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その時は笑って、Laughter

Mr.ChildrenとOfficial髭男dismによる「ポストミスチル」とは

「音楽で生きていく」と決めた時、人は何を思うのか。
 

「音楽で生きていく」ということは綺麗事ではない。人々に求められ続け、その期待に応え続けなければならない。その期待と賞賛と熱狂を「金銭」に変えなければならない。それは、皮肉にも今この世界の状況下で痛々しいほど露わになった。どれだけ綺麗事を並べようとも、経済的余裕を失えば音楽は、人間は、簡単に消えていく。
 

自分という「人間」の全てをさらけ出し投影した「音楽」という化身。一度解き放ってしまえばそれは一歩一歩確実に地を歩き、時に縦横無尽に空を飛び、時に光の届かない暗く深い海の底へと沈んでいく。きっと、世界というのは想像しているよりも随分広いのだろう。顔も年齢も性格も立場も思想も何もかも違う「人間」たちの元に図らずもそれが届き、受け取られる。そんな時、彼らは一体何を思うのだろう。
 

現実的な手応えをもってして「音楽で生きていく」ことを現実的に決めた時。望む時もそうでない時も、ありとあらゆる光に狙われ追われ照らされ続けるスターダムへと駆け上がる覚悟を決めた時。過去の自分と決別し「もう一人の自分」の人生を共に生きると決めた時。
 

きっと人は、最後に一度だけ振り返る。
 

そしてその時両足で踏みしめているその場所に、目印となる旗を突き刺す。何年経っても、何十年経っても、そこに立ち返ることで全てを確認できるように。その旗は、がむしゃらに走り続け己の現在地すら分からなくなった時それを教えてくれる。現在地に至るまでの己の過ちと成功を、変化と成長を教えてくれる。自分の両足で立っているその場所に両手で突き刺したその純粋な「覚悟」だけが、いつだって自分自身を教えてくれる。
 

きっと、1994年に突き刺された旗の名は「innocent world」で、2020年の今この時目の前で突き刺された旗の名は「Laughter」だった。
 

「ポストミスチル」
 

一部からまことしやかにそう囁かれていることを、彼らは喜んでいるのだろうか。自分たちのバンド名に「ポスト」という言葉がつけられていることを、彼らは喜んでいるのだろうか。はたまたその逆だろうか。それは本人達にしか分からないことなのでここでは追及しない。
 

多くの人々の心を掴んで離さないキャッチーなメロディー。ひとたび流れ始めると一瞬で目の前の景色が一変してしまうような強烈なポップソング。彼らがこの指とまれと人差し指を掲げれば、老若男女が理由もわからず吸い寄せられてしまう凄まじい求心力。多くの平凡な人々の人生に交差することができる、決して完全無欠のヒーローではない人間味。時代の潮流を的確に捉えて交差していくことができる視野の広さ。物事の浅瀬から深淵までを逃さず覗き込んでは真理を捉える深い思考力。あくまでも他人本位で繰り広げられるポップの中に、自分本位のロックという芯を凛と打ち立てることで生まれる圧倒的な訴求力。「みんなのために」というポップと、「自分のために」というロックをどちらかに偏ることなく本能的に究極のバランスで両立させてしまう先天的な器用さ。
 

そんなポップスターである彼らはいつだって人々の期待に応えてしまう。そしていつしか、「いい人」というラベルを全身にべったりと貼られてしまう。
 

きっと彼らは「いい人」であり続けることを嫌った。いつだって世間の期待に応え100点をとり続ける、そんな優等生でありたくもなかった。見た目が少し怖い人が捨て猫を拾っていたらえらくいい人に見える理論の真逆である。ひとたび「いい人」というラベルを貼られれば、いつでも過剰なほどあたたかく受け入れてもらえる。しかしそれに相反するように、そこから少しでも脱線した時に向けられる視線は過剰なほど冷ややかだ。「いい人」であり続けることの窮屈さ、「いい人」というラベルと本当の自分との間に横たわるギャップ、この先「いい人」であり続けても自分が求めるものは得られないということはきっと彼ら自身が一番よくわかっていた。そして、今の自分がすべきことも。全身に貼られたそれを剥がし取り、かき集め、「人々が求める自分」として新たに確立させること。それを「内なる自分」と分離させること。その二人分の「自分」の人生を背負って生きていく覚悟を決めること。その覚悟を忘れないために、現在地に突き刺す「旗」が必要だということ。
 

