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ふるさとを遠く離れても

私の「故郷」、槇原敬之と椎名林檎

私には「ふるさと」と呼べるような場所がない。とうに祖父母を亡くし、その家は、ずいぶん前に取り壊されている。生まれ育った家も残されていない(その敷地に、いま誰かが住んでいるのかさえも知らない)。以上は「不可抗力」というか、私個人が、どう頑張ってみたところで避けようのなかった喪失である。悲しくはあるけど、黙って受け入れるしかないことだ。

ただ私には、心的な「ふるさと」というものを忌避するきらい(傾向)がある、それは他人様のせいにはできないことだ。自分が未練がましい性分なのを分かっているから、そう努めているのだ。懐かしい場所を訪れるのは、よほどのことがない限りは避けるように心がけている。

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「郷愁に身を任せて癒やされること」と「感傷にとらわれて動けなくなってしまうこと」は、私にとって紙一重なのだ。本当に心が苦しい時は、少年期や青春期に出かけた場所へ行き、ぼんやりとコーヒーを飲んだりする。かつて通った書店を覗いたりもする。でも、そういったことを頻繁に行うわけにはいかない。ノスタルジーとは「有限の財産」なのではないかと考えている。

そのような考え方は、人間関係についても当てはまる。同窓会というものに出席しないのだ(そもそも酒席が苦手である)。例外的に繋がりを保っている(かつて身を置いていた)コミュニティはあるのだけど、その場でさえ「当時」のことより「今」のことを話すべく努めている。私は強いわけではない、むしろ弱すぎるから、意図的に過去を遠ざける必要があるのだ。

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それでも心の動きというものは、容易には御することのできないものだ。もう求めようのない「ふるさと」を、つい求めている自分に気付くことはある。そんな時、どうすればいいのだろう、祖父母に会う手立てはなく、旧友が「その町」で待っていてくれるとは限らない。のっぴきならぬ事態、そこに光のごとく差し込んでくるのが、槇原敬之さんと椎名林檎さんの歌声である。

光のごとく、というのは、あまり適切な表現ではないかもしれない。今から述べる2作は私にとって、むしろ宵闇のように心のなかへ染み込み「安心して弱さを受け入れなさい」と言ってくれるような楽曲である。「あなたと同じような悲しみを、いま味わっている誰かがいるだろうから、悲しいままでも眠ってしまいなさい」と。

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槇原敬之さんは、楽曲「遠く遠く」で、こんなことを歌う。

<<同窓会の案内状 欠席に丸をつけた>>
<<どんなに高いタワーからも 見えない僕のふるさと>>

私の生きかた、あるいは境遇に重なる。私は前述のように(例外中の例外をのぞいて)同窓会には出ないし、高台に向かったところで生家を見ることはできない。これが槇原敬之さんの実体験なのかは、私には知りようがないことだ。それでも、楽曲の(創作物の)なかに登場する人物は、時として現実世界を生きる人よりも鮮やかに、誰かの気持ちを代弁してくれるものだとも思う。そういう意味で「遠く遠く」の主人公は、私が労い合える「仲間」だ。歌い手の槇原敬之さんは、その仲間を(言うなれば)「紹介」してくれた人だ。

「遠く遠く」は感傷だけを歌い上げる楽曲ではない。槇原敬之さんの声調が穏やかなので、よく歌詞を読み込んでみないと気付きづらいと思うのだけど、本曲は勇ましい「誓いの歌」でもある、そう私は考えている。

<<力いっぱい 輝ける日を この街で迎えたい>>
<<僕の夢をかなえる場所は この街と決めたから>>

いま私の胸には「夢」と呼べるほど立派なものは宿っていない。そして<<力いっぱい>>、日々を生きているとも言い難い(むしろ小休止しているところだ)。それでも今、交流のある友人知己のことは、とても大事に思っているし、そんな思いがある種の輝きを放つのだとしたら、それは現世にはいない祖父母のもとまで届くかもしれない(そう信じなければ生きていけない)。

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椎名林檎さんの「正しい街」は、「遠く遠く」とはある意味、対照的な作品であるように、私には思えてならない。椎名林檎さんの声が勇壮なので、パワフルな歌に聴こえるだけで、その実、相当に悲しい楽曲なのではないか。この作品には「出口」のようなものがない。悔いを叫び、思い出をたどった主人公が、あらためて悔いを叫ぶ。そのような楽曲に感じられる。

<<あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね>>

このセンテンスは、冒頭に置かれ、そして締めくくりにも選ばれているのだ。懐かしい場所を思いながらも、いまを生きる決意をする「遠く遠く」の主人公とは違って、「正しい街」のヒロインは、自分が間違っていたという思いを拭い去ることができない。

かといって私は、楽曲「正しい街」を批判したいわけではない。むしろ逆である、本当に素晴らしい歌だと思っている。ここまで大胆に、己の心中をさらけ出せるヒロインは、きっと「今」を実直に生きてもいるのだろう。それでもなお、後悔にとらわれているのだとしたら、椎名林檎さんは本曲を解き放つことで「誰もが弱い」という残酷で美しい真実を、見事に描き出したのではないだろうか。

<<何て大それたことを夢見てしまったんだろう>>
<<忠告は全ていま罰として現実になった>>

私にも「人の勧め」に従わなかった経験はあり、<<大それたことを>>願っていた時期がある。それが<<罰として>>、身にふりかかるような、絶望的な「今」を過ごしているわけではないのだけど、ヒロインが悲しんでくれることに、共感のような感謝のような、そんな思いを呼び覚まされもする。

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私が生まれ育った場所、かつて関わりをもっていた人、いつか通っていた喫茶店、それらは全て「正しい」ものだったのかもしれない。私は時に避けようもなく、そして時には自らの意思で、そこから離れた。もっと言うならば捨てた。そして「遠く遠く」離れた場所から、若き日の自分を咎めるような、それでいて温かく支持するような、複雑な心境になる。

何が正しかったのかは最後まで分からない、自身が輝いているのかを決めてくれるのは他人様である、そんな風に考えて日々を過ごしている。着実に減っていく日々を。

槇原敬之さんの声調が温かだから、椎名林檎さんの声調が勇猛だから、私はノスタルジーに浸れ、そんな自分を許すことができ、そして「もう少しだけ歩きつづけてみるか」というような心的状況を得られもする。その道は、もしかすると「正しい街」から「遠く遠く」へと向かってしまうような、間違ったものなのかもしれない。それでも、間違っていたとしても、決めた以上は歩きつづけてみたい。

そう、椎名林檎さんの歌詞を借りれば<<もう我が儘など云えないことは分かっているから>>である。そして槇原敬之さんの歌詞を借りるなら<<失くしちゃだめなことをいつでも 胸に抱きしめているから>>でもある。

叶わぬ願いを捨てきれずに、それでも輝かしいものを(少なくはあれ)抱きかかえて、ここまで私は生きてきた。それが自分の努力だけで得られた「勲章」ではないこと、槇原敬之さんと椎名林檎さんの楽曲、それがあってこそのものだということを、最後に強調しておきたい。

深く感謝します。

※<<>>内は槇原敬之「遠く遠く」、椎名林檎「正しい街」の歌詞より引用

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