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米津玄師の放つ優しい輝きに魅せられて

アルバム『STRAY SHEEP』で歪な輝きも私の一部だと思えるかも知れないと気づいた話

私が米津玄師の事を認識したのは、ドラマ『アンナチュラル』の主題歌に起用された『Lemon』であった。
あやふやな記憶を辿れば、アンナチュラルが始まる前から、SNSで「米津玄師」という名前は見かけていたように思う。その時の私は「若い人の間で流行り始めたミュージシャンか。」くらいの感覚で、流行りを敏感に察知して追いかけるような年齢でもなかったので、あまり気に留めていなかった。
ただ、ドラマ『アンナチュラル』を観るようになってから、毎回ドラマの良いタイミングで流れてくる曲の美しさが気になり、誰が歌っているんだろう?とクレジットをチェックした時に、「米津玄師」という名前を見て、私の生活領域にも入ってきたことを実感し、これは大きなうねりになるかも知れないと思った。
ドラマと主題歌の関係性というものは、なかなか奥が深い。主題歌によって、そのドラマの味わいが格段に引き上げられるかどうかが決まっていると言っても過言ではないと思っている。「ドラマ」というメイン料理があったら、その脇に少し彩りを添えるパセリになるか、ドラマの奥深くに入り込んで究極の隠し味になるか、メイン料理には干渉しないが食べ終えた後のデザートとなるか、それが主題歌ではないだろうか。
その点において、ドラマ『アンナチュラル』における『Lemon』は、制作者である米津玄師の意図とは違っていたかも知れないが、『アンナチュラル』を構成する一つの大きなピースとなっており、ただでさえ面白いドラマを、極上の料理に仕上げたのだ。

”夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる”

”あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに”
(Lemon/米津玄師)

最初は美しい旋律と歌声に惹かれたLemonだったが、ドラマ『アンナチュラル』の話数が進むごとに明かされていく内容にぴったりと当てはまる事に気づいてからは、ただエンディングを飾る主題歌ではなく、Lemonすらもアンナチュラルの一部になっていた。
上記の歌詞は、家族を亡くした主人公のミコトにも通ずるが、最愛の恋人を亡くした中堂の胸中のように思えたし、毎回ここぞというタイミングでLemonが流れる事により、『アンナチュラル』の一話、一話が完成していたように感じた。
ドラマと主題歌、そのどちらもが同じくらいの熱量で話題となり、社会現象になっていく様を見たのは私にとって初めての事だった。

ドラマが最終回を迎え、もうこれで毎週Lemonを聴く事が無くなるのか、と思った私は、綺麗なジャケットイラストにも惹かれ、CDショップで陳列されていたLemonを手に取った。「Lemon」の素晴らしさはもう言わずもがなで、カップリングの「クランベリーとパンケーキ」は軽妙なリズムが心地よく、「Paper Flower」は何だか不思議な浮遊感を感じる。
3曲ともそれぞれが違う表情を見せていて、何回繰り返し聴いても飽きず、往復1時間ちょっとの通勤のお供は暫くこの3曲をずっとリピートしていた。
 

ただ、ここから更に深く米津玄師の世界に入り込んだかと言うと、そうではなかった。
他に追いかけているアーティストもいたし、少し聴くだけであれば、世界的アーティストとなった彼の音楽は、敢えてこちらから近づかなくとも、すぐ手の届くところにあったというのも理由の一つ。
Lemonの大ヒット以降もタイアップが続き、提供曲も大ヒットを飛ばし、手元にCDが無くとも米津玄師の音楽は耳に入ってきたからである。深く1曲1曲を丁寧に聴く事はあまりしなかったが、テレビをつけていれば、コンビニに入れば、耳に入ってくる米津玄師の音楽。
 
 

多分、それくらいが私にとって丁度良い距離感だったのだと思う。
 
 

そのバランスが変わったのは、今月の事だ。
 

2020年8月。米津玄師、サブスク解禁。
 
 