1994年にリリースされた「innocent world」は1992年にメジャーデビューしたMr.Childrenの5枚目のシングルである。デビュー当初、桜井和寿は売れることにとにかく躍起になっていた。いつCMに起用されてもいいよう15秒や30秒サイズの曲をいくつもストックし、とにかくタイアップが欲しいとレコード会社の社員に懇願し続けた。結果、3枚目のシングル「Replay」はお菓子のCMに起用され、初めてテレビを通して彼らの曲が人々に広く届いた。そして4枚目のシングル「CROSS ROAD」はドラマの主題歌となり、ドラマの台本を読み曲を作った桜井和寿は「100万枚売れる曲ができた」と豪語し、言霊か何かは知らないが本当に初のミリオンセラーを達成した。「ミリオンセラー」という現実的な手応えを手にした直後、次のシングルがMr.Childrenにとってのターニングポイントになることは確実だった。桜井和寿は悩んだ。ここでまた世間に求められるような王道のラブソングを作るべきなのか、否か。そんな時、プロデューサーの小林武史は「今この時代に生きている桜井和寿という24歳の一人の男が書けるものを書けばいい」というニュアンスの助言をする。結果生まれたのが「innocent world」である。歌詞には小林武史の助言の通り、まさに「桜井和寿という24歳の一人の男の気持ち」がそのまま投影されている。
 

この曲は、桜井和寿が「人々が求める自分」と「内なる自分」に分裂し、両者が対話しながら互いに願いを託し合うという形で展開されているように思える。イントロの突き抜けるような幸福感あふれるメロディーはギターの田原健一が考案したものである。そしてライブではイントロで必ずと言っていいほど銀テープが発射されるのだが、個人的にこのメロディーを聴きながら一面に煌めく銀テープを眺めている瞬間は人生において最も美しい瞬間のひとつだと言っていい。時に長すぎるシンガロングを求められ「本人に歌って欲しい…」と思うこともあるのだが、彼らがこの曲を歌う観客の声を聴きながら「現在地」を確認しているのだと思えばそれも悪くない。銀テープが着地し終わった後Aメロで始まる手拍子はBメロに入ると高まる期待感と共に速さを増し、サビに入った瞬間それがついに爆発したかのように観客は皆両手を高く上げ全力で振り全身で幸福感を浴びる。仮に5万人の観客がこの1曲で一人200回手拍子をするとすれば、彼らはたった1曲で1000万回の手拍子を浴びていることになる。なんともおめでたすぎる話である。彼らがここに至るまでにこれだけ多くの人々がついてきてくれたことを観客も一緒になって祝福しているような、そんな純粋で絶大な幸福感を感じる瞬間である。まさに、ここがわたしのアナザースカイ、ここがあなたのイノセントワールドといったところである。24歳の時に作ったこの曲を、30歳40歳50歳と時を重ねながらライブで演奏し続けることで、あの頃と今の距離を測り今という現在地を自分たち自身で肯定することでまた前へ進むエネルギーへと変換しているような、そんな感覚を覚えるのである。
 

