

バンドとして、wowakaとして、
“肉体を獲得した” wowakaさんの書く歌詞は、
よりリスナーが共感できる、現実的で、人間らしく、感情的な、ある種の生々しさを得たと強く感じる。

そして、ヒトリエとしての楽曲における架空の少女の立ち位置もまた、彼と共に変化したと思う。

これは私なりの解釈になるが、wowakaさんのVOCALOID楽曲に登場する架空の少女は、wowakaさんの頭の中で産まれ、架空の”彼女”なりの言葉を紡いでおり、非実在性が強く滲んでいた。

だが、ヒトリエの楽曲に登場する架空の少女は、
wowakaという人間の本音を、素直な気持ちを含んだ、前者に比べてさらに生身の人間の拍動を感じさせる印象だ。

VOCALOIDから、バンドへ。

非実在の世界から、人間と人間がぶつかり合う、現実世界へ。

wowakaという人間のありのままの姿が架空の少女に溶け込み、介入する存在が偶像ではなく人間となった事で、物語は現実味を帯びた。

そして我々リスナーは初音ミクと架空の少女の世界を眺める第三者ではなく、wowaka、シノダ、イガラシ、ゆーまおの四人の人間と、無数のリスナーが紡ぐ、即ち、”僕”と”あなた”の物語の主役となったのだ。
我々もヒトリエの物語の一部なのだ。

ヒトリエにおける”あたし”、あるいは”私”は、我々、ヒトリエのリスナーなのではないだろうか。

“あたし”、”私”はリスナーが自己投影できるような存在であり、楽曲を通してヒトリエと対話するアバター的存在であると私は考える。

その、自分を少女と重ね合わせて共感するという事も、ヒトリエの楽しみ方のひとつであり、魅力なのではないかと私は思う。

wowakaという人間の”孤独”と、”葛藤”と、”苦しみ”。それらがVOCALOID時代と比べて更に色濃く表れたヒトリエの楽曲群(特に、”インパーフェクション”をはじめとする、アルバム”WONDER and WONDER”にそれを強く感じる節がある)。

そんな彼らの音楽に、言葉に揺さぶられ、惹かれるものがある私、そして我々リスナーは、wowakaさんもライブのMCで言っていたが、”似た者同士”なのかもしれない。

冒頭にも述べたが、必ずどこかで引っかかる、共鳴できる部分が有るのだろう、きっと。

私も含め、リスナーとヒトリエは、wowakaさんの言う、”全感情の全方角”を共有し、解り合える関係にあるのではないか。

さらにそこには、彼の想う”愛”と我々の想う”愛”が重なり合っているのだ。

彼の楽曲のひとつ、”アンノウン・マザーグース”の一節に、

『世界があたしを拒んでも 今、愛の唄 歌わせてくれないかな』

とあるように、互いに愛を歌っているのだ。

喜びも悲しみも共に分かち合える、それが音楽によって構築されていると思うと、改めて音楽という文化と、その舞台で強さを魅せるヒトリエが如何に凄いものであるかを心から実感させられる。

音楽という引き出しを最大限に使った、芸術的で文化的な、相思相愛のコミュニケーション。

それがリスナーとヒトリエの、リスナーとwowakaの、
そして”僕”と”あたし”の関係性ではないだろうか。

彼が亡き今も、確かにそれは脈々と続いていて、
彼の遺志を継いだシノダさん、イガラシさん、ゆーまおさんの三人と、見えなくても確かにステージの中央に佇んでいるwowakaさんと、私達と。

これからも沢山の感情を感じるままに分かち合って、
その先にあるそれぞれの”絶対的”を守る為に、叫ぶ為に、主張する為に突き進んでゆくのだろう。

私はこの、産まれてからの15年間、
辛さや、苦しみや、切なさや、痛みや、疎外感や、その他諸々の負の感情は必ずあった。

振り向けば私の背に居て、気付けば隣に居て、顔を上げれば目の前に居た、暗く覚束無い感情達は、
きっと私にしか解らないものであって、それをそう心の底で願っていながら、それでも誰かと解り合いたかった。

