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忘れられなくても、きっと踏みだせはする

aikoと槇原敬之が折り合いをつけた失恋の痛み

本文の筆者、つまり私は39歳である。主観に過ぎないかもしれないけど「かなり難しい時節」を迎えている。

とうに若くはなくなったわけで、新進のミュージシャンに詳しくはなく、その愛聴者の感性を理解するのは容易いことではない。たとえば菅田将暉さんやあいみょんさんといった年少のアーティスト、その全曲を聴くというようなことは、失礼ながらしていない(もちろん胸に刻まれている作品もあるけど)。

それなら古典的な名作に精通しているかというと、それも際どいところであり、井上陽水さんや玉置浩二さんの楽曲を初期から聴いてきた人からすれば、恐らくは「青二才」に映るだろう(やはり何曲かは心のなかに響きつづけているけど)。

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いま述べたことは音楽鑑賞「以外」についても当てはまるような気がする。若くなく、かつ成熟してもいない私には、少年少女とエネルギッシュに意見交換することも、年長者とノスタルジーに浸ることも、なかなか難しいわけである。もう一度、若き日の感性を取り戻したいような気もするし、いっそ老人になって、物ごとを深く考えられるようになりたくもある。

つまり羨んでいるのだ、年少者のことも年長者のことも。

それでも、ネガティブなままでいては仕方ないので、この歳だからこそ持っているもの、同い年の友人と分かち合える思い、そういったものを大事にしたい。「どっちつかず」の時節にあるということは、どちらへの距離も近いということでもあるはずだ(そう信じたい)。

私が愛聴してきたアーティストに(つまり「中堅」とでも称すべき歌い手に)槇原敬之さんとaikoさんがいる。ご両人のリスナーには、若い人も、私より年長の人もいるはずである。そういった方々に「きみたちと一緒に生きていきたいよ」「あなたたちのように年を重ねていきたいです」と伝えることが、本記事をつづる目的のひとつである。

「自分はあいみょんの大ファンだよ」というご年配の御方はいるだろうし「井上陽水さん、大好き!」という少年少女もいるだろうとは思う。とりあえず当方の勝手な判断で、槇原敬之さんとaikoさんを「39歳の共感を誘うアーティスト」と定義したいと思います。

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私的な話になるのだけど、同い年の友人(男性)とLINEで語り合っていたら、唐突に彼が「なんだかんだ言って、失恋というものが、いちばん辛いのではないか」と言い出した。彼はつい先ごろ「失恋」をしたというわけではない、半生(はんせい)を振り返って、そういう結論に達したのだそうだ。仕事上の悩みだとか、社会人としての責任が大きくなって気楽には生きづらくなることだとか、色々あるけど、本当に色々あるけれど、やはり「ふられること」以上に苦しいことは、人生において無いのではないかと、彼は切々と語った。

私は肯いた。5回くらい肯いた(スマートフォンごしには「私が肯いたこと」など彼には見えなかったわけだけど)。同感である、年相応に色々な痛みを味わってきたと思うけど、私が「自棄」という言葉を知ったのは、女性との関係を築く上で深手を負った時のことだ。この歳になり、そうそう「恋に落ちる」ことはなくなったのだけど、若い頃にふられたり、恋人と別れたり、さようならを言えさえしなかったりしたダメージというものは、しつこく心に残っている。その女性たちのことを、今では好きなわけではないのに。

どうでしょうか、一般論、あるいは主観にまみれた文章のように思われてしまうでしょうか。世の39歳は、もう少し逞しく生きているものでしょうか。「この記事を書いているオジサン、かっこう悪い」と思われてしまったでしょうか、あるいは「こんなに情けない若造には明日の世界は託せない」と呆れられてしまったでしょうか。いちおう続けてみます。

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失恋をテーマにした作品の(いわば)定番として、槇原敬之さんの「もう恋なんてしない」が挙げられるのではないか。作中で歌われる、主人公のもとを去った人が、配偶者だったのか、同棲の相手だったのか、それは私には十全には分からない。ともかく彼は、その人の遺していった「形あるもの」を処分しながら、そして「これからも必要なもの」を探しながら、恋という「形のないもの」が終わってしまった悲しみを噛みしめる。具体的で描写的な歌詞が、この楽曲をリアリティに溢れるものにしている。

<<2本並んだ歯ブラシも 1本捨ててしまおう>>
<<ヤカンを火にかけたけど 紅茶のありかがわからない>>

この曲の最も切ないところは、主人公が自分を鳥瞰してしまっているところなのではないだろうか。ボロボロと泣くのではなく、やつあたりをするのでもなく、ある意味では「冷静に」、彼は己の姿を見つめている。