MVでは漆黒の背景に喪服のような黒い服を着た桜井和寿が一人ギターを持ち淡々と伏し目がちに歌い《窓に反射する 哀れな自分が 愛しくもある この頃では》というフレーズに差し掛かった瞬間突然顔をあげ視線を向ける。それはまるで自分の内面と対峙しているかのような瞬間を思わせる。そしてまた伏し目がちになったかと思えば《どこまでも歩き続けて行くよ》で一人の桜井和寿がフェードアウトしていき、もう一人の桜井和寿が現れる。ここで何かが分離していくような様を感じさせる。そして1番Bメロラストの《mr.myself》でまた顔をあげ自分自身をどこか深い眼差しで疑い探るように見つめる。《いつの日も この胸に流れてる メロディー 軽やかに 緩やかに 心を伝うよ》というサビのフレーズでは鳥が自由に大空を羽ばたく様子と、エレベーターが一気にあがっていく様子が同時に映し出される。そしてそこに、窓から外を見つめる白い服を着た桜井和寿が重なる。黒と白という服装のコントラストがまさに内と外を思わせる。そして自由な鳥が「内なる自分」を表していてそれと自分の間に隔たりがあるということは、ここで彼は「人々が求める自分」を確立することを決めたのではないだろうか。ここでの《いつの日も この胸に流れてる メロディー》というのは「内なる自分」からにじみ出てくる、世間の評価に依存しない純粋無垢なメロディーなのだと思わされる。《陽のあたる坂道を昇る その前に また何処かで 会えるといいな イノセントワールド》というフレーズに差し掛かる頃には羽ばたく鳥は消え、エレベーターと桜井和寿だけが取り残される。ずっとこの「のぼる」は「登る」でも「上る」でもなくなぜ「昇る」なのかと考えていたが《陽のあたる坂道を昇る》というのは「昇天」という意味合いの「昇る」であり、「死ぬまでにもう一度純粋無垢な自分自身と再会できたらいいな」という願いが込められているのではないかと思った。そしてもうひとつ、「スターダムへと駆け上がる」というダブルミーニングもあるのではないかと思った。エレベーターは別名「昇降機」とも言う。「昇る」という漢字は「勢いよくのぼる」という意味合いがあるらしい。エレベーターに乗ったかのように階層すら飛ばしてトップまでのぼり詰めるその時まで「内なる自分を見失わずにいたい」という願いが込められているのではないか。そしてサビ終わりにはエレベーターが上昇する映像にバンドメンバーが重なり、Mr.Childrenというバンドとしてトップを目指していくという決意と覚悟のようなものを読み取ることができる。
 

電車という「日常」を象徴するものが全てをさらっていき曲は2番へと入る。《近頃じゃ夕食の 話題でさえ仕事に 汚染されていて 様々な角度から 物事を見ていたら 自分を見失ってた》というライティングからは、「音楽」という純粋に自分が大好きだったものが今や「仕事」へと名前を変え、それにより日常すら蝕まれてしまっているという苦痛が伺える。そしてまた《自分を見失ってた》と歌いながらちらりとどこか哀れみのような視線を向ける。《入り組んでる 関係の中で いつも帳尻 合わせるけど Ah 君は君のままに 静かな暮らしの中で 時には風に身を任せるのも いいじゃない oh miss yourself》ここで言う「miss」は女性に対する敬称でもあるが、「恋しい」という意味の英単語でもある。「yourself」というのはどこかの女性でもあり、「内なる自分」でもあるのかもしれない。とある女性に対する恋しさと、「内なる自分」への恋しさが交差している表現のように思える。そしてこの「yourself」では一切顔をあげないというのがまたその表現なのではないだろうか。《物憂げな 6月の雨に 打たれて 愛に満ちた 季節を想って 歌うよ》というサビでは大雨の中を1本の傘が開いたまま飛んでいく。そしてフードを被り目を隠した桜井和寿が大雨に打たれながら歌っている。ここで言う《物憂げな 6月の雨》というのは、自分に浴びせられる世間の有象無象の声のメタファーなのではないだろうか。しかしそこで傘を手放し、ただ土砂降りの雨に打たれながら歌っているということは「世間の期待に応え続けるようなことはしない」という意思表示なのではないだろうか。ある時彼はインタビューの中で「半分は期待に応えて、半分は期待を裏切る」と発言していた。その発言が具現化されているのが、このシーンなのではないだろうか。有象無象の他人の声は何もしなくても受動的に入ってくるものである。そこで自分を見失わないために耳を傾けるべきは、あくまで「内なる自分」の声なのだと思わされる。6月の雨は憂鬱なものだが、それさえ抜ければ清々しい夏がやってくる。雨を受け止めながらもただ己と向き合い歌い続けていれば、内なる自分と再会できる《愛に満ちた 季節》は必ずやってくるという希望が見える気がする。《知らぬ間に忘れてた 笑顔など見せて 虹の彼方へ放つのさ 揺れる想いを》というライティングからは、二人の自分の人生を生きるという覚悟を決めることで何かが吹っ切れ笑うことを思い出したような様子が伺える。
 

