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米津玄師の音楽に宿るかけがえのない美しさ

『STRAY SHEEP』について—様々な色彩と輝きを映し出す音楽

 米津玄師のニューアルバム『STRAY SHEEP』を聴いた。アルバムの始まりを告げる『カムパネルラ』。聴いた瞬間から、この曲が頭から離れない。私はアルバムを手に取ってから、ずっとこの曲について、このアルバムについて、考え続けている。時間が経てば経つほど、聴いた瞬間に自分が感じたことや考えたこと、言葉にならない大事なこと、受け取ったインスピレーションが記憶からどんどん溢れ落ちていく。だから、忘れないうちに、この気持ちを、思考を、ちゃんと言葉にしておきたいと思った。

 『カムパネルラ』のイントロは、すごくシニカルな感じがする。言葉ではなく音で、シニカルな感じを醸し出しているのが印象的だ。曲の中で、「カムパネルラ」の名が呼ばれる度に感じるのは、カムパネルラの不在性と空虚感だ。

《カムパネルラ 夢を見ていた
君のあとに 咲いたリンドウの花
この街は 変わり続ける
計らずも 君を残して》

カムパネルラはもうここにはいないし、戻ってはこない。この曲には、誰かが死んでしまっても、自分は生きていて、自分の人生はこの先も続いていくことへの皮肉が込められているような気がする。直接的な言葉ではなく、言葉では表現しきれないものを、音で表現しているように感じられた。米津さんがインタビューで言っていたように、『カムパネルラ』が宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」のザネリの視点から書かれているという前提に立つと、歌詞に出てくる《君がつけた傷》とは、カムパネルラの死のことだと捉えることができる。 

《光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル 
君がつけた傷も 輝きのその一つ》

ザネリの生は、カムパネルラの死の痕跡である。この曲は、ザネリとカムパネルラの関係性を通して、失われたものや誰かの犠牲によって自分は生きながらえることができているのだ、という目を背けたくなるような事実と、ある種の罪悪感を、聴く者に呼び覚ます。それは、私たちが、日々を何とか心穏やかに生きていくために、普段は見ないように蓋をしているものだ。だが、この曲を聴くと、その事実と向き合わざるを得なくなる。だからこそ、聴く人は心を揺さぶられ、胸が締めつけられ、苦しくなるのだ。誰かの、そして自分の、痛みを伴う傷が輝きとなるのは、ある意味とても悲しくて皮肉なことだ。でも、その傷も、輝きの一つなのだと肯定している。

《終わる日まで寄り添うように
君を憶えていたい》

歌詞に出てくるこの「終わる日」とは、この曲の視点となっている人物の死の時だと捉えることができる。

 米津さんの音楽も、表現も、言葉も、インタビューも、常に、いつかは自分がいなくなることを前提としている。常に、自分自身の、そして、誰かの死をどこか含んでいる。生きることと死は、切り離すことができない。生きることは、誰かの、そして自分自身の死を見つめ続けること、感じ続けること。私たちの生には、誰かの、そして、いつかはやってくる自分自身の死というものが、傷として残っている。その傷が、それぞれの人間の輝きとなる。米津さんは、音楽でそれを表現しているのではないか。死という終わりがあるからこそ、今この瞬間を大事に思うことができる。だからこそ、米津さんの音楽や生き方には、一瞬一瞬の輝きやかけがえのなさがあり、生きることへの肯定が刻まれている。そう強く思う。『カムパネルラ』の曲の最後では、ピュア化された、鉄琴のような優しい音が鳴っている。何だか寂しげで、でも、希望を残してくれている気がした

 ところで、『カムパネルラ』のMVでは、登場人物の10代前半くらいの女性が、列車の車窓から海辺を見下ろしながら、通り過ぎて行くシーンがある。それを観て、私はふと、映画『千と千尋の神隠し』で千尋が列車に乗っているシーンを思い出した。

