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枯らしてしまった花があるからこそ

aikoの差し出す美しき宝石、槇原敬之が想起させる友人

この記事を、いつしか会わなくなってしまった、連絡を取り合うことさえしなくなってしまった、かつての友だちに届けたくて書き始めている。少年時代、陽が落ちるまで、公園でボール遊びをした友だち。青春の前期、一緒に「早弁」をした友だち。そして社会に出る直前、大学時代に、忌憚のない意見を交わし、時として傷つけあいもした友だちに、メッセージ(のようなもの)を届けたくて、キーボードを叩いている。

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年を重ねるごとに、私の心のなかで、輝きを強めてきた楽曲がある。aikoさんの「飛行機」だ。輝きが強まるというのは、単に「どんどん好きになっていく」という意味ではない。石を削らなければ見出せない宝があるように、私は多くのものを失ったからこそ「飛行機」を傑作だと感じられるようになれた。もっと不穏な表現を使うのなら、楽曲「飛行機」は、私の心を切り裂くことがある。それでも私が、本曲の収められたアルバム「夏服」を、決して手離しはしないのは、痛みにこそ価値があると思うからだ。

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「飛行機」は哀しい楽曲である。「夏服」には、「be master of life」や「ボーイフレンド」といったエネルギッシュな傑作、「ロージー」や「初恋」のようにドラマチックな佳曲が収められており、全編を通じては「ポジティブな1枚」になっているように思う。その1曲目に、何ゆえに、これほどに哀しい作品が置かれたのだろうか。それは分からない。分からないままに、私は長い間「飛行機」を愛聴しつづけ、己から削られるべきものが削られていくかのような、いわば「痛みを伴う歓び」を味わってきた。

長く生きるにつれ、ともすれば纏(まと)ってしまう老獪さ、図太さ、そういったものを剥がされ、自分の芯にイノセントなものが残されていることに、あきれたり安堵したり、そうやって「飛行機」を聴きつづけてきた。

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<<あたしの歩いた道には花が宿ってたのに>>
<<声も愛も注がず枯らしたのはあたし>>

この部分を聴くたびに、たまらなく切なくなる。そして切なくなれること、まだ「心」を失わずにいられることが、有り難く思えてくる。aikoさんは、何を<<花>>に喩えたのだろうか。「飛行機」は、<<あたしがここにいる証>>を持っていたという人に<<行かないで>>と呼びかける作品である。だから<<花>>は、その人が授けてくれた言葉、手渡してくれたプレゼント、文字通りの<<花>>、そういったものを指すのかもしれない。ことによると、他ならぬ「その人」を意味するのかもしれない。

私にも枯らしてしまった<<花>がある。持ちものを紛失したり、教室で学んだことを忘れたり、そして何人もの友だちと連絡を取り合わなくなったり、そのようにして私のなかに、かつて広がっていたはずの花畑は、寒々しい場所になってしまった。もちろん枯れずに残っている<<花>>もある。ずっと愛でつづけてきた「形あるもの」、そして「形をもたないもの」がある。それこそ楽曲「飛行機」も、私にとっては、ずっと水を注ぎつづけてきた<<花>>だ。それでも思うのだ、何もかもを失わずに生きることはできないという、人生の難しさ、私という人間の弱さを。

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そのようにaikoさんに心を削ってもらったあとで、私は槇原敬之さんの楽曲「まだ見ぬ君へ」を流すことにしている。削られた心は束の間、きっと少しは美しく、かつ折れやすいものになっているはずだ。その「細った心」に、温かな布をかぶせてくれるのが、槇原敬之さんの歌声である。槇原敬之さんの歌詞に、私の奥にある無垢な部分は温められる。

「まだ見ぬ君へ」の歌詞は、それほど難解なものではない。ある未婚者が、いつか出会う誰かのことを思い浮かべながら日々を送る、センチメンタルな、そして淡い希望を宿した、そういう佳曲だと私は考えている。

<<まだ見ぬ君を想って 歯をよく磨いたり>>
<<まだ見ぬ君を想って 犬をシャンプーしてみたり>>

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ただ私は、まだ出会っていない誰かを思い浮かべながら、この曲を聴くわけではないのだ。むしろ、すでに出会った人、それでいて交流の途絶えてしまった人の無事を案じながら「まだ見ぬ君へ」を自室に流すのである。それは作詞者(槇原敬之さん)からすれば、もしかすると「身勝手な鑑賞法」に映るかもしれない。それでも「遠い場所にいる誰かを思いやる」という意味では、私と「まだ見ぬ君へ」の主人公は、きっと繋がってもいるはずだ。

ごく個人的な話をするならば、私は熱心に歯を磨くほうだ(この齢で虫歯がないのが、ささやかな自慢である)。それは当然、自分が治療に通いたくはないからである。それでも、そういった限定的な形であれ、私が自分のことを慈しんでいることを、かつての友だちが喜んでくれるのだとしたら、とても有り難く思う。そして私と、遠い昔に、色々なことを語り合ってくれた友だち(の何人か)は、愛犬家だった。彼ら彼女らは、いま犬を愛でているだろうか。もう飼ってはいないとしても、犬を好きだという気持ちを失ってはいないのなら、それを私は嬉しく思う。

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槇原敬之さんは、こんなことも歌う。

<<今僕は がんばって 遊んでいる>>

「遊ぶ」という行為が、頑張らなければできないということも、私が加齢とともに思い知らされてきたことだ。遊ぶのが難しいということではないな、それほど多忙な人間ではないので。それを楽しむことが、徐々に難しくなってくるということだ。どこに出かけるにしても、持っていかなければならないものがあるし(たとえば今の今は手指の消毒液を持ち歩くことが望ましい)、逆に、家に置いていかなければならないものもある(かかえているタスクを、ひととき忘れなければ楽しくは遊べないということだ)。

いつか私と遊んでくれた友だちは、やはり年相応の気苦労をかかえながらも、頑張ってくれているのだろうか、楽しむ努力をしてくれているのだろうか。もし愉快に遊んでいるのなら、それは私の枯らしてしまった(連絡を怠ってしまった)<<花>>に、どこかの誰かが、水を注いでくれていることを意味するのだろう。その見ず知らずの人に、深く感謝する。

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<<目の前が見えなくなったならば>>
<<思い切って目を閉じればいい>>

そうaikoさんは歌う(それは楽曲の主人公が、一時期、心を通わせた人からプレゼントされた言葉のようである)。同じような助言、似たような励ましを、若き日の私に投げかけてくれた友だちがいた。いま、その視界が暗くなっているのだとしたら、つまり疲れ果てているのだとしたら、私は<<愛のようなもの>>を届けたいと思う。混じりけのない<<愛>>は、もう放てないかもしれないから。

心を込めて言う。

いつか一緒に遊んでくれてありがとう、友だちになってくれてありがとう。俺は自分の歯を大事にするから、だからと言ったら変な話かもしれないけど、犬や猫を好きだという気持ち、小さな生きものを可愛がる気持ち、どうか、それを忘れないでいてくれ。

※<<>>内はaiko「飛行機」、槇原敬之「まだ見ぬ君へ」の歌詞より引用

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