そしてCメロに入り《変わり続ける 街の片隅で 夢の破片が 生まれてくる Oh 今にも》と歌う桜井和寿は今まで目を伏せていたのが嘘のように真っ直ぐこちらを見ている。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、その目からは確実に「覚悟」がにじみ出ている。そしてまた目を伏せたかと思えば《そして僕はこのままで 微かな光を胸に 明日も進んで行くつもりだよ いいだろう?》というフレーズの間にもう一人の桜井和寿が現れ、最後の《mr.myself》でまた顔をあげ、その目からは迷いや悩みが吹っ切れた様子が伺える。ラストのサビは二人の桜井和寿が交互に現れ《いつの日も この胸に流れてる メロディー 切なくて 優しくて 心が痛いよ 陽のあたる坂道を昇る その前に また何処かで会えるといいな》と声を合わせ歌っているかのように思える。《痛いよ》と歌う瞬間に底から救いを求めるような目で見つめる桜井和寿が浮かび上がってくる様子はその表現に恐怖すら覚えてしまう。きっと彼は全てを受け入れ、二人の自分を確立することに成功したのだろう。そしてここで差し込まれる《その時は笑って》という言葉。きっと、彼はただ最後に笑っていたいのだ。笑えるということは「人々が求める自分」も「内なる自分」もその両方が同じだけ幸せということで、それは「音楽で生きていくという幸せ」と「一人の人間としての幸せ」が両立されたという証明なのだと思う。最後に彼の口から音もなくつぶやかれる何かに、この先続く道で何が起ころうとも、最終的に笑っていてくれよという己に対する静かな祈りの様なものを感じる。そのような覚悟と決意を秘めた曲が、この「innocent world」なのだと思う。8cmシングルの表には、フードで目を隠しながら顔に傷を負い返り血のようなものを浴びて絶叫する桜井和寿がいるが、裏を返せばフードで目を隠し傷のない綺麗な顔でどこか不敵な笑みを浮かべている桜井和寿がいる。表と裏、外と内、きっとそういうことだろう。
 

2020年にリリースされた「Laughter」は2018年にメジャーデビューしたOfficial髭男dismの4枚目のEPである。サブスクや動画サイトが音楽業界の中心となった今、何枚目のシングルや何枚目のアルバムなどという至極単純な数え方ができず、デジタルシングルだのEPだの配信限定アルバムだの配信限定EPだのと形態が多岐にわたりすぎていて何が何やらリリース順を追いにくくなってしまったことは個人的になんとなく悲しい。しかし、シングル曲やアルバム曲というその曲に着せられた謎の服が取っ払われフラットな状態で音楽を鑑賞できるという意味では歓迎すべきことなのかもしれない。
 

