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追憶の彼方に~HYDEと志村正彦~

消えても消えない虹色の音楽を紡ぐ二人

既視感を覚えた。昨年からフジファブリック・志村正彦にハマり、今年になって間もなく、彼が写っている音楽誌の切り抜き等で借りている部屋の壁を志村正彦一色に染めた。大きなボードにペタペタ貼った。高校生の頃、文化祭で教室中に装飾を施した時のように楽しい。こういうことは前にもあった。そう、実家の部屋をL’Arc~en~Ciel・hydeで埋め尽くした20年前と同じ感覚になったのだ。手付かずの実家の部屋はいまだにHydeRoomのままである。20年を経て、デジャヴュを体験した。つまりラルクにハマっていた当時と今はほとんど同じ心境なのだ。

ちなみになぜ新参ファンの私が志村正彦の写真をすぐに入手できたのかというと、ラルクやHYDEが好き過ぎて、ROCKIN’ON JAPANを始めとする音楽誌全般を集めていた時期があり、その膨大なラルク&HYDEコレクションの音楽誌の中には当然フジファブリックの記事もあって、古本屋等で探さなくても即、ゲットできたのである。中には保存用、切り抜いたりして楽しむ用など同じ音楽誌が複数あったりして、本当に助かった。おかげですぐに志村部屋を作ることができた。音楽誌を捨てられない質で、実家の本棚や段ボールにギッシリ保管しておいて良かったと改めて感じた。今となれば宝の山だと思う。

HYDEソロ曲「HELLO」、フジファブリック「Hello」の両方の歌詞が最後“ハロー”と言って終わるけれど、部屋を完成させた時、私の中でHYDEと志村正彦が“Hello”と言い合って出会った気がした。

ということで本題に入るが、L’Arc~en~Ciel・hydeとフジファブリック・志村正彦には共通点があるのではないかと思い、それを探ってみようと考えた。

まず第一に、それぞれのバンドには「虹」という代表曲がある。L’Arc~en~Cielというバンド名自体、フランス語で“虹”を意味する。ラルクがブレイクするきっかけとなった曲は「虹」である。
冒頭から始まるサビの激しいバンドサウンドと裏腹にAメロ、Bメロはとても穏やかで、しとしと静かに降り続く雨の後に、嵐がやって来たような印象を受けた。天候の急変を感じさせる楽曲だと思った。嵐の後には美しい虹が架かる。

≪本当はとても心はもろく 誰もがひびわれている 降り出した雨に濡れて 君はまた立ち止まってしまうけど 信じてくれるから≫

≪「少年は人の影に歪んだ憎しみを見た」 そんな世界なんてもう何も見たくないよ 何も!何も!何も!≫

主人公・少年の心情と天候がリンクしていて、歪んだ大人の世界から逃れたいと目を背けて、まるで嵐に見舞われたように心が壊れそうになりながらも、必死に生きていると、“君”というかけがえのない存在と出会う。きっと彼女は嵐の中で生きる少年にとって“虹”のような安らぎをくれる存在だ。

≪誰より高く 空へと近づく 輝きを集め光を求める 燃え尽きても 構わないさ 全ては真実と共にある≫

≪それでも想う 貴方のことを 季節が流れていても… 目を閉じていつも見てた風景のように 何度目かの雨もあがった≫

“君”から“貴方”という呼称に変わっているところがポイントだと思う。つまり時間が経過していて、少年はいつしか大人になっていたのである。ラルクの「虹」という曲は、少年が思春期の嵐と向き合い、“君”、“貴方”という大切な存在と出会い、大人へ成長するという少年から青年への過渡期=架け橋というニュアンスとしての“虹”とも考えられるのである。
葛藤し、もがき、抗いながら成長していく過程で、時折出会える“虹”のような存在の“君”を支えに、たくましく生きる成長物語が描かれていると思った。長い人生を考えれば、思春期なんて虹と同じく、ほんの一瞬の出来事で、刹那の美しさがクラシカルな旋律で奏でられることによって、より美しく繊細に描かれているように見えた。

一方、フジファブリックが奏でた「虹」もラルクの「虹」に負けないくらい美しい。

≪もう空が持ち上がる≫

特に、上記の部分やキーボードソロ部分は本当に空に虹を描くような旋律が印象的で、“虹”に音があるとすれば、まさにこういう音が鳴るだろうと思った。

≪週末 雨上がって 虹が空で曲がってる≫

≪週末 雨上がって 街が生まれ変わってく 紫外線 波になって 街に降り注いでいる 不安になった僕は君の事を考えている≫

≪週末 雨上がって 僕は生まれ変わってく≫

≪言わなくてもいいことを言いたい まわる!世界が笑う!≫

“虹”を見ることによって、“僕”の心情が変化していく。雨が降り、虹が出る度に世界も僕も少しずつ変わって、リスナーもより良い方向へ導かれるような明るく前向きな気持ちにさせてくれる楽曲である。