遂に米津玄師の音楽が気軽に手に入る環境になった。

なってしまった、とも思った。

Lemon購入時、そのジャケットイラストを彼が手掛けていること、ツアーグッズのデザインも書き下ろしていることを知った私は、彼の公式サイトを見た。
「才能の塊かよ…」そう思った。これは近づいたら危ない、と私の本能が察知していた。近づいたらその才能にひれ伏すしかない。
私は沢山のアーティストを一度に追いかけられるほど器用じゃないし、経済力も持ち合わせてはいないのでそれは困る。彼の才能に頭をぶん殴られる気がして怖かった。当時、彼の世界に深く入り込む事を回避したのはこちらの理由の方が大きかったかも知れない。
 

それが、遂にその音楽が、スマホの画面をちょっとタップするだけで手に入ってしまうのだ。
「あれだけ少し距離を取っていたのに」と少し迷ったが、このタイミングを逃せば、もう彼の音楽と私の人生が交わることはないような気がした。
物事には、出会うべくして出会うタイミングというものがある。きっと、米津玄師の音楽と向き合うタイミングは今なのだ。

そう思った私は、とりあえず、最新アルバムの『STRAY SHEEP』をダウンロードする。
ジャケットイラストを見ながら、相変わらず才能の塊だなと思う。収録曲一覧を見て、タイアップ曲や提供曲の多さに、ベストアルバムかと錯覚しそうになる。
 
 

1曲目の『カムパネルラ』
 

イントロから耳に残る少し不穏な音が流れる。

”カムパネルラ 夢を見ていた
君のあとに 咲いたリンドウの花”(カムパネルラ/米津玄師)

この一節で ―正確には、イントロと「カムパネルラ」のたった5音で―私は米津玄師の世界に惹き込まれた。
彼の音楽を深く理解していたわけではないけれど、今まで、Lemonやネットで何回か聴いたFlamingo、ドラマのタイアップ曲だった馬と鹿、現在進行形でドラマ「MIU404」で流れている感電などを通して、「米津節」とでも言えるような彼独特の世界観が私の中で構築されていたのだが、このカムパネルラのイントロと最初の「カムパネルラ」という5音に詰め込まれた旋律と歌声に確かに米津節を感じた。そこからこの曲に描かれている世界に引きずり込まれる不思議な感覚は、未だ上手く言葉に出来ない。けれど、このアルバムがヒット曲を詰め込んだアルバムという表現には収まりきらない大作であり、ROCKIN’ON JAPAN9月号の表紙で最高傑作だと銘打たれていたのは伊達ではないと確信することができた。
それくらい、数々のヒット曲を抑えて1曲目を飾ったこの曲の数秒のインパクトは絶大だった。
 

アルバムの全てをまだ聴いていない段階で、心を鷲掴みにされた私は、そのままアルバムの収録順に通しで聴いて、やはり最初に危惧していた通り、私は、米津玄師の才能に、音楽に、打ちのめされた。この衝撃をすぐにでも文章として残しておきたい。そう思ったものの、STRAY SHEEPに詰め込まれた楽曲それぞれのインパクトが強すぎて、言語化するのにも脳内で処理しきれず、今も悪戦苦闘しながら文章を打っている。何から書いたらいいのかわからない。

端的に言うと、米津玄師初心者の私の脳はバグを起こしていたのだと思う。
 

アルバム収録曲の一曲一曲が、それぞれ短い物語を読んでいるようで美しく、「宝箱のようだ」と感じた。
それも、大人が大切に整理して宝石を選び抜いた「宝石箱」ではない。子どもが日常の中で、遊び、道端で見つけたものを大切に保管しているような「宝箱」。

一聴した時は、ベストアルバムのような豪華さや、洗練された音作りに、前者のようなキラキラとした「宝石箱」もイメージした。
けれど、2回目、3回目と聴き、歌詞にしっかり耳を澄ませているうちに、私の中で際立ってくるのは『優しい人』の描く「残酷な人間の世界」だった。
子どもは、その無邪気さ故に、例えば蝉の抜け殻のような、時としてドキリとするものを「宝箱」に忍ばせている。
ただ華やかなだけではないのは、アルバムタイトルの『STRAY SHEEP』からも明らかではあるが、改めてイメージを私なりに言語化すると、そんな風に感じた。

そして、そんな「宝箱」のような作品を、サブスクで入手しただけでは満足出来ず、私はCDアルバムを購入した。
以前から、素晴らしい音楽は手元にパッケージとして置いておきたいという個人的な思いを持っていたが、特に米津玄師のCDにおいては、ジャケットやアートブックのデザインも独特な世界観に包まれていて、単なるCDではなく、一つの芸術作品のようだ。手に取ることで、よりその「宝箱」を手中に収めたような気分になり、好きな絵本を買った子どものように心が躍る。
  