 『カムパネルラ』のMVでの米津さんの踊りを観て、こんなにも胸が締めつけられるのは何故だろうか。米津さんは、波打ち際で、祈るように、叫ぶように踊っている。踊ること—ダンスという身体性の表現。米津さんのダンスには、繊細な力強さ、妖艶さがある。米津さんのダンスは、それ自体が音楽であり、言葉であり、声であり、閉じ込められた魂の、内に秘められた感情の表出そのものでもある。内側にあるものを、身体の動きによって、外側に向かって表現している。『カムパネルラ』という曲が内包している、言葉にできない何か、言葉では言い表しきれない何かを、踊りによって表現している。

 加えて、歌い方も、今までの米津さんのものと比べて、よりエモーショナルで力強くなっている。米津さんのダンスと同じく、米津さんの歌声には、感情の生々しさや、神秘的ななまめかしさがある。特に、《光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル 君がつけた傷も 輝きのその一つ》のところで、魂から叫ぶような歌い方、語尾で声を激しく裏返すような歌い方をしている。時に、がなるように、喚くように、絞り出すように、感情をあらわにするように、歌っている。

 山田智和監督による米津さんのMV『Lemon』、『Flamingo』、『馬と鹿』、『カムパネルラ』は、それぞれが別個の作品だが、どこか世界観が繋がっていて、交差している。そこで映し出されているのは、生と死の境界線=「波打ち際」だ。米津さんの音楽と表現において、とても重要なモチーフでありキーワードだ。米津さんは、映画『海獣の子供』の主題歌として制作した『海の幽霊』についてのインタビューでも、以下のように語っている。

「生きるのと死ぬののちょうど境界線として波打ち際っていうのがあって、じゃあ自分はどっちで生きる存在なのかとか……そういうものを描けたらいいなあと思ってました。」
(ROCKIN’ON JAPAN 2019年7月号より引用)

 今までに山田智和監督が手掛けた4作の米津さんのMVでは、踊ることと祈ることが、とても重要なモチーフとなっている。『馬と鹿』のMVの終わりで、米津さんが波打ち際で背を向けて座っているシーンが、米津さんが波打ち際で歌い踊る『カムパネルラ』のMVとリンクしている。また、『Lemon』のMVのクライマックスで、エモーショナルに歌う米津さんの後ろで教会に集まっている人たちが祈るように踊る姿と、『カムパネルラ』のMVの後半で、波打ち際に佇む米津さんの後ろで車椅子に乗った留袖や袴を着た人たちが祈るように踊る姿が、重なり合う。『Flamingo』でも、死者と生者、あの世とこの世の境界線上のような場所で、米津さんが華麗に踊っている。『馬と鹿』でも、洞窟の中の絶壁に囲まれた場所で歌う米津さんの祈りや願いが、身体の動きから伝わってくる。 

 米津さんの音楽や表現は、一方を映し出す時、必ずその反対側も映し出す。まるで、コインの表と裏のように。そこでは、光と闇、生と死、善と悪、愛と孤独、かっこよさと滑稽さ、正気と狂気、冷静さと熱狂、新しさと懐かしさ、優しさと冷淡さ……といった、様々なものが複雑に混じり合っている。『STRAY SHEEP』を聴いていると、光と闇の間を彷徨い、漂っているような感覚になる。でも、それが心地よくもあるのだ。

 米津さんは、決して、ただ美しくて強くて優しいだけの人ではないと思う。「かっこいい」「優しい」「強い」「美しい」という聞こえのいい言葉だけですべてを形容できる人間なんて、本当はどこにもいない。人間とは、時代を映し出す表現者とは、そんな単純でわかりやすくて、みんなが安心できて、一方的に理想化したり、美化したり、同一化したりできるものではないと思う。米津さんは、片方を映し出すとき、必ず、その反対側にあるものを見つめて、映し出す。美しさや強さや優しさがあるとしたら、醜さも弱さも残酷さも映し出す。だからこそ、真の意味で美しい。