≪遠く彼方へ 鳴らしてみたい 響け!世界が揺れる!≫(フジファブリック)

≪咲き乱れた花は揺れて 沈んだ大地に降り注ぐ≫(L’Arc~en~Ciel)

両バンドの「虹」において、“揺れる”という言葉が使用されているが、hydeも志村正彦も“揺れる”系の言葉を歌詞の中で使うことが多い。これは第二の共通点である。

≪僕は浮き雲の様 揺れる草の香り≫「浮雲」

≪遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる≫「陽炎」

≪揺れるカーテンの隙間からは入り込む虫達の声≫
≪にじんで 揺れて 跳ねて 結んで 開いて 閉じて 消えて≫「虫の祭り」

≪窓辺にほおづえをついて寝息を立てるあなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる≫「夜汽車」

フジファブリック・志村正彦が作詞した楽曲から“揺れる”という言葉が使用されている代表的な曲をピックアップしてみた。使用頻度は少なくないと思う。

hyde作詞のラルクの楽曲においても“揺れる”系はかなり多い。列挙しきれないので、代表的なシングル4曲をピックアップしてみた。

≪いつでも君の笑顔に揺れて≫「flower」

≪駆けだす世界に心奪われて無邪気な瞳にゆれる≫「winter fall」

≪きらめくように揺れる波紋は春の予感 目覚めの呪文≫「snow drop」

≪あなたのすぐそばにまた新しい花が生まれて 木もれ日の中で鮮やかに揺れてる≫「Pieces」

hydeはラルクの楽曲をライブで歌う時、実際ゆらゆら揺れる動きをすることが多い。志村正彦は体で揺れるというよりは心の揺らぎ、揺らめきを表現していることが多い。両者とも音楽で揺れ動く気持ちを表すことに長けていると考える。

第三として、“ノスタルジー”を感じる歌詞が両者の共通点である。特にラルクの場合、インディーズ時代「ノスタルジーの予感」という名のツアーもあり、初期のアルバム『DUNE』、『Tierra』、『heavenly』あたりはノスタルジックな楽曲が多く、懐かしさ溢れ、過去を彷彿させる不思議な趣の漂う楽曲が少なくないのである。初期のラルクは“ノスタルジーの塊”と表現しても過言ではない。「追憶の情景」、「失われた眺め」、「風の行方」、「瞳に映るもの」、「夏の憂鬱」など当時は英語よりも日本語タイトルの楽曲も多く、使用されている言葉自体がアンニュイし、ノスタルジーを感じられやすい。比較的新しい「叙情詩」という楽曲も懐古的である。

志村正彦が作ったフジファブリックの楽曲もまた、叙情的で“ノスタルジー”を感じられるロックとして定着している。代表曲「茜色の夕日」、「陽炎」、「赤黄色の金木犀」などの歌詞からは童心や過去の情景、古き良き自然の美しさが鮮明に感じられる。
両者のノスタルジーな楽曲は過去の現実を歌っているはずなのに、どこか現実離れしていて、心地よい夢現の世界に誘ってくれる。

夢現な世界の象徴としての“眠り”も両者の歌詞の重要キーワードである。これが第四の共通点と言える。

「眠りによせて」というラルクの楽曲や「SHALLOW SLEEP」というHYDEソロ曲が存在する。熟睡しているというよりは夢を見る時のような浅い眠りを繰り返していて、現実と夢の狭間で“揺れる”心情を描いている。

フジファブリックにも「眠れぬ夜」というタイトルの楽曲があったり、≪眠気覚ましにと飴一つ≫から始まる「お月様のっぺらぼう」や≪眠気ののこった 時計の音≫から始まる「まばたき」など“睡眠”がキーワードとなる楽曲が存在する。

これは先程述べた“ノスタルジー”にもつながることだが、両者が紡ぐ歌詞の儚く繊細で“瞳”を閉じてまどろみたくなる浅い“眠り”の世界がリスナーを不思議な世界へトリップさせてくれるのである。ノスタルジックで夢見心地な両者の楽曲を聞いていると、想像力が豊かになるし、退屈に感じられる現実世界も楽しい世界へと変化する。

