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今この瞬間に確かめ合う、「あなた」という存在のかけがえのなさ

米津玄師『カナリヤ』について考えたこと

  初めて米津玄師の『STRAY SHEEP』を手に取った時、私はまず、おまもり盤のパッケージが、幕の内弁当くらいの大きさだったことにちょっとびっくりした。そして、同時に手に取ったアートブック盤も眺めながら、パッケージやアートワークの美しさにうっとりしていた。アルバムを聴き始めてから2週間ほど経った今でも、手垢がつかないように、100均で買った綿の白い手袋を着けて大切に眺めている。まるで、宝石に触れるかのように。

 おまもり盤に付いている、温度で色が変化するキーホルダーのように、このアルバムも、聴くたびに聴こえ方や見え方が不思議と変化していく。特に、自分の中で印象が一番変化していったのは、最後の曲『カナリヤ』だ。自分にとっては、『STRAY SHEEP』の中で『カナリヤ』が一番難解というか、掴みきれなかった。聴いた時の胸に沁みるような美しさと同時に、矛盾や割り切れなさのような、なんとも言えない感情が留まり続けていて、この言葉にできないものは何なのか、ずっと考えていた。

 『STRAY SHEEP』に収められている楽曲には、「あなたじゃなきゃだめなんだ」というニュアンスの歌詞が結構出てくる。

《これが愛じゃなければなんと呼ぶのか 僕は知らなかった
呼べよ 恐れるままに花の名前を
君じゃなきゃ駄目だと
鼻先が触れる 呼吸が止まる 痛みは消えないままでいい》
(米津玄師『馬と鹿』)
  

《君の手が触れていた 指を重ね合わせ 間違いか正解かだなんてどうでもよかった
瞬く間に落っこちた 淡い靄の中で
君じゃなきゃいけないと ただ強く思うだけ》
(米津玄師『まちがいさがし』)
 

《触れていたい 揺れていたい 君じゃないといけない この惑い》
(米津玄師『PLACEBO + 野田洋次郎』)

この3曲と、『カナリヤ』での「あなたとならいいよ」、「あなただからいいよ」との距離感の違いに、私は「矛盾していませんか?」と感じて、最初は何だか腑に落ちなかった。けれども、何度も聴きながら考えていくうちに、それらの曲はみな、伝えようとしている根本的な部分は同じなのではないか、という結論に至った。

 『カナリヤ』での「いいよ」は、単なる肯定を超えている。その「いいよ」の裏側には、「あなたじゃなくても」という、ちょっと突き放すような、ある種の否定が込められている。この曲には、歌詞の表面からでは読み取ることのできない、「いいよ」という一言からでは読み取ることのできない、複雑で割り切れない思いが映し出されている。

 私は、米津さんは音楽ですべてを物語ると思っていたけれど、『カナリヤ』は違う気がする。この曲を聴いて歌詞をそのまま読んだだけでは計り知ることのできないものがあり、米津さん自身とこの曲との関係性や、米津さん自身の言葉を紐解いていかないと知ることのできないものなのだ。

 『STRAY SHEEP』と『カナリヤ』について、テレビや雑誌、ラジオでの米津さんのインタビューを観て、聴いて、読んだ時、すごく正直な人だな、と思った。自分自身の迷いや葛藤も隠さずに、アルバムに込めた思いを、飾らずに真摯な言葉で語ってくれているのが伝わってきた。その姿勢は、アルバムに収められた楽曲にも表れている。そこにあるのは、手放しの肯定ではなく、考えに考え抜いてたどり着いた肯定なのだ。だからこそ、とても、重い意味がある。

 以下はすべて、ROCKIN’ ON JAPAN 2020年9月号のインタビューで、米津さんが『カナリヤ』について語っている部分の抜粋だ。
 
 

「人と人との関係性って、永遠に続くものではない」

「人間というのは、代替不可能な、不変不朽なものではない」

「変わらずにいる人間というのはひとりもいない」

「代替不可能である人間なんてこの世に存在しない」

「いろいろと人間は変わっていく」

「自分が変わったことによって、相手との今まで一緒につながっていた大事な部分、その一点においてつながり合っていたものが、もしかしたら時間が経つことによってなくなってしまって、つながり合うことができなくなるかもしれない」

「お互いに、あなたじゃなくても別に私はいいんだっていうか、一緒にいるのはあなたじゃなくてもいいっていうことを確認し合うことがすごく大事なんだろうなっていう」

「そこであなたじゃなければならないというふうに言ってしまうと、その場にずっと留まることになってしまうというか、変化の否定につながってしまう」

「でもそれは、やっぱ、どだい無理な話で。原理原則として絶対無理な話であって、そういうふうに受け容れていく、『別にあなたじゃなくてもいい。でも、私はあなたのことを誰よりも愛する』っていうことは矛盾なく成立するというか」

「だから、それを確認し合う。常に、絶えずお互いの目の前に議題に挙げて、自分自身の状態というのを確認し合う。確認し合ったあとで、そういう確認があったからこそ、私たちは『いいよ』っていうふうに、ほんとに心の底から思えるわけであって」

