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生きて,できることをやるしかない

死の香りのするSTRAY SHEEPから米津玄師に教わったこと

私は音楽ライターでも音楽関係者でもない音楽好きな一般人だが,米津玄師の2年9ヶ月ぶりの待望のアルバムSTRAY SHEEP は贔屓目に見なくても米津玄師の正真正銘のマスターピースである、ということをまずどうしても言いたい。
『生きる』ということを生々しくうたった,コロナ禍が米津玄師に生ませたアルバム。
多くの生きる人と多くの死者に捧げるアルバム。…キャッチコピーを頼まれていないのに延々と考えてしまう。
2020年の夏は多くの人にとってイレギュラーな特別な夏だったが,私にとっても遠く離れた故郷への規制を自粛し,新盆を迎えた親族のお墓参りにも行かれない寂しい夏であった。しかし米津玄師が全て埋め合わせをしてくれた。語弊があるといけないので言っておくと,彼の久しぶりの公となる声や姿や思想に触れる機を逃さず,余すところなく受け取った末に,それを基にいろいろなことをじっくり考えることができた,ということだ。
 
STRAY SHEEP全体を通して感じるのは,懐かしいような,温かくなるような,でも心の中を鋭利な刃物で引っ掻き回されるような矛盾した感覚だ。感情はジェットコースターに乗って心地よい風の吹く青空の見える高いところから,真っ暗闇の中に突っ込んでいくようなひどい揺さぶられ方をする。
初めて聴いたあとは正直に言って、幸福を感じるというより,学生の貧乏旅行で初めて東南アジアを旅行した日の夜に,その日見つけた宿のがらんとした部屋の中で天井を見つめて呆然とした時と同じくらい呆然としてしまった。さて、どうやってこれを理解したら良いのかな…と。涙が頬を伝った理由は後でゆっくり考えようと思った。
圧倒的に美しい『まちがいさがし』を聴いても目の前には春の気配と一緒に廃墟が広がっている気分になるのに,なぜエンドレスでこのアルバムを聴き続けるのか。誰かに科学的に証明して欲しいのだが,誰かの声、その周波数なのか何なのかを生命維持に必要な栄養素のように必要としている人間はいるのだ。それがたまたま米津玄師である人も相当数いるようだ。
それは置いておいて,なぜこんなにしつこく何年も同じ人の歌を聴き続けるのか自分でもずっと疑問だったのだが,今考えられる答えがあるとしたら「実はわたしもね,昔からそう感じていたんだよ,そうだよねえ,やっぱりあなたもそう思うんだ,私だけじゃなかったんだね,良かった,わかるよそれ,でもうまく言葉に出来なかったんだよ,ほんとにありがとうね」とひとり頷きながら心を震わせるためなのかなあと思う。STRAY SHEEPに限って言えば,ただ今自分が生きていることを確かめるために聴いている気がする。
私が生きていようが死のうが,大した影響ないんじゃないかな,なんて軽々しく言うことがはばかられるような,生と死を重く考えさせてくるアルバムだからこそ、数十回聴いたくらいで感想を述べる勇気と自信が私にはない。
 
生と死といったが,このアルバムは生きる喜びや,恋や高揚感を感じられるのと同じくらいに,死の匂いがぷんぷんするし,悲しみにも溢れている。そして,私は断然そちらの方に惹かれる。『カムパネルラ』『Flamingo』『Lemon』『ひまわり』『優しい人』『海の幽霊』『カナリヤ』,雑にまとめるとおよそ半分の楽曲が死が近くに感じられ,悲しくて美しい。
小林英雄の「人間というのは,生まれたその瞬間から死へ向かって一歩一歩あるいていく旅人のようなものだ」という一節を目にしたことがあるが,これらの歌は死は必ず訪れるものとして,それに向かってどう美しく生きるかを,絶望的にならぬよう救いの余地を残して優しく歌っている。
『カムパネルラ』の「わたしはまだ生きてゆける」,『Lemon』の「今でもあなたはわたしの光」,『カナリヤ』の「あなただから いいよ 歩いていこう 最後まで」など完全に逃げ場がなくならないよう一縷の望みを残した歌詞が光となり,切ないなと思いながらもそれらの歌を何度も慰めてもらうように聴くのだろう。もともと『アイネクライネ』の中でも「いつか来るお別れを育てて歩く」とうたっているのだから,彼の中では諸行無常,メメント・モリは全ての作品の根底に流れているテーマなのかなと思う。久しぶりにじっくり『Lemon』を聴いてふと思い出したのは,スーザン・バーレイの『わすれられないおくりもの』という絵本だった。身近な隣人の死をどう乗り越えるのかを教えてくれる本だ。
 
この夏の彼の一連のインタビューなどを見聞きすると,アルバムのメッセージを分かりやすく噛み砕いて繰り返し言ってくれて,ありがたい。何もかも二者択一しなくて「いいよ」,全てのことを白か黒かはっきりさせなくても「いいよ」,矛盾することが一か所に同居していても「いいよ」という寛容さ。詩集としても成立しそうなこの最高傑作は,喜びと悲しみ,光と影,プラスとマイナス,生と死,など相反するものをどちらもありだと,受け入れていく、そんな生き方があるよと教えてくれる。既に『でしょましょ』で世界の混沌を認めて「なあなあで行きましょ」とうたっているので,則天去私も彼の血肉となっているのだろうか。もしそうなら…どうか長生きしてほしい。
 
インタビューのなかに、細胞が生まれ変わることにより同じ人間も物質的には数年後に全く別の人間になるというエピソードが紹介されていた。話が逸れるが,私たちは単なる物質ではなく心が,魂があるのだから音楽が不要不急な訳がないという考えは非常に真っ当だということは記しておきたい。
話を戻すと,一人の人間の中に起きる細胞の生と細胞の死という正反対のものの同居を既に私たちは無意識に受け入れているので,生と死を同時にうたう彼の歌も難なく受け入れることができるのかと納得した。違いを見つけた時に対立をするべきか共存の道を探るべきかについては,彼自身よく言っているし,過去の賢人も言っている。そんなことは頭では分かり切っているが,実践できていないからこそ今米津玄師の歌を詞をじっくり聴くべきだと思う。
 
B’zが好きで小沢健二が大好きな学生時代を最後に,細かく嗜好によって分けられたグループの中だけで受け入れられがちになったJ-popに愛想をつかして洋楽ばかり聴く数年があった。あるグループで支持されていたところから,妥協することなく活動範囲を広げ全世代に受け入れられるようになった米津玄師が居る現在から見たら,表面的に楽しんでいたようにも思える。感覚的にいいなと思う音楽をたどっていくのは心地よかったけれど,文化や背景を同じくしていたらもっと違った感じ方があるだろうなあと釈然としない瞬間はあった。だからこそ米津玄師と同じ言語を操る国に生まれて,同じ時代を生きることができることを本当に幸せだと思う。多感な時期を米津玄師の歌を聴いて成長できるティーンエイジャーが本当に羨ましい。それほどに,彼の言葉は英知に溢れ,生きることについてのヒントを与えてくれる。
しかしそんな彼も神ではなくて,私たちと同じ迷える羊なのだと思うと,ほっと温かい気持ちになるのと同時に,もう結局は,今できることをやるしかないなというあきらめにも似た気持ちになる。そして今この瞬間に私にできること,やりたいことはこの気持ちをまとめて誰かに読んでもらうことなのかなと思って書いている。

明日も大好きなアールグレイを飲んで,健やかであることを願いながら,人生のひびわれをしゃなりと歩いていこうと思う。(Décolletéより引用)

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