“瞳”という言葉を発したついでに、第五の共通点へ移ることにする。

HYDEも志村正彦も目力が半端ない。彼らの美しい瞳に一瞬で心奪われてしまう感覚に陥る。瞳に吸い込まれて、いつの間にか両者の虜になっていた。だから実家と借家のそれぞれの部屋をHydeRoomと志村部屋にしてしまっているのだと思う。

何も見た目の“瞳”の話だけをしたいわけではない。“瞳(目)”もまた両者の楽曲を語る上で重要キーワードとなる。「瞳に映るもの」、「瞳の住人」というラルクの楽曲があるし、≪どこに行きましょうか?と僕を見る その瞳が眩しくて≫「花屋の娘」、≪君のその小さな目から 大粒の涙が溢れてきたんだ≫「茜色の夕日」というようにフジファブリックの楽曲の中でも“瞳(目)”が象徴的である。

両者にとっての“瞳”とは何か。それは自分の目の場合もあるし、大切な誰かの瞳の場合もある。いくら両者のリアルの瞳が美しいからと言って、目は美しいものだけを映し出せるわけではない。つらい現実、悲しい気持ち、目を背けたくなるような場面など美しいとは言えないものも映し出してしまう鏡の役割もある。だから両者の歌詞は淡く儚く透明で美しい夢現の歌詞もあれば、それとは正反対のような反抗心や闘争心、過酷でつらい心境を吐露するような心飾らない剥き出しのリアリティを描く歌詞も多数存在するのである。まるでハイドさんがラルクのhydeとソロとしてのHYDEを使い分けているように、志村正彦もまた、ノスタルジーというひとつの型にはまった言葉では片付けられない対極的な楽曲を作り続けていたのである。

≪虹色 赤色 黒色 白!≫
≪飛び出せレディーゴーで 踊ろうぜ だまらっしゃい≫
(※これらの言葉を何度も繰り返す)「TAIFU」

≪轟音 爆音 騒音 雑言≫(※4回も繰り返す)「All Right」

≪言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな 怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな だな≫「バウムクーヘン」

≪バクバク鳴ってる鼓動 旅の始まりの合図さ これから待ってる世界 僕の胸は躍らされる≫「夜明けのBEAT」

これらの楽曲はとても“ノスタルジー”とは言えない。むしろノスタルジーの対義語として無理矢理当てはめれば非常に“現実的”で“リアル”を感じる。失われてしまった美しい過去を懐かしむノスタルジックな楽曲と反対に、本当は嫌気のさすこともある今というリアルを生き抜くための激しいロックも少なくないのである。

HYDEはそれをラルクの楽曲の中で表現する場合もあるが、多くはソロ曲の中で反骨精神を露わにしている。

≪目覚めたのは 夢の後 偽りだらけの 地の果てへようこそ≫「HELLO」

≪Falling together 深く堕ちてゆく city’s cry We’re falling together 加速 自分さえ見失うくらい 刺し違えど 答えのない Mad Qualia≫「MAD QUALIA」(Japanese Version)

夢見心地から醒めたシビアでリアルな世界が歌われている。激しいナンバーに限ったことでもなく、メロディだけ聞けば“ノスタルジー”も感じられるバラードにおいても、歌詞の中では辛辣な現実も描かれている。

≪めくるめく社会の隅で 心取り残され 先をせく人波に 見えなくなる 僕が消えてく≫「ZIPANG」(feat.YOSHIKI)( Japanese Version)

≪Papers in the roadside tell of suffering and greed
Fear today, forgot tomorrow
Ooh, here besides the news of holy war and holy need
Ours is just a little sorrowed talk≫
「ORDINARY WORLD」(Duran Duran)
≪道端の新聞が苦痛と悲痛を伝える 今日恐れていた事も明日には忘れてしまう 更には聖戦や貧困のニュースまでも 僕らのなんてただのちっぽけな不幸話≫
(※日本語訳歌詞)

近年HYDEがカバーしたDuran Duranの「ORDINARY WORLD」もまた、現実世界を描いている。

つまりHYDEも志村正彦もノスタルジックな名曲を紡ぎつつ、超リアルな痛みさえ伴う嘘偽りのない世界もロック精神で歌い上げてしまうという、対極的な2パターンの音楽を作れる点も共通点と言えるのである。

最初にそれぞれの対極的な楽曲を聞いた時は、本当に同一人物が作った音楽なのか?と驚くレベルだった。ラルク初期のノスタルジーな楽曲と近年の反抗心を剥き出しにしたハードロックHYDEソロ曲を比較するともちろん歌い方自体違っているし、初めて聞き比べたら驚愕すると思う。志村正彦の楽曲も例えば「茜色の夕日」を聞いた後に「All Right」を聞いたら、やっぱり驚くと思う。ちなみに「All Right」はHYDEの楽曲で言えば、「MIDNIGHT CELEBRATION」に近くて、ライブで暴れたくなる楽曲である。