 だから、米津さんの音楽や表現を受け取る私たちも、そこに映し出されている反対側にあるものから目を背けてはならない。米津さんは、あれだけのものを背負って(米津さんは「責任」と言っていた)、命を削って、その命を燃やしながら音楽を創ってくれていると思うから。反対側にあるものも、米津さんの音楽と表現においてとても大事な部分だから。光があるということは、必ずその裏側に闇がある。月も、夜という闇があるからこそ、輝くことができるのだ。  

 もちろん、どういう風に米津さんの音楽を聴き、感じ、解釈し、受けとめ、どのように楽しむかは、まったくもって個人の自由だ。でも、米津さんが「自分の音楽を聴いてくれる人」である私たち向けて音楽を創ってくれていて、私たちがそれを受け取る以上、米津さんと私たちとの間には、コミュニケーションがあって、関係性がある。それが直接的ではないとしても。コミュニケーションは、双方向の関係性があってこそ、本当の意味で成り立つものだ。そうであれば、受け取る側の私たちも、米津さんの思いや考えを想像しながら、時に、米津さんと自分との間にある距離感よく考えてみることも大切だと思う。それが、米津さんに「歩み寄る」ということだと私は考える。

 「歩み寄る」という言葉には、単純に近寄るという意味だけでなく、「折れ合う」という意味もある。折れ合うとは、意見や考え方が対立するときに譲り合うこと、妥協することだ。それを踏まえると、「米津さんに歩み寄る」とは、ただ米津さんに近寄って行くことだけじゃなく、米津さんと自分との意見や考え方の違いを踏まえたうえで、米津さんと自分との間の程よい距離感を見出していくことではないだろうか。きっと、「米津さんと自分との意見や考え方の違い」の部分は、例えば「自分が思い描いている米津玄師像と実際の米津玄師との違い」や、「自分が知っていると思っていた米津玄師と自分の知らない米津玄師」、という風に置き換えることができるかもしれない。

 「妥協」、と聞くと、半ば諦めのような、なげやりのような、ちょっとよくないイメージを持つ人もいるかもしれないが、妥協の本来の意味は、双方が穏やかに解決を図っていくことである。言葉をとても大事にしている米津さんが、「もっと俺に近づいてほしい」ではなく、あえて「もっと俺に歩み寄ってほしい」という言い方をしていることからも、「歩み寄る」という言葉のもう一つの意味も踏まえて言っているのではないか、と想像する。

 『STARAY SHEEP』には、新型コロナウイルスの影響による自粛期間中に米津さんが書き上げた新曲が収められている。その中でも、『優しい人』と『カナリヤ』は、聴き入ってしまって動けなるくらいに美しい曲だ。この2曲にも、私は『カムパネルラ』と共通するニュアンスを感じる。きれいごとではない、人間が持つ醜くて冷淡な部分。善悪で割り切れない部分。白黒つけようとしたり、独善に走ろうとしたりせず、それも含めて、人間の多面性であると見なすスタンス、その距離感。それは、何年も前から、米津さんが一貫して保ち続けているものではないか。以下は、5年前のインタビューからの引用だ。

「なんにしろ言葉を尽くせば伝わるはずだと思ってる人間っていうのは、たぶん人間を舐めてるんだろうって思うんですよね(笑)。そんな単純な話ではなくて。人間というのは、美しいものだとか思いやりのあるものだとか、そういう小学生で習うような道徳から一歩も出てきてない人間っていうのは基本的に人間を舐めてるわけであって、それは何か表現する人間として不誠実だなと思うんですよね。人間というのはそもそもすごく混沌としたものであって、善意が人を傷つけることもあるし、基本的に利己的なものであって、それが悪いってわけではないですけども、そんなにいいもんでもないと思うんですよね(笑)。いいもんでもないということから目を背けたまま何か言葉とか音とかを発信するっていうのは浅ましいというか」 
(CUT 2015年12月号より)