そんな複雑に絡み合った私の心情を1つずつ解いて見せ、肯定し、共感してくれたのは紛れもなくヒトリエだった。

私が、初めて心から尊敬できると思った人達だ。
それが彼らなのだ。

wowakaさんが孤独の果てに見つけた形。
葛藤の果てに見つけた形。それがヒトリエという結晶なのだろう。

そして、その中での生みの苦しみも時に有りながらも、それでも音楽を紡ぎ続けた彼は、仲間と共に私に教えてくれたのだ。世界の不条理も、無慈悲さも、たまに見せる優しさも、人間の暖かさも、強さも。

だから私は、『己の中での最強のアーティストは誰か?』と問われて答えるのがヒトリエなのだ。

私は今、別のハンドルで細々とボカロPをしているが、
私がVOCALOIDの道へ進んだのも、
ヒトリエと、wowakaさんの影響だ。

それ程にヒトリエは私の人生の軸なのである。

ここまで長々と書き散らしてしまったが、
私が言いたいのはそういう事だ。
つまりはヒトリエが、如何にリスナーに寄り添う優しさと強さと弱さを同時に持つバンドかという事だ。

この音楽文を読まれている方は、恐らくヒトリエのファンであるかと思うが、ファンの方でも改めてヒトリエの”NAI.”という曲を聴いてみて欲しい。
ヒトリエを知らなくても、歌詞を検索して読むだけで構わない。

そこに、”NAI.”という1曲に、ヒトリエの共感性の強さと、wowakaさんの孤独と、私達が普段感じている孤独と、自分が自分であろうとする事が、限界まで詰まっている。

きっと少しでも響く何かが有ると思う。

いつだって “あたし”を唄う言葉はない。
世の中のありふれた言葉で語れる程、単純な自分ではないのだ。

けれどいつでもヒトリエは、wowakaさんは傍に居る。

肯定してくれる。

“あたし”は”あたし”でしかないのだと。

だからこそ私は、”NAI.”の中の、この歌詞をいつも胸に秘めている。

『ない。ない。ない。何ひとつってあたしを唄う言葉ってない。それでもあたしは唄うわ。それでもあたしは唄うわ。』

私はきっと、これからもこの言葉を握り締めて叫び続けるだろうし、自らの旗を掲げ続けるだろう。

最後に、私は、今の三人の、現在進行形のヒトリエも心から愛している。

勿論、ヒトリエの最高の形は、wowakaさんも含めた完全体の四人であり、これからもそのレコードが変わる事はないだろう。

だが、wowakaさんが亡くなってもなお、wowakaさんの創り上げたヒトリエというバンドを紡ぎ続けるシノダさん、イガラシさん、ゆーまおさんのサウンドも、彼らの力の強さ、意志の強さを感じるのだ。
それもまた私達は愛せると思うし、愛すべきなのだと思う。

彼らはバンドの最大の要であり、最高の仲間を突然に喪いながらも、その深い深い悲しみと苦しみの中に沈みながらも、音を鳴らす事を止めていないのだから。

とはいえ、三人には無理せず、適度に感情を吐き出して、どうか、追い詰められないように、自分が壊れないように生きていて欲しい、というのがいちファンとしての本音だ。

ヒトリエとしての活動もハイペースでなくて良いので、彼らには自分の心と向き合う時間を取って欲しいと切に願う。余計なお世話であるかもしれないが。

wowakaさんに代わってギターボーカルを務めるシノダさん、wowakaさんのパートを補うイガラシさん、不足したコーラスを埋めるゆーまおさん。

そして、ヒトリエを創り、素晴らしいという言葉ではチープ過ぎる程に凄まじい音楽を届け続けたwowakaさん。

私も、wowakaとヒトリエに強く影響を受けたうちの小さな一人として、僭越ながらもヒトリエの四人に最大級の敬意を表させて頂きたい。

そして、これからもヒトリエを見守り続ける事を誓って筆を置かせて頂く事にする。

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