さて、単なる「宝石箱」ではない、と感じるに至った、この『優しい人』。最初は綺麗なメロディに耳が奪われていた。曲順的にも、私がアルバムを購入する前から知っているくらい知名度の高い「パプリカ」「馬と鹿」と来て『優しい人』で、そのすぐ後は大ヒット曲「Lemon」、そしてセルフカバーの「まちがいさがし」という流れである。前後をとても分厚いパンで挟まれているサンドイッチ状態。その上に綺麗なメロディで構成されているものだから、ついうっかりサラっと流れてしまいそうになるのだが、通勤途中の車内で流していた時、ある言葉が突然耳に入ってきた。
 

”ババ抜きであぶれて 取り残されるのが 私じゃなくてよかった”
 

ドキリとした。その歌の最後、繰り返される、主人公の切なる願い。
 

”優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに”
 

なんだかとてつもない言葉を耳にした気分で、今、私が聴いたのはなんという曲だったのか、すぐに指でナビ画面からオーディオ画面に切り替えて曲名をチェックして、帰宅してから歌詞をじっくり読みながら聴いた。
 

”気の毒に生まれて 汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った
傍らで眺める私の瞳には
とても醜く映った

噎せ返る温室の 無邪気な気晴らしに
付け入られる か弱い子
持て余す幸せ 使い分ける道徳
憐れみをそっと隠した”

この歌の「あの子」が具体的にどんな状況の子なのかは明記されてはいないけれど、ROCKIN’ON JAPAN9月号の米津玄師の言葉を借りれば、「虐げられる人間」であり、この歌の主人公はそんな虐げられる子を見ながら「そちら側の人間でなくて良かった」と思いながらも、そんな事を思ってしまう自分に嫌気がさしている。そして、虐げられている「あの子」を「綺麗」だと言える「あなた」に憧れ、優しくなりたいと切望している。

認めたくないけれど、私はこの主人公に似た感情を持ったことがある。そして人間は綺麗な感情だけでは生きられない事を知っている。
この歌を聴いて、自分自身の持つ醜い部分が顔を出して、私を見つめているような気がした。
「お前は”あの子”でもなければ”あなた”では決して無い。お前はその歌で歌われている”私”側だろう?」
そんな風に言われている気がした。

だけれど、この歌には残酷さだけではなく「優しさ」が流れているとも感じた。

自らの醜さに気づきながら、あなたのようにはなれない自分を自覚しつつも、そうなりたいと願っている主人公は、そう願い、そうなろうと思っている限り、これから先、優しい人になれる可能性を秘めている。
例えば、この曲を聴いて、今はまだ理想の優しさに辿り着けていなくとも、少しでも優しくあろうとする人が増えていく世界はきっと美しい。

また、私はこの曲の歌いだしが、童話「みにくいアヒルの子」みたいだな、とも思った。
もし、「この歌の世界観がみにくいアヒルの子みたいだ」という解釈が許されるのならば、この『優しい人』を聴いて、「自分は”あの子”側の人間だ」と思う人には、身近に”あなた”のような優しい人がいるかも知れない、今は辛くて耐え難くとも、いつかは美しい白鳥のようになれるかも知れないと、少しでもこの世の中に希望を見出せるのではないだろうか。
 

米津さん自身が「あんまり具体的な説明にしたくはない」としながらも「たとえば、自分のことを好きでいてくれる人たちの中に、現在進行形でそういう、同じような目に遭ってる人間がいるとしたら、その人にとってはすごく暴力的な表現になってしまうんじゃないか」と思い、世に出していいのかとまで迷った曲。(「 」内はROCKIN’ON JAPAN9月号より引用)
だから、この曲中の人物への救いや希望はそんなに単純に語れるものではないのかも知れないけれど、そう解釈する事で救われる人がいるのなら、とも思う。
このアルバムSTRAY SHEEP付属のライブDVDで「なんかこう、(自分の音楽が)大きい船みたいなものだとして、その船から誰も落としたくない。」というようなことを言っていた米津玄師の音楽だからこそ、ただ傷つくだけの曲ではないはずだという想いも込めて。
 