メジャーデビュー曲「ノーダウト」が既にドラマのタイアップ曲という時点で彼らの未来は既に約束されていたようなものなのかもしれない。そして次にリリースしたEPに収録されている3曲も全て何らかのタイアップ曲である。そしてその次にリリースしたシングル「Pretender」はストリーミングでの再生数が2億回を超え、恋愛というものから遠ざかってしまった薄汚れた大人たちは二度と戻らないあの気持ちに想いを馳せ、リアルタイムで恋愛をしている若者たちはこの曲の金属ゴミを回収する巨大電磁石の様な強烈な引力に引き寄せられ自らの意思をもってしても二度と離れることができず、恋愛の「れ」の字も運命の「う」の字もわからない保育園児ですらしきりに「ひげだんのぐっばいがききたい」とせがんでくるくらいには国民的グッドミュージックの立ち位置を確実に獲得した名曲である。音楽以外にいくらでも娯楽が転がっているこの時代であっても、「グッドメロディ」と「グッドワード」が出会い「グッドミュージック」になれば「ええもんはええ」という打算も思惑もない至極シンプルなモチベーションで多くの人々に響くもんは響くのであるというまごうことなき事実と希望が転がっていることを教えてくれた。
 

そうして「再生回数」という現実的な手応えを手にした彼らはその後も「ヒゲダン強制タイアップ特別措置法」でも知らぬ間に施行されたのだろうかという勢いでタイアップ曲を連発しグッドミュージックを生み出し続けた。出せば再生される、出せばチャートにランクインし続ける、国民の全世代から「いい人」のラベルを貼られ続ける。そろそろ自分たちに貼られたラベルの重みに耐えられなくなったのだろう。羽根に何かを貼られ、がんじがらめにされたまま飛べる鳥がいるだろうか。それを自分の手で剥がし取り、自分と別のものとして確立させなければならない。どうやら彼らは「人々が求める自分」と「内なる自分」の人生を同時に背負うことを決め、「最後に一度だけ振り返る」局面に到達したらしい。
 

「Laughter」とは「笑い声」という意味である。ボーカル藤原聡は、「内なる自分」を「ラフター」という鳥になぞらえた。この曲は、Official髭男dismが故郷山陰から上京する前の心境が入り口となり、そこからスターダムへと歩みを進める様子をひとつひとつ描き、最終的に「自分自身と戦い続け、心の底から笑える人生を生きていく」覚悟を決める、そんな曲である。
 

イントロから、同じ歩幅で一歩ずつ確実に歩みを進めるような一定のテンポで曲は進んでいく。《鏡の中を覗いても 羽根ひとつも見つからないけど》というのは、自分が音楽という世界で上手く羽ばたいていけるかどうか何の確証もないといったところだろうか。しかしそこで彼は《空を待ち焦がれた 鳥の急かすような囀り》を無視することができなかった。人間が人生の上で本当に重大な決断をする時、きっと理由や確証や保証など必要ない。ただ、内なる自分である「ラフター」という名の鳥の声にどうしても逆らえなかった、それだけの話なのだろう。《鉄格子みたいな街を抜け出す事に決めたよ 今》というフレーズを聴きあの土地を《鉄格子みたいな街》を表現することには同じ土地で同じ年に生まれた自称・同級生として深く共感を覚えた。これは決してネガティブキャンペーンなどではない。ただ、あの街には陽があたらない。物理的な意味でも、そうでない意味でも。「ここにいてもこの先きっと何もないのだろう」という薄いグレーの絶望という名の雲が本当にずっと空を覆っている。これが「山陰」と呼ばれる所以である。陽があたれば必ず陰ができる。その陰の役割を担っているのが「山陰」なのだ。彼らはそこに《失うもの》や《諦めるもの》という輝けるもの、そして《悔やむ権利》さえ捨て去っていったらしい。結果的に、彼らが捨て去っていった輝けるものは、彼ら自身が輝くことで今その土地に生きる人たちにしっかりと受け取られているのでどうか安心してほしい。《翼は動きますか?本当に飛べますか?》という問いに答えることもせずただ前だけを見て飛び続けたラフターは、いつしか迷いに衝突する。《本当の正しさ》とは何か。《行くべき道》とは何か。《自分にとっての正しさ》とは何か。迷えるラフターは《人格者》や《成功者》などという他人から授けられる称号ではなく《いつでも今を誇れる人で在りたい》という自分自身から自分自身へ向けた願いへと到達する。他人からの評価ももちろん重要で、決してそれをないがしろにすることはできない。ただ、そこだけに依存するのではなく、自分自身で自分自身を誇れること、そのバランスこそが重要なのだということに気づいたのではないだろうか。《現実は見えますか? 保証は出来ますか?》という問いに《YesもNoも言えずに答えに詰まっていた過去》をラフターはついに背に乗せた。自分たちがヒット曲を生み出す度に予想は徐々に覆っていき、「再生回数」という現実的な手応えを手にしたのである。結果的に、あの《囀り》こそが陽のあたらないあの街と彼らに射した唯一の《光》となった。
 

