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「誰かを送る歌」と「誰かを迎えにいく歌」

BUMP OF CHICKENと槇原敬之が懸命に踏んだペダル

BUMP OF CHICKENの「車輪の唄」、その主人公と相手が、どのような「その後」を過ごしたのか、ずっと気にかかっている。「車輪の唄」は、どこか別の場所で生きることを決めた人を駅まで送り届けるべく、ある若者が駅まで(恐らく)自転車を、懸命に走らせるという歌だ(そう僕は解釈している)。

<<ペダルを漕ぐ僕の背中>>
<<寄りかかる君から伝わるもの>>

その「旅立とうとする人」が、主人公のガールフレンドなのか、幼なじみなのか、そもそも女性なのか、そのあたりはハッキリとは語られない。ただ、その関係性が非常に深く、ふたりが別れの瞬間を恐れていることは読みとれる。

そのことは

<<僕は泣いてたから>>
<<声が震えてたから>>

といった、直接的な描写によっても伝わってくるのだけど、「主語」の選び方によっても巧みに示させているように思うのだ。そのあたりが作詞者の凄みだと感じる。主人公たちの逡巡、自ら決めたことだとはいえ引き返せないのかというような嘆き、あるいは運命的なものに抗えないという無力感、そういったものが以下のセンテンスで表されているのではないか。

<<僕等の体を運んでいく>>
この部分は「僕が自転車を漕ぐ」とも言い換えられるような気がする。

<<頑なに引っ掛かる 鞄の紐を 僕の手が外した>>
こちらは「僕は手で外した」と言い換えることができるのではないか。

ひとつめのセンテンスの主語は<<錆び付いた車輪>>であり、ふたつめのセンテンスのそれは<<僕の手>>である。

彼らが乗っているのが仮に自転車だとしたら、ふたつの<<車輪>>は、ことによると「僕たち」の暗喩なのではないか。すでに<<錆び付い>>てしまった情に押し出されるように自転車を走らせ、それでも未練を断ち切れない「当人」に代わって(まるで意思に逆らうかのように)その手が最後の<<紐>>を外してしまった。そういう悲しい歌に思えてならない。

<<いつの日かまた会おう>>

その<<約束>>が果たされたのか、二人は望ましい形での再会を果たせたのか、この曲を聴いてから長い間、僕は案じつづけている。

***

「車輪の唄」と同じように、大事な人のために乗りものを走らせる歌として、槇原敬之さんの楽曲「君の自転車」が挙げられると思う。

<<君の自転車に乗って>>
<<君に会いに行こう>>

主人公が前夜、ケンカをしたという相手(恐らくは恋人なのだろう)が、かなり小柄な人であることが、本曲では歌われる。だから歌い手にとって<<君の自転車>>は、そのまま乗るには小さすぎる乗り物なのだ。それでも彼は<<サドルもこのままで>>、走り出す決意をする。

彼は何ゆえに、自分が運転しやすいような位置に、<<サドル>>の位置を変えはしなかったのだろうか。パートナーの持ちものを、軽はずみにいじりたくはないと思ったのだろうか。それもあるかもしれない。ただ、それ以上の意味が、小さな<<自転車>>に乗ったからこそ彼にもたらされたことが、歌のなかで明かされる。

<<ワゴン車が追い越してった時 びっくりしてよろけた>>
<<小さい君思い出して すごく心配になった>>

親しいふたりが、いつも「同じ目線」を持っていられるとは限らないものだと常々、僕は考えていた。その「目線」とは「価値観」や「生活感覚」などを意味する。それでも槇原敬之さんの楽曲「君の自転車」を聴くことで、僕たちは時に「物理的な意味での目線」を、愛しい人に合わせてみるべきなのだと思わされた。主人公が迎えにいこうとする誰かは、小柄だという意味で可憐である。そして迎えにいく彼自身は、その立場を思いやるという意味で健気である。