 

「川を流れる岩石は、最初は尖っていても色んな石とぶつかりながら丸くなっていく。人生もそれと同じようなもので、生きていくうちに人も丸くなっていく。」

そんな言葉を聞いた事がある人は多いのではないだろうか。
私はこの言葉を何回も聞いてきたし、なるほどなと納得もしていた。
だからこそ、その言葉に呪われてもいたのだろうか。
大人になるという事は、理不尽な事に遭遇しても、上手く対処して、ある程度の我慢は必要で、人として丸くあらねばならないと思い、綺麗な丸になれない自分の事が好きになれなかった。

だけれど、米津玄師は自身(或いは自身の音楽)について、
「そもそも人間はまるい球体で生まれてきて、そこからいろんな傷が自分の体につくことでいびつになっていって。たまたまそのいびつな形が光を反射した時に、ほんとに偶発的にそれが美しい形であって、たまたま人が喜ぶポップソングとしての適性がある光の反射の仕方だったんじゃないかなあ、ということをずっと思っていて。」
と、前述の例えとは全く逆にも思える事を語っている。(ROCKIN’ON JAPAN9月号より)

引用した部分以外にも、傷ついた事、傷をつけるという事に対する彼の考えを読んで、私はもっと自分の傷と向き合って、その傷をも自分の身体の一部と認められる事が出来ていれば、もう少し生きやすかったのかも知れないと思った。実際は、前述の岩石の例えのように、年齢を重ねるごとに丸くなっていく事しか考えておらず、いびつな自分を認める事が出来なかったし、今以上に傷つきたくなくて、傷つきそうなことから避けて生きてきた。

勿論、傷つかない・傷つけない人生が送れたなら、それが良いに越したことはないのが前提ではあるけれど、無意識に傷つけて、傷つけられて、その繰り返しが人生なのだとしたら、そこから何か輝きを生み出せる人間になれるかも知れない。輝けなくとも、傷ついた自分を憎まずに、嫌いにならずに生きていける可能性もある。米津玄師はそんな気づきもアルバムを通して与えてくれた。
 

改めて、米津玄師は不思議な魅力を持った人だな、と思う。
今まで私が感じてきたポップスターと呼ばれる人たちは、明るくて太陽のような音楽を歌う人が多かった。
そもそもポップスターという語感そのものが、煌めいて見える。
けれど、米津玄師は違う。本人も「自分のことを太陽だと思ったことは一回もなくって。」(ROCKIN’ON JAPAN9月号より)と語っているように、ギラギラ燃える太陽ではなく、闇夜に輝く月が似合う。
月明りはどんなに明るくても、見る人の身体を熱く照らす事はないように、彼の音楽は、聴く人に優しく寄り添う月の灯なのだ。
私のイメージしてきたポップスターとはタイプが違うけれど、それでも米津玄師が紛うことなきポップスターである事は、STRAY SHEEPを聴いたら明白である。

私には人のオーラを見る能力は無い。
だけれど、なんとなく、米津玄師のオーラは虹色に違いない、と感じている。
虹色のオーラを纏い、聴く人・聴く人の傍で、その人に最適な色を自身から少し分けて渡しては、また次の人の所へ渡り歩いている。
そんな映像が頭の中をよぎる。

今まで、少し距離を置いていた米津玄師の音楽。
近づいてみても、圧倒されるばかりで、全然近づいていない。
逆に、音楽だけでなく、ポップスターとしての自分の立ち位置から、あるべき姿・音楽などを深く考えるその姿に畏怖の念さえ感じる。

だけれど、ライブ映像を見ると、彼もまた音楽を愛する一人の青年であり、同じ人間なのだと痛感する。
同じ人間にしては少々、いや、だいぶ輝きが強すぎるけれど、その輝きは彼が生きてきた中で身についた傷から生まれるオンリーワンの輝きなのだろう。
きっと、私には私なりの輝きがあるはずで、それがどんなに小さく、どんなに歪な輝きだとしても見つけ出したいなと思う。

そして、その輝きと共に、時には周りの人の輝きと共に、自分の歩く道を照らして歩いていきたい。
 

そんな事を思いながら、今日も米津玄師の描く世界に耳を澄ませる。

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