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梅雨が明けても、「今日も雨」だと倉橋ヨエコは歌ってくれる

いつも人より「普通にできる」とある人間の話

自分の人生のテーマソングを1曲挙げるとしたら、世間の人々はどんな歌を挙げるのだろう。
自分の人生と切っても切り離せない歌、自分の人生を、まるごと表したような歌。
それを考える機会を与えられた時、私は必ず決まって倉橋ヨエコの「今日も雨」だと答える。
この歌は、いつだってどんな時だって、独りでどん底にいた私を救ってくれた歌だったから。
 

『知らない方がましだった事は沢山あるけれど
読み掛けては印を付けて 閉ざした本に寝そべります
真実は明日も私をきっと泣かせるだろう
―今日も雨/倉橋ヨエコ より』

少し前から薄っすらと気づいてはいたけれど、私は大抵のことは人より「普通にできてしまう」人間だった。
この言葉だけだと、こいつまぁまぁ傲慢な奴だな、と思う人もいるだろう。申し訳ないけれど、もう少しだけ私の話を聞いて欲しい。

運動だけは昔から苦手だったけれど、それ以外のことなら基本的になんでも「普通にできた」。
学生の頃は勉強も普通に出来たし、普通に大学に進学して、普通に一般企業に就職した。趣味で続けている楽器も文章を書くことも、人より「普通にできる」からこそ、自分が楽しめる趣味としてかれこれ20年近く続いている。

まどろっこしいことが基本的に嫌いなので、仕事も一度コツを掴めばそこそこ要領よくこなす事もできた。人と関わることも苦手じゃないし、むしろコミュニケーションを取る事はどちらかと言えば好きな方だ。楽しいことをしたいと思っても誰も手を挙げないなら、私が言い出しっぺになればいいじゃん!と自分から手を挙げるタイプ。
そういう考え方を持っていて実際に普段から言動に表しているからこそ、周囲にもきっと人より「普通にできる」人なんだろうな、と思われている事もどうやら多いようだった。
分かりやすく言えば、ランクはずっと中の上。天才ではなく秀才。きっとそんな感じ。
 

けれど、「普通にできる」人はいつだって、「一番できる」人には敵わない。

元々何かの世界で「一番できる」人になる気は到底なかった。世間は広い。自分より上の人間なんて履いて捨てるほどいる。もれなくみんな、ぬるま湯に浸かっているような自分より血を吐くような努力を積み重ねてきた人たちばかりだ。

それでも、特に好きなことに対しては、私は私なりに向かい合って続けてきたつもりだった。思うようにいかなくても、誰も私を褒めてくれなくなっても、私はいつだって人より「普通にできる」人間だったから。
いつか誰かが気づいてくれる。いつかきっと誰かが褒めてくれる。憧れの人にも私の存在を知ってもらえる。いつだって自分を満足させられるのは自分だけ。自分が一番最高じゃん!
そう己を奮い立たせながら、どうにかこうにか食らいつき続けてきた。
 

けれど、物事の結果となるのはいつだって誰かと誰かの相対評価だ。
少なくとも人より「普通にできる」私は、なんだかんだいつだってこの相対評価の中で生きてきたのだから。

当たり前のように、「普通にできる」私は、「一番できる」人の前ではどれだけ自分史上最高だと思えるものができても、あっという間に霞んでしまう。
つい最近とある出来事の中で、自分の存在を認めて欲しかった人が認めたのは、「普通にできる」私ではなく「一番できる」人の事だった。
なまじっか「普通にできる」から、いくら順位が付かない世界の話とは言え、素直に実力の違いを認めることぐらいはさすがにできる。一応これでもちゃんとした大人だし。
その人より私の方が劣っている事は、悔しいことに私の目から見ても確かに一目瞭然だった。

自分の存在を認めて欲しい人に認めてもらえないと知った時、私の心はぽっきりと音を立てて真っ二つに折れた。
自分という存在が、己が思っていた以上に承認欲求の権化のような人間だったという事も、この時私は初めて知った。

余談だが、同時に自己表現の欲求と他者承認の欲求は必ずしも比例しない、という事も、この経験で私が気づいたことだ。
これに関しては唯一、この経験で知ることができてよかった事だと思う。
 