《前例のない大雨に 傘も意味も為さない》というライティングからは、偶然だろうか、先述したアーティストのMVで1本の傘が吹き飛んで行ったあの様子を想起させられる。きっとあの曲が国民的グッドミュージックの座にのぼり詰め、紅白歌合戦にまで出場したことにより、彼らの予想を遥か超える雨という名の人々の評価が降り注いだのだろう。そんな時彼らも傘を持ち雨を避けることはしなかった。評価に100%迎合することなどなく、ただ《海鳴りよりも強く 稲妻よりも速く 羽ばたいて前途を目指して》いくことを決めたのだ。何の打算もなく心の底から笑うということは、人間にとって純粋無垢な究極の幸せである。《自分自身に勝利を告げるための歌》を歌い続け、先の見えない未来でも「Laughter」という笑い声をあげていてくれよと「ラフター」は自分自身へ願ったのではないだろうか。ラジオの中でベースの楢崎誠は『いやー、この曲はマジずっとやるだろうな』と言った。それこそが、この曲がOfficial髭男dismにとっての「旗」となるということではないだろうか。きっとこの曲を30歳、40歳、50歳と「髭の似合う年になるまで」演奏し続けることで彼らはその都度「覚悟」と「現在地」を確認していくのではないだろうか。そしてそんな未来予想図がもう絵空事ではないことに気づいた時、彼らが想像以上に大きな存在として膨らみ続けていることに気づき震えた。そしてそれを、目的は全く違うが《鉄格子みたいな街》を抜け出した同士である彼と同じ数の年齢を重ねながら見続けられるという偶然にも。
 

与えられた才能に日々思考と鍛錬を重ね、途方もなく広い範囲から降り注ぐ雨にもがき苦しみ悩みながら「音楽で生きていく」ことを決めたアーティスト。大した才能もなく誰に褒められるでも何の目的がある訳でもないがたまに降る雨にもがき苦しみ悩みつつ「平凡に生きていく」と決めた我々一般人。きっと根底は同じである。外から降り注ぐ雨にどれだけ濡れる日があろうとも、陽のあたる場所で心の底から笑える「内なる自分」を持ち続けたい。そんな「人間としての絶対的な共通項」を芯にして生み出される彼らの音楽に、また人々は無意識に惹かれてしまう。その目に見えない、形のない引力が「ポストミスチル」という7文字に言語化された。ただ「人間としての絶対的な共通項」を含んだ音楽に触れ、本能的に感じたことを言語化したものがたまたま「ポストミスチル」という言葉だった。きっとそこに理屈や理論などない。それは人間による批判や反論など到底及ぶことのない、純粋無垢な世界の話なのではないだろうか。
 

音楽がなくても人間は生命を維持できる、しかし音楽のない日々を「生きている」と胸を張って言えるだろうか。そうも言えないアーティストと私達は、例えどれだけ遠い存在であっても、きっと心の中で同じものを大切に抱きかかえている。
 
 

時が流れる限り、彼らの音楽が鳴り止む日は必ずやって来る。
 
 

来た道を振り返り、遥か遠くに見える「innocent world」と「Laughter」という名の旗を目にした《その時》彼らが心の底から笑っていられたら。
 
 

きっと、それでいい。
 
 

※《》内の歌詞はMr.Children「innocent world」、Official髭男dism「Laughter」より引用

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