BUMP OF CHICKENの「車輪の唄」に溢れる、もう二度と会えないかもしれないというような哀惜は、槇原敬之さんの「君の自転車」には含まれていない(少なくとも僕は「君の自転車」を軽快な曲だと感じている)。
それでも、誰かへの思いやりが溢れているという意味では、この2曲は似通っているのではないか。そして歌詞が、直接的で具体的でありながら、同時に細やかな、比喩的なものであるというところも、あるいは似ているのではないだろうか。BUMP OF CHICKENが比喩的に「未練」を表したように、槇原敬之さんは「気付けないでいた相手の世界観」を、暗示するようなフレーズを紡ぎ出した。

<<お互いの家までの距離も>>
<<君にとっては危険がいっぱいの>>

僕は「君の自転車」という楽曲の「その後」も心配している。主人公は事故に遭わず、愛しい人のもとへ辿りつけたのだろうか。そして謝罪を受け入れてもらい、仲直りをして、新しい日々を過ごしはじめることができたのか。

こういう僕の想像は「車輪の唄」や「君の自転車」だけにかきたてられるわけではない。優れた楽曲の多くは「すべて」を描き切りはしないものだと、個人的に考えている。聴き手の想像力、解釈、そういったものを尊重する、余白を残した作品が好きだ。
(完結しているように思える作品にだって、リスナーが心のなかで「後日談」のようなものを付けようと思えば付けられるのではないか、それを赦してくれるアーティストこそが寛容性を備えているのではないか、そう考えている)

***

僕は大学を出たあとも首都圏にとどまることを選んだ者として、かつて何人かの学友の「帰郷」、あるいは「旅立ち」を見届けた。

「これでサヨナラなんだ、「永遠の」とは決めつけたくないんだけど、もう僕たちは会うことがないのかもしれないんだ」

そんなことを思いながら、首都圏で過ごした日々を伴に懐かしみながら、ささやかで個人的な送別会を、いくつか催した(それらは「ささやかで個人的」だったからこそ、とても温かで、そして切ない時間となった)。

そういう催しが終わったあと「車輪の唄」の主人公のように、ペダルを踏んで駅まで送り届けた経験はない。それでも

<<響くベルが最後を告げる 君だけのドアが開く>>
<<精一杯電車と並ぶけれど ゆっくり離されてく>>

それと似たような「別れ」の経験は持つ。それはまさに<<君だけのドア>>であり(彼ら彼女らを「生きると決めた場所」へと踏み出させるドアであり)、同時に「僕だけのドア」でもあった(彼ら彼女らと別れたあとの人生、そこへ否応なく踏み出させるドアでもあった)。

いつか僕たちに、また会える機会があるのだとしたら、僕は自転車に乗ることはないかもしれないけど、あらゆる迷いを断ち切って、その人を迎えに行くことになるかと思う。槇原敬之さんの楽曲「君の自転車」、その主人公のように、状況は随分と違うわけだけど

<<君にすぐに会いに行こう>>。

そういう思いをもって。
青春期に持っていたような、一途な思いを抱えて。

それは僕という人間の青春、その「後日談」のようなものになるかもしれない。あるいは蛇足になってしまうかもしれない。それでも僕には今なら、彼ら彼女らが(当時)かかえていた悩みや鬱憤を、少しくらいは理解できるような気がするのだ。僕だって、あれから(青春を終えてから)色々な立場に身を置き、その人、その人の気苦労といったものを、懸命に推し量ろうとはしてきた。同じことを、どこか遠い場所で、彼ら彼女らもしていてくれたのかもしれない。

<<はじめて分かったよ>>
<<膝を少し曲げた世界で>>

僕たちは小さい、色々な意味で。それぞれの背丈に関係なく、ちっぽけな存在だ。だからこそ互いの「小ささ」を思い、何らかの形で包み込むくらいの気概を、いつの日も失わずにいたいものだ。

※<<>>内はBUMP OF CHICKEN「車輪の唄」、槇原敬之「君の自転車」の歌詞より引用

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