とはいえ、私も伊達にこれまで30年近く人間を生きてきたわけではない。
これまでもこんな風に、自分の好きなことで心が折れた事は1度や2度ならずともあった。
人はストレスを感じた時に、無意識のうちに心に防衛機制というメカニズムが働く。ダメージを抑え込む抑制、思っている事と反対の行動をとる反動形成、現時点の発達の前段階に戻る退行、などがそれに当たる。
私の場合は何かに心が折れた時、別のものに意識を向けてそのストレスを紛らわすことが多かった。先ほどの防衛機制で言うと、いわゆる逃避や代償に当たる行為だろう。

自分の楽器の腕が認められないなら、他の人より音楽を知っている人になろう。
自分の音楽の知識が認められないなら、他の人よりDJができる人になろう。
自分のDJの腕が認められないなら、他の人より文章が書けるようになろう。
自分の文章の腕が認められないなら、他の人より漫画を知っている人になろう。
自分の漫画の知識が認められないなら、他の人より楽器ができる人になろう。

そんな風に、たくさん自分の趣味や好きなことを見つけたり増やしてきたりした。
自分が人より「普通にできる」ことが増えるたび、確かに私の人生は楽しくなった。おかげでこのステイホーム期間だって、正直そこまで苦労することなく引きこもり生活をエンジョイしながら乗り越えられている。
私はいつだって、そうやって自分の機嫌は自分で取ってきた。だってそうでもしないと、誰も自分の機嫌なんて取ってくれなかったから。
 

けれど今回の挫折経験は珍しくハードで、私のショックはいつものような代償行為・逃避行為で簡単に拭えるようなものではなかった。
その証拠に私は気づいてしまったのだ。
辛くなったり嫌なことがあれば、我慢も耐えることもせず、私は新しいことに夢中になる。
私に好きなものがたくさんあるからこそ、私に逃げ場がたくさんあるからこそ。
私はいつまでたっても人より「普通にできる」人間でしかないのだ、という事に。
 

ここまで話を読んでくれたあなたは、こんな私の事を見てどう思うだろう。
それでもいいじゃん。だって人より「普通にできる」んでしょう?
人より「普通にできる」のが嫌なら、血を吐くような努力をして「一番できる」ようになればいいのに。
そんなところだろうか、全部全部ごもっともな意見だ。私だって人より「普通にできる」以上馬鹿ではない。そんなことは100も1000も承知で今「普通にできる」人間をやっている。

でも私は「一番できる」人になりたいんじゃない、自分の好きな人に認めてもらいたいんだよ。
「一番できる人」だから認めてもらえるんじゃない、認めてもらえるから「一番できる人」なのだ。
私たちは、少なくとも私はみんな誰かと誰かの相対評価の中で生きている。
こんな世界の中で生きている限り、その理がひっくり返ることは未来永劫ない。

『真実は明日も私をきっとしょげさせるだろう
―今日も雨/倉橋ヨエコ より』
 

人より「普通にできる」私は、人より「普通にできる」からこそ、誰かに認めてもらえたり、褒めてもらえたり、気にかけてもらえる事は少なかったように思う。
頭から7できる人間が10できるようになったことより、1しかできなかった人間が10できるようになった方が大ニュースだ。むしろ7もできる人間は放っておいても10できる。
誰だって、きっと私だってそう思う。なので私は人に気にかけてもらう人間ではなく、人を気にかける人間になるしかなかった。
大元を辿れば、そうやって褒めてほしかったからこそ、私は人より「普通にできる」ような人間になった気もする。のだけれど、今となっては本当にそうだったのかも、もうわからない。

いろんな要素が複合的に合わさった結果、こうして人より「普通にできる」承認欲求の化物みたいな人間ができてしまった。
タチの悪いことに、そんな化物じみた性質は自分に対する承認の意識にとても敏感だ。
誰かを誘うことが大好きだけど、誰にも誘われない。せめて誘われない悲しい思いを誰かにさせることがないよう、気づけばさらに誰かを誘う側に回っている。
あと、複数人で行動している時に、気づけば悪意なく置いて行かれる人間っているじゃないですか?私、あれです。あのタイプの人間です。
置いて行っている人間に全く悪意はないのだ、私自身が全て「普通にできる」人だから。置いて行っても追いついて来るから問題はないし、私がいなくても成り立つ空間造りも「普通にできて」しまっているのだから。
 

