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変容してしまったロックの時代

ステッペンウルフとドアーズのオールドロック、BUFFALO DAUGHTERのニューロック

STEPPENWOLF(ステッペンウルフ)は1970年代アメリカのロックバンド。彼らの4作目にあたる1969年の「MONSTER」は、サイケデリックロックの、時代の傑作だと思う。初めて聞いてガツンとやられてしまった。まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃があったとしたら、たぶん死んでしまうので、ピコピコハンマーでお願いします、ということだけは重ね重ね強調しておきたいです。

「MONSTER」が映すロックの全体的な強いインパクトは、音の鳴り方が常に上へと飛び出し、前面へと繰り出されて、ダウナーに落ち込まない浮遊感と浮き足立ったビート感で以て成り立っているようだ。例えば1966年のビートルズ「REVOLVER」の音響が強い立ち方で鳴るのと大まかに言って、言い過ぎだとしてもたぶん通じている。ステッペンウルフのバンドとしてもこの「MONSTER」は模索と実験、革新を目指したものではあったのだろう。
ステッペンウルフの最初の出発点は、”Born to be wild(ワイルドでいこう!)”の名曲のインパクトで始まり、それが強すぎたがゆえに、その地点で終わった、かのように忘れられてしまったのか。僕は1970年代のロックのCDを長い間集めていたけれど、大体にして今までにステッペンウルフのアルバムがCD化されて発売されたという情報を見た記憶がない。STEPPENWOLFをCDで探しても、店の在庫に有るのは、”ワイルドでいこう!”の入っている最初のアルバムか、ベスト盤くらいじゃないかと思う。日本ではあまり人気がないのか、今はどうか知らないが、そういうことで、今、ステッペンウルフはアメリカ盤のオリジナルレコードで聴く。
「MONSTER」の良いとこは、やはり全体的なテンションの強さなのだと感じる。一般的に観ればここには名曲に成りうるような、ロックの時代を請け負うような際立った曲が見いだせないのかもしれない。本当にそうだろうか。実はサイド1の最初に置かれている表題曲”MONSTER”から続く”SUICIDE”と”AMERICA”から連なる9分に及ぶ組曲は、この時代に向き合い取り組み描いた社会的な作品なのだろう。ステッペンウルフの歴史上に見てもこれは重要曲だ。このバンドが最初期に取り込んでいたブルースの音楽を、ここではステッペンウルフの独自の音楽としてロックに昇華させていることがよくわかる。サイケデリックの時代を音だけの遊び心で終わらせることなく、幻想から現実へと、目が覚めるような強靭なビートで以て、ワイルドなアウトブルーズとして高らかに放り投げ、それは無数の星になった。ジョン・ケイのザラつく声が不毛な幻想とオーロラを、そこに纏わり付く霧を散らしてゆく。1000のタンバリンを打ち鳴らしたような星空に、この孤独な荒野のオオカミも佇むのだろう。

ステッペンウルフというバンドはアメリカのバンドではないのかもしれない。カナダ出身のバンドだと言われている。しかし主に活動したのはアメリカで、カナダの性質がどう作用しているのかはっきりとしない。同じ時代ならカナダ出身のアメリカのミュージシャンは多い。そういう点で、ステッペンウルフの持ちうるブルース感覚はアメリカ生粋の感触とはいくらか赴きが異質ではあるのかもしれない。ヴォーカルのジョン・ケイの出自はドイツ人らしい。