両者に限らず、誰しも二面性というか多面性を持って生きている。いろいろな感情を持って生きているのだから、決まりきった1パターンだけで自分を表現することは難しい。様々な自分の気持ちを表現するためには、ミュージシャンの場合、いろいろなパターンの音楽でアプローチすることは珍しいことではないかもしれないけれど、特にHYDEと志村正彦は“ノスタルジー”と“リアル”という2パターンの音楽をどちらも完成度の高い独自の世界観で表現し、リスナーはまんまと彼らの世界に引き込まれてしまう。どっちのパターンの楽曲も素敵とハマってしまう。

第六の共通点の話に移るが、両者のライブDVDを見て気付いたこともある。
ジャンルとしては同じ“ロック”ミュージックと言えるものの、それぞれのファンから見ればL’Arc~en~Cielとフジファブリックの音楽性やバンドサウンドは違うと言われてしまう気がする。たしかにそうかもしれない。厳密には音楽的に両者はむしろ似ていない方かもしれない。でもやっぱり見逃せない共通点を発見してしまった。それに気付いたら私はますます二人のことを好きになっていた。

最初に見たのは2008年5月31日、フジファブリック・志村正彦の地元・山梨県富士吉田市での凱旋ライブ「Live at 富士五湖文化センター」である。普通地元でライブが出来たら、うれしくて楽しい気持ちが勝ると思うのに、志村正彦は「のほほんとこういう風に楽しそうにやっているように見えますけど、実はそういう、それだけではなかったりして。喜びを感じる時なんて、その何かを成し遂げた一瞬だけであったりして…」、「楽しいだけではなかったんですね。だからそういう気持ちを含め、まぁいろんな出会いや別れやそのいろんなことやものがあって、今日の日がある。」などという心に刺さるMCを残している。音楽を続けて来た9年を噛みしめつつも淡々と冷静に分析し、自己を客観視している志村正彦がすごいと思った。

その後、2019年1月29日、HYDEの地元・和歌山県和歌山ビッグホエールで開催されたライブ「HYDE ACOUSTIC CONCERT 2019 黑ミサ BIRTHDAY-WAKAYAMA-」を見た。同じくMC部分で既視感を覚えた。「和歌山にいる頃、いじめられたり、いろんな別れも経験して、ずっと悔しい思いが消えなかった。そういう経験が今の僕の人格や人生に必要だった。そう思えば嫌な過去も少しは許せるようになった。」、「ほんとは僕なんかって言いたいくらい。みんながかわいそうだから、あまり言わないようにしてたけど。僕を慕ってくれる人がたくさんいて、祝ってもらえて、すごい幸せ者だと思います。」などと志村正彦同様、地元凱旋ライブだからと言って、決してポジティブな発言ばかりではなかった。むしろ同じく自己を冷静に俯瞰していて、ややネガティブな言葉さえ発して、等身大の自分の気持ちをファンに伝えてくれた。

光溢れる澄んだ瞳とは裏腹に、抱えている過去のつらい出来事や、今のもどかしさなど闇の部分もさらけ出してくれて、あぁ、HYDEさんも志村くんと同じく輝かしいミュージシャンには違いないけど、ごく普通の人間として、当たり前だけど悩んだり、つらい思いをしながら生きているんだと気付いて、ますます好きになってしまった。

HYDEさんの口から「僕なんか」という言葉が発せられるとは思わなかった。まるでフジファブリック≪どうせこの僕なんかにと ひねくれがちなのです≫「エイプリル」みたいだと思った。志村くんの心境とまんま同じだって。

ミュージシャンとして歌っている最中はラルクの時もソロの時もファンに幻想的で華やかな夢を見させてくれて、自信を持って自身のパフォーマンスを繰り広げているように見えても、実は自信がなかったり、悩んだりしている面もあって、人間らしいなって気付いたら、志村正彦と似ていると感じた。

志村正彦もどちらかと言えば素は控えめで大人しそうで内向的な性格に見えるけれど、いざライブや楽曲制作となると音楽にかける情熱が半端なく、自身が作り上げた音楽の世界に自信を持ってパフォーマンスしてくれた。音楽にのめり込んでいる時は素の時とは真逆で激しい情熱のロッカーと化しているように見えた。

HYDEもライブ以外では謙虚で物静かで、初めてテレビの音楽番組でしゃべっているシーンを見た時は、ライブパフォーマンスの時とは全然違って控えめなトークをしていて驚いた記憶がある。そしてそのライブ時と素のギャップに惹かれた。