いつだって私は、自分が一番認めて欲しい人には認めてもらえない、と思っている。
自分を認めてくれている人もきっといるのだ。けれど本当に申し訳ないことに、私は彼らの存在に気付くことができない。
なぜなら人間が賄える120度の視界を、私は彼らのいる方に向けていないから。
我ながら本当に勝手な生き物だな。書いている文章を推敲しながら読んでいる今、そんな自分に反吐が出そうになっている。
 

『でも飛び出していこう 待ってる人はいないけど
泣き止んでみても 外はもっと雨
―今日も雨/倉橋ヨエコ より』

有り体に言えば、倉橋ヨエコの「今日も雨」はそんな私の人生を歌っているような曲だった。
近くで私のことずっと見てました?なんて思ってしまうくらい。それこそ普段「普通にできる」私のそんな薄暗い側面なんて、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
あるいは、倉橋ヨエコももしかしたらそっち側の人間だったのかな、と要らぬ邪推をしてしまう。そんなことを思ってしまうほどに、どこまでもこの曲は私の人生のテーマソングだった。

だからこそ、私はこの歌にいつだってどん底から救ってもらっている。
「普通にできる」私のことなんて、誰にも認識されていないと思っていたから。
私を認めて欲しいという承認欲求も、そんな自分勝手な承認欲求を抱えている薄暗い自分も。
全部全部、それでもいい、と言われているような気がしたから。
 

ここまで書いておきながら、この話にポジティブで前向きな結論は一切ない。
「普通にできる」人間ではなく、努力して「一番できる」人間になりましょうね、とか。
相対評価を気にしているとこうやってしんどい思いをするから、周りの評価は気にせず生きていきましょうね、とか。
自分は人から認められているという肯定感を他人にも与えてあげる為、お互いにいろんな人を褒めてあげましょうね、とか。
あなたの周りに集団行動をした際、いつの間にか置いて行かれている人はいませんか?そんな人たちに気付いてあげられるよう、気配りを忘れずにしましょうね、とか。
そんな発信をするつもりは一切ない。だってそんなの全部無駄だもん。
それでたくさんの人が救われるのなら、私みたいな人間がきっとこんな風に生まれたりしない。

「普通にできる」人はこれからもきっとずっと「普通にできる」し、そのせいで人から認められないことも、そのせいで傷つくことも、当たり前のようにこれからもずっとあるし。
何かを意識して変えられる話ではないのだ。だって「普通にできる」私たちも、そんな私を取り巻く人たちも、須らく無意識の元でこの現象はすべて起きているのだから。
 

それでも、私が書いたこの文章が同じように、「普通にできる」自分に苦しんでいる人や、気づけばいつも置いて行かれているような人の、多少の慰めになればいいな、とは思う。
同じように苦しんでいる人間がここにもいるんですよ、なんてね。
ただしきっと、そんな人に私のこの文章は届かないだろう。
だって彼らが本当に認めて欲しい人は、顔も本名も知らない私ではないのだから。

けれどそんな人でももしかしたら私と同じように、倉橋ヨエコの「今日も雨」でなら、認められないことで苦しむ心が少しでも救われるかもしれない。
そんなことを思いながら、私はこの文章を最後まで書き切ろうと思っている。
 

『ほら追い掛けて行こう どんなに返事がなくたって
追い掛けて行こう 今日も雨
でも飛び出していこう 待ってる人はいないけど
泣き止んでみたら 外はもっと雨
そんなもんだろう
―今日も雨/倉橋ヨエコ』

私はきっとこれからも「普通にできる」人として、ずっと自分の好きな人に認めてもらいたい、と思いながら、あと数十年ある人生を今後も生きていく。
何度も何度も認められずに、何度も何度も自分のいろんな「普通にできる」ことを跨いだり、時には新しく増やしながら、承認欲求が永遠に満たされることなく、死ぬまで「普通にできる」人間のままなのだろう。

そうやって生きていきながら、きっと私は何度でも、倉橋ヨエコの「今日も雨」に救われる。
どん底に落ち込むたびに、この歌だけは私の事をわかってくれている、なんて、甚だしい勘違いを抱えながら。
私の抱える苦しみも、「今日も雨」が歌う苦しみも。
当事者以外に完全に分かり合える人間などいない事を、ちゃんと知っているというのに。
 

私は特に、この歌の最後の一節が好きだ。
私がどれだけ「普通にできる」自分に苦しんでも、「普通にできる」から褒めてもらえなくても。
私が「普通にできる」人間である限り、私の人生はそんなもんなのだ、と。
この歌の歌詞は、いつもそうやって教えてくれるのだから。

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