今の米津さんならきっと、「舐めてる」というようなぶっきらぼうな言い方はしないだろう。でも、根本的なスタンスはこの頃から変わっていないのではないか。この時からすでに、『カムパネルラ』や『優しい人』、『カナリヤ』に通ずる視点を米津さんは持っていた。米津さんは以前と変わらず、今もなお、いい意味で尖った部分、人間の本質とちゃんと向き合おうとする厳しさと冷静さを持ち続けている。

 ポップな音楽とは、本来、どろどろしたものなのかもしれない。日常生活でそのまま吐き出すと受け入れられないようなことでも、ポップな音楽に変換することで、受け入れられるものとなる。米津さんは、野田洋次郎さんとのラジオでの対談で、自身の曲『アイネクライネ』について野田さんに聞かれた際にも、このように語っていた。

「あの曲に関して言うと、すごくこう、見せたくない部分を見せるっていう。曲中で矛盾してたりするし。だからその、たぶん、ああいう気持ちを音楽にのせる前に自分の口で誰かに伝えたりしたら、それは何かものすごくわがままなメッセージになると思うんですけど、それがこう音楽になることによって、そういう矛盾だとか、一般的にはやめておいた方がいいようなことっていうのが、ものすごく美しく響くっていう。」

「だから、そういうのを初めて感じることができたんです。その、音楽でしか成立しない、音楽によって昇華されるその、ぐずぐずした気持ちみたいなものが。」
(2020年8月1日放送 TOKYO FM Monthly Artist File-THE VOICE-より)

怒りや苦しみ、痛み、不満、悲壮感、といったダークな感情や目を背けたくなるような表現をそのままぶつけられたら、みんな耐えられないだろう。でも、ポップな音楽でなら、それを美しいものにして表現できる。それが多くの人たちに届き、受け入れられる普遍的なものになる。それは、ポップな音楽の可能性なのだ。

 米津さんは、言葉で説明する以上に、音楽ですべてを物語っている。面と向かっての、直接的な言葉では伝えられないこと、伝えきれないことを、音楽で伝えている。そして、自身が創り出す音楽によって、自身にまとわりつくイメージを、形容詞を、ずらし、破壊し、再構築し続けていっている。

 人間を、ひとつの側面だけで判断することはできない。ひとりの人間の中にも、様々な側面がある。クリスタルのように、数々のカットが施され、多くの面ができるからこそ、より輝くことができる。そして、角度のつき方は人それぞれで、みんなどこかいびつで完璧ではなく、形も異なる。だからこそ、その人にしかない輝きがある。人間は奥深い。

 『感電』のMVを手掛けた奥山由之監督が、米津さんに対して「あなたは世の中を多角的に映すミラーボールみたいだ」と喩えてくれたことがすごくしっくりきた旨を、米津さんがインタビューで語っている(ROCKIN’ ON JAPAN 2020年9月号参照)。ミラーボールも、単なるつるんとした球体ではなく、細かな多数の面が集まってできている。だからこそ、様々な角度からの光を反射してキラキラと輝く。それはカットを施された宝石と似ている。  

 無色透明なクリスタルだけれど、多数の面によって、ひとつの石の中に様々な色彩と輝きが映し出されている。沢山のカット(傷)が施されているからこそ、多数の面ができ、様々な角度からの光を反射することができる。『STRAY SHEEP』のアートワークで描かれているクリスタルのように、米津さんと米津さんの音楽は、無色透明だからこそ、様々な色を反映することができる。でも、完全には混じり合うことのないままに、それぞれの色彩と光を映し出している。完全には溶け合うことのないままに。完全にはひとつになることのできない何かが留まり続けている。その孤独、悲しみ、痛み、切なさ。でもだからこそ、そこに宿るかけがえのない美しさがあるのだ。

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