つまりHYDEも志村正彦も大人しそうな性格の奥底に秘めた強く輝く音楽センスが魅力なのである。実は臆病で自信ないのに、ライブでは強気になったり、現実で悲しいこともあるけれど、ノスタルジーな追憶の世界に誘ってくれたり、悩んだりつらいことがある現実も激しいロックチューンで吹き飛ばしてくれたり、「僕なんか」って思う時があっても普段はそんなの微塵も見せずに、弱音はたまにしか見せずに、ファンに音楽を届け続けてくれた。

両者のライブを見て、やっぱり二人は似ていると思わざるを得ない。普段は温厚でやさしくて謙虚なのに、音楽となると情熱的で強気になる彼らは最高にかっこいい。
見た目がどうという話ではなく、もちろん外面も素晴らしすぎる二人だけれど、やはり内面に惹かれる。その魅力的な内面から紡がれる音楽に惹かれる。本当に尊い。

第七の共通点として、言えることはHYDEも志村正彦も音楽界において、虹のように貴重な存在だということ。双方ともに、虹くらいレアな存在である。類まれなる音楽センスと、リスナーを引き付けてやまない唯一無二の独特な天性の歌声と、それから郷愁に浸る繊細な心と過酷な現実をロック精神で斬ろうとするたくましさなどカリスマとしてのすべての要素が兼ね備わっている二人だからこそ、それぞれ多くのファンを獲得し続けている。
志村正彦は亡くなってしまっていても、いまだに新たなファンを増やしている点でやはりすごいと思う。HYDEもまた、日本国内に留まらず、海外にもファンを増やしている。そんな二人の音楽はきっと永遠に生き続ける。リスナーの心に響き続ける。
亡くなってしまった志村正彦は今や存在そのものが“ノスタルジー”になったし、現役で活躍し続けているHYDEは骨董品というか、希少価値のある“アンティーク”のような存在だなと思う。HYDEが慕う画家の故・金子國義先生が描いた絵画と同じくらい価値のある音楽界のアンティークである。

雨が降る中、太陽の光が射し込んで、二重の繊細で儚い七色のアーチが空に架かったのを見た時、これはHYDEさんと志村くんだと思った。その七色のアーチは僅かな時間しか見られず、あっという間に跡形もなく消えてしまったけれど、美しい思い出として印象深い記憶がたしかに残った。虹は消えても、消えない音楽がそこに残った。ダブルレインボーを見かけたらそれは二人の音楽の仕業だと思いたい。
きっと彼らの透明で奥深い瞳の中で今も、ノスタルジックでアンティークなロックが揺れ続けている。

≪時は奏でて想いはあふれる 途切れそうなほど透明な声に 歩き出したその瞳へ 果てしない未来が続いてる≫L’Arc~en~Ciel「虹」

≪遠く彼方へ 鳴らしてみたい 響け!世界が揺れる! 言わなくてもいいことを言いたい まわる!世界が笑う!≫フジファブリック「虹」

彼らの音楽を聞いていると、失われたはずの過去が蘇る気がする。取り戻せた気になる。そしてその取り戻した過去を支えに、現在や未来を今よりもっと生きられる気分になる。ノスタルジーの対義語は現実的、リアルと定義したから少し矛盾が生じてしまうけれど、追憶の幻影ではなく、現在進行形のリアルなものとして、頭の片隅に留めながら、抗いたくなるリアルの中にいてもノスタルジーを感じながら生きていけたらと思えた。

“故きを温ねて新しきを知る=温故知新”ではないけれど、懐古心を触発させる五感の一部である聴覚に届く二人の音楽が私にとっては過去と未来をつなぐ虹のような架け橋になっている。HYDEと志村正彦の音楽から生き方を教えられている気がする。“温”という漢字には“よみがえらせる”という意味もあるらしい。素の性格は春の陽だまりのように温かい二人が過去を蘇らせてくれるノスタルジーな音楽や、葛藤を自己投影させた夏の陽射しのように熱いロックミュージックが私だけではなく、多くの人々の心に虹のように美しい音楽として残ることを願う。

HYDEと志村正彦の音楽について、“ノスタルジー”を感じられ、しんみり静かに曲の世界に浸りたくなるバラードと、“リアル”を生きるため、ヘドバンしながらノリノリで楽しみたくなるロックというざっくり2パターンに分けて説明して来た。それをもっと細分化していけば、2パターンの音楽の中にはいろんなバリエーションがあって、その二色の音楽をもっと細かく分けると、七色の虹色の音楽が完成するだろう。
音楽で消えない虹を描くミュージシャン・HYDEと志村正彦がそこにいた。

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