「だから、相手のことを許容する。その変化を許容する。それこそが絶えず美しく、これから先何十年も生きていくためには、いちばん重要なことであって。美しく真摯な生き方なんじゃないかなと思いますね」

 このインタビューで、米津さんは、『カナリヤ』の歌詞の《あなたとなら いいよ》《あなただから いいよ》が、最初は「あなたじゃなくてもいいよ」だったことを明かしている。

「でも、やはり、それはあまりにも直截的すぎるし。そもそもそういう形で作られてないなっていうことを感じたんですね、そういうふうに言葉が出た時に。だから、結果的に《あなたとなら》《あなただから》っていうのは、そういう意味で言うと、一種の閃きというか、運命的な出会いみたいなものを想像させる言葉かもしれないけれども、そこはまあ、自分の表現を信頼するというか。で、また聴いてくれる人を信頼するというか。そういうふうに作り上げたっていう側面があるかもしれないですね」
 
 

 まず、このインタビューでの米津さんの「代替不可能」という言葉が、私にとってはすごく印象的だった。代替不可能とは、他のもので代えることができない、という意味だ。それは、「かけがえのない」という風に言い換えられるかもしれない。米津さんはインタビューで、「代替不可能な人間なんていない」と言っている。

 これは、個人的なものと普遍的なものの関係性にも繋がってくることだと私は考えている。代替不可能とは、他の人に置き換えることのできない、自分にとってかけがえのない、「個人的な」という意味で捉えることができる。反対に、代替可能とは、他の人に置き換えることができる、自分以外のみんなに当てはまるような、「普遍的な」という意味で捉えることができる。

 「代替不可能な人間なんていない」ということは、個人的な感情や個人的な経験という、他人と置き換えができないはずのもの、自分にしかわからない代替不可能なものが、実は代替可能なのだということを意味する。代替可能なものとは、言い換えると「普遍的なもの」である。さらに言い換えると、個人的なものとは、同時に普遍的なものでもあるということなのだ。 

 例えば、『Lemon』は、ドラマ『アンナチュラル』の主題歌として制作されたが、米津さんが自身の祖父の死を経験して書いた、ものすごく個人的な曲でもある。それは、米津さん自身にしかわからない、個人的な、代替不可能な経験である。にもかかわらず、何故『Lemon』がこんなにも多くの人の胸を打つ普遍的な曲となるのか。それは、「愛する人の死」という、ものすごく個人的な経験が、実は誰もが経験する普遍的なものであり、他者が自分に置き換えることができる経験だからである。 

 米津さんは、2018年3月14日にYouTubeで公開された「米津玄師 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎と、Lemon。」で、以下のように語っている。

「なんかこう、不思議な話だなあと思って、個人的であればあるほど普遍的になるっていう側面は、やっぱ眼前とあるんですよね。」

「それは、まあいろんな要素があるとは思うんですけど、個人的であることと、普遍的であることっていうのは、相反しないというか。個人的でありつつ、普遍的であるっていうのは、全然成立することであるっていう。それはなんか不思議であり、おもしろいことだなあ、音楽作って、歌詞書いていくうえでおもしろい部分だなあっていうふうには、常々思いますけどね。」

 また、2020年8月5日放送の『ZIP!』でのインタビューでも、米津さんは『Lemon』制作中にお祖父さんを亡くしたという経験を踏まえて、以下のように語っていた。

「超個人的な出来事ってものが、誰かの傷ついている部分っていうものを、肯定する力を持つものになったんだなっていうのは、まあ結果論ですけど、感じますね。」

 『Lemon』という曲が持つ、とても個人的な側面と、多くの人たちの胸を打つ普遍的な側面が示しているのは、「あなた」と「わたし」の個人的な経験も、置き換えが可能であるということだ。他の誰かと自分が置き換え可能だなんて、一見悲しくて虚しいことのように思えるかもしれない。でも、他の誰かと自分が置き換え可能だからこそ、他者の経験に共感し、自分を重ね合わせることができる。音楽を聴いたり、物語を読んだり、映画やドラマを観たりして、私たちがまるで自分のことのように涙し、胸が締めつけられ、感動することができるのは、人間とはそもそも代替可能だからでないと、説明がつかない。

 誰かの物語が私の物語となり、誰かの歌が私の歌となるのは、その誰かと自分を置き換えることができてこそ可能になる。とても矛盾しているように聞こえるかもしれないが、人間はひとりひとりが代替可能だからこそ、個人的で代替不可能な、かけがえのない経験や感情、言葉にできない何かを、他者と共有することができるのだ。