<<やっと自由を手に入れた ぼくはもっと淋しくなった>>
<<ごみ箱かかえる僕は 他のだれから見ても一番 センチメンタルだろう>>

分かる。非常によく分かる。他人様の悲しみについて「分かる」と軽々しく言うべきではないと、そのくらいのことは「分かる」年齢になったけど、それでも敢えて「分かる」と書く。人は本当に悲しい時、自棄に近い状態になった時、案外、自分のことが見えてしまうものだ。客観視できてしまうものだ。経験的に、そう思う。

そして考えるのだ、やはり「もう恋なんてしない」の「聴くべきところ」は、最後のセンテンスなのではないかと。

<<もう恋なんてしないなんて 言わないよ 絶対>>

人は誰かを忘れなければ、次なる恋をしてはいけないのだろうか。私はそう思わない。拭い去ることのできない痛みがあるからこそ、同じ過ちはするまいと思える可能性があるだろうし、かつての恋人を忘れられない無様さを自覚できているのなら、相手の「それ」も許せるはずだ。互いに「忘れられないこと」をかかえつつも、いま目の前にいる女性(男性)と見つめあう。それが39歳としての、私の恋愛観である。

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槇原敬之さんの「もう恋なんてしない」のように、リアリティを感じさせる「失恋の定番ソング」として、aikoさんの「あたしの向こう」が挙げられるのではないだろうか。

私はaikoさんのアルバムを通して聴くたびに「どうしてaikoさんは、高らかに幸福感を歌いながら、切なすぎる曲を織り交ぜもできるのだろうか」と不思議になる。「コンセプトアルバム」という用語があるけど、aikoさんの生み出してきたアルバムの多くは、ある意味では取っ散らかった、様々な時々の、様々な感情が注ぎ込まれた「るつぼ」のように(私には)感じられるのだ。

そして「あたしの向こう」は、それこそ「様々な感情」が溢れる、1曲でありながら1曲ではない、そんなドラマチックなものに思えてならない。

<<どうにもならないね もうキスは出来ないね>>
<<怖くなって少しだけ 指先が冷たくなった>>

悲しい歌詞である。「もう恋なんてしない」に<<紅茶>>という、ささやかであるからこそ現実感を匂わせるような単語が含まれているように、aikoさんの「あたしの向こう」も<<指先>>という、悲しさを象徴するような単語を含んでいる。

「あたしの向こう」の主人公も、やはり自身を俯瞰してしまっているように感じられる。悲しみのなか、どん底のような場所にいながら、そういう自分を認め、いくぶん醒めた目で見つめているようにも思える。だからこそ私は、ヒロインの心情が染みてくるようで、切なくなるのだ。

<<何か解らない模様も あたしの今の模様だ>>
<<さよならなのはわかっていたけれど わからないフリをしていたんだ>>

それでもaikoさんは(楽曲「あたしの向こう」の主人公は)その暗闇のなかにとどまるのではなく、前へと進もうともするのだ。そして私が、本当に素晴らしいと思うのは「痛みをかかえつつも」その前進を選ぶという生き方である。

<<下を向いてた帰り道に思ったよ>>
<<明日は晴れるから星はいくつ見えるかな>>
<<あなたの心に変わった形のままでもいいから>>

人間は恋をすることで(それが片思いであっても、束の間の交際であっても、さらに言うなら長い結婚生活であっても)相手から多くの影響を受け、その人に「心の形」を変えられてしまうものだと思う、よくも悪くも。それが「生きてきた証明」なのではないかと、いくぶん自己弁護的に思うのだ。

自身がかつての恋人の影響を受けているのなら、いま傍にいる人に「かつての恋人の影響」が残っているのだとしても、それを受け入れたい。そうすれば私たちは、この切なくも出会いに満ちた人生を、きっと歩きつづられる。

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最後に、いま一度、私的な話をしたい。私には離婚歴のある知己が何人もいる。その人たちが、かつてのパートナーのことを、すっかり忘れることはできないのだとしても、その人に変えられた心を「もと通り」には戻せないとしても、できれば次の恋をしてほしいと願う。彼や彼女が何歳であっても、恋で傷つく権利、傷つきながらも歩き出せる可能性は、きっと持つはずだ。39歳、相当にくたびれており、かつ熟してもいない私は、そんなことを思っている。

※<<>>内は槇原敬之「もう恋なんてしない」、aiko「あたしの向こう」の歌詞より引用

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