 ここまでは、「代替不可能な人間なんていない」という言葉から、私が個人的に考えを巡らせたことだ。次からは、米津さんの『カナリヤ』の文脈に戻ろうと思う。

 人間は、生きていく過程で変化していく。そのなかで、例えば過去に好きだった人やものを、今はもう好きではなくなっていることなんて、当たり前のようにある。以前は気に入っていた洋服が似合わなくなったり、サイズが合わなくなったりで、また新しい服を纏うようになる。同じように、人間も、入れ替わっていく。自分自身も、他者との関係性も、絶えず入れ替わっていくものだ。人間は、不変で居続けることはできないのだ。

 認めるのは辛いことかもしれないが、自分と、自分の目の前にいる大切な人との関係性も、入れ替えが可能で、お互いに「あなたじゃなくてもいい」のだ。ずっと永遠にいつまでも一緒にいられるような、揺るぎない関係性など、存在しない。この先もずっと一緒にいたいと思い続けていられるか、確信なんてない。揺るぎないと思っているのは、あくまで今この瞬間の話であって、それがこの先も続いていくかは誰にもわからない。そこに、刹那的な、儚さがある。その事実とつど向き合いながら、その一瞬一瞬ごとにお互いのかけがえのなさを確かめていくことが、『カナリヤ』の歌詞に出てくる「いいよ」なのではないだろうか

《いいよ あなたとなら いいよ
二度とこの場所には帰れないとしても
あなたとなら いいよ
歩いていこう 最後まで》

 そして、この先もしかしたら、互いに変化していき、いつかは離れることになるかもしれない、いつかは別れが来るかもしれない、だからこそ、今この瞬間に、「いいよ」と確かめ合いながら生きていくことに、かけがえのない美しさが宿っている。

 『馬と鹿』や『まちがいさがし』における「あなたじゃなければいけない」というニュアンスと、『カナリヤ』における「あなたとならいいよ」、「あなただからいいよ」というニュアンスは異なるけれども、今自分の目の前にいる「あなた」を大切に思うこと、愛すること、という根本的な部分は共通している。

《あなたも わたしも 変わってしまうでしょう
時には諍い 傷つけ合うでしょう
見失うそのたびに恋をして
確かめ合いたい》

 もしかしたら、いつかはお互いに変わってしまって、そばにはいられなくなる日が来るかもしれない、というその可能性を引き受けながら生きていくことが、米津さんが言う「変化を肯定していく」ということなのだと私は思う。その刹那的な儚さがあるからこそ、今目の前にいる「あなた」のかけがえのなさに気づくことができる。そして、この「あなた」は、家族や友人や恋人といった人間どうしの様々な関係性はもちろん、人間以外の、自分にとって大切な何かと自分との関係性にも置き換えることができるのではないだろうか。

《いいよ あなたとなら いいよ
もしも最後に何もなくても
いいよ 

いいよ あなただから いいよ
誰も二人のことを見つけないとしても
あなただから いいよ
歩いていこう 最後まで

はためく風の呼ぶ方へ》

 米津さんはこの曲を通して、自ら変わっていかなければ駄目だ、と言っているわけではないと思う。米津さんは、自らによる能動的な変化のみを肯定しているわけではないのだと感じる。例えば、今まさにコロナ禍における、世の中の、不可避かつ不可逆的な変化の流れの中で、私たちも変わって行かざるを得ない。コロナ禍だけでなく、日々の中でも、私たちは、望む望まないに関わらず、環境や人間関係の変化にそのつど対応しながら生きて行かなければならない。それはある意味、自分ではコントロールできない要因による、受動的な変化だ。自分は変われない、変わりたくない、と思っていても、実は人はみな、意識的にも無意識的にも変わり続けていっている。誰も変わらずに留まり続けることなどできないのだ。『カナリヤ』は、その受動的な変化をも含めて、今を生きている人たちのことを、今を生きていくことを、肯定してくれているのだと感じる。

 『カナリヤ』を聴いていると、あれだけ多くのことを成し遂げ、凄まじい才能を持つ米津さんも、こんなにも迷い、考え抜き、葛藤しているんだな、ということに気づかされる。その事実に私はとても勇気づけられた。米津さんも、この世界で生きる迷える羊という意味では、私たちと同じなのだと。このアルバムには、米津さんが迷いながら、葛藤しながらも、何かに辿り着こうとした痕跡が刻まれている。そして、おそらく完全な答えは出ないままに、それでも今辿り着いたある種の答えを提示してくれているのではないだろうか。未だ迷い続けている中で、それでも、今の日本のポップ・ミュージックを担う1人の音楽家として、世の中に対してある種の回答を示そうとするのは、とても勇気のいること、覚悟のいることだ。それを、こんなにもすばらしい音楽にして世の中に提示し、それがちゃんと数多の人たちに受け容れられる普遍的なものとなっているのは、本当にすごいことだと思う。 

 これからも、私たちは米津さんの音楽に勇気づけられ、沢山の喜びや楽しみを受け取っていくだろう。そのつど、自分やまわりにいる大切な人たちが生きていることのかけがえのなさに気づかされるだろう。そして、米津さんの音楽を聴く度に、それを思い出しながら、これからも、変わりゆく世界の中で、日々を生きていくだろう。

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