自分が最初にステッペンウルフを聴いたのは高校2年の時だった記憶がある。僕は1960年代後期のブルースロックが好きで、1970年代ロックの名曲を知りたい時期だったのだろう。ステッペンウルフと同じ時期に一緒に聴いていたのが、アメリカのオールマン・ブラザーズ・バンドとイギリスのブラインド・フェイスだった。グレッグ・オールマンの本格のブルーズ歌唱と、スティーヴ・ウィンウッドの究められたリズム&ブルース感覚、ソウルフル満タンの歌唱力と、加えて各々のバンドのブルーズ信者の強者による演奏に比べれば、ステッペンウルフのバンドとしての分が悪いのは確かなことだった。出発点のステッペンウルフのブルース表現、サイケデリックなバンドの展開も、幾つかの曲では充分とは言えない気がした。そういう印象ではあったのだろう。ステッペンウルフは”ワイルドでいこう!”と言って往くだけ行った当たり屋一発屋だった。そう思ったのかもしれない。大体、他のアルバムが売ってないし、情報も無いのだから、それも当然だ。
ところで、最近になってステッペンウルフを聴くことになったきっかけは、サブスク利用による探索の結果だ。それから、ずっと前に聴いて以来CDも手放してしまった1968年のファーストアルバム「STEPPENWOLF」をレコードで聴きたいというのもある。もう一度ステッペンウルフを探求したい思いがあった。ここ数年の間、気になっているのはアメリカのサイケデリックロックのバンドだった。その自分の探求心はドアーズから始まったのかもしれない。ドアーズの音楽もロックファンからミュージシャンから作家にわたるまで多方面、その時代と共にジム・モリソンの精神性を含めて信仰されているのだろう。しかしドアーズの代表作と言われているのは1967年の最初の2作品だけじゃないか、という情報だけが伝わってくる。他はある意味駄作のように扱いさえされているときがある。ドアーズは分かりにくいのだ。本当に素晴らしいのはどれなのか意見は様々に割れる。そういうところにドアーズの全体像を知るのに、良いアルバムがある。ジム・モリソンが亡くなった翌年1972年に編集盤として発表された「Weird Scenes Inside The Gold Mine」が素晴らしいと思う。ドアーズが発表したアルバムの方向性はそれぞれにあるけれども、一枚のアルバムとして、音質、音響も含めて違和感なくまとめられているのが美しい。2枚組のレコードだ。4面に渡るバランスと方向性がドアーズの真実と質感を浮かび上がらせてゆく。聴き通っていって思う。ステッペンウルフは何処かしらドアーズと通ずるところがあるように思えてならない。ジム・モリソンとジョン・ケイがバンドで果たしている各々の立ち方、声の感触、ロックを演ずることの狂気、ドアーズもまたバンドとしてその音楽展開として、ブルースに根ざしている面はある。この両バンドによるブルースは、しかし本格とは言えないのかもしれない。彼らによるブルース曲のカバーよりも、真に聴くべきはオリジナル曲だと思う。
ステッペンウルフの音楽では、ブルース曲やロックンロール曲から参照し、改曲したような作風も幾つかある。そうであればこそ、4作目「MONSTER」はルーツが見えないロックが表示されているところが素晴らしい。ステッペンウルフの音楽を聴いていくうえで、さらにロックを強く感じさせるのは、5作目にあたるアルバム、「LIVE STEPPENWOLF」だと思う。
1968年の最初のアルバムにおいて、彼ら自身はギターバンドであることを強調してはいたかもしれない。けれどもその強烈さをその後の2作品では強く押し出していないように思える。そして「MONSTER」でも、ギタープレイは殊更に強調されていないようだ。感じるのは音楽と曲との全体像の構成、ロックの鳴り方だと思った。続くアルバム「LIVE STEPPENWOLF」はロックであることの成り方を強調しつつ、彼らがギターによるバンドであることを印象付けるように、ギラついたプレイスタイルが存分に慣らされている。初期の3作でギターを弾いていたのはMichael Monarchで、「MONSTER」以降はLarry Byromに交代している。ライブアルバムを聴く限り、このLarry Byromなる人のプレイは極めて美しいノイズにまみれていて、すがすがしいと言っていいほどだ。ステッペンウルフは一発屋の当たり屋、B級ロックバンドではなかったのだと確信する。荒野のオオカミは、思い込まれた偉大なるロック史から観れば、一匹狼のはぐれ者であったのかもしれない。名曲”Born to be wild”をライブバージョンで聴いてみれば、ガレージロックを想わせる荒っぽさを見つけることができる。ヒット曲を決してエンターテイメントとして聞かせないロックの時代の荒々しさがある。このアルバムをレコードで聴くとするなら、2枚組の各一面ごとに趣向が考えられているのがわかる。ヒット曲、代表的な曲を連覇するサイド、リズム&ブルースとソウル風のグルーヴィーなサイド、ヘヴィーなブルース感覚のサイド、新感覚「MONSTER」の曲から成るサイド、の4面でこのバンドの音楽が表示されている。ステッペンウルフのライブを聴けば、ロックが”ロック”らしくあって何の心配も無かった時代の、潔い勢いを感じ取る。

そうなのだ。これでいいのだ。
バカボンのパパがそう言えば、大人になってしまったハジメちゃんはこう言うかもしれない。
そうなのか?これでいいのか?
お父さん、いや、親父これでいいのかよ、と。
(ハジメちゃんはそんなこと言いません!)
関西風に言うと、オトンほんまにこれでエエんか?と。
(ハジメちゃんはそんなんゆわへんわ!夢をこわさんといて!)
 

ロックは終わってしまったのかもしれない、という、この今の現代。何であるにせよ、ロックに憧れ、ロックをやろうとすれば、そこに現れてくるものは、なにやらニセモノっぽいのが今だ。格好よくやろうとしてるのが見えれば、その先は見なくてもいい気がする。僕が若いときからずっと謎に思っているのは、どうして昔のロックの方が格好いいのかという問題だ。一番最初に感じたのは歌い手の声の質感が変わったことだった。かつてのロックの黄金期には、誰にも真似できないような個性派の声が数々あったのは間違いない。サウンドを素晴らしい感触で、生命ある演奏として聴かせる現代のバンドはたくさんある。しかし、ロックに憧れて昔風にやればやろうとするほどにうるさく聞こえてしまうのは何故なのだろう。歌があざといのはどうしてなんだろう。方法というよりは、同じようなことをやっても響かせられない、そこに時間と時代感の限界があるのかもしれない。
そうなれば、新しい方向性でしかロックを表現として使えないのか。ロックが今面白いとすれば、これまで誰もやっていなかったやり方や発想力で作られたものなのだと思う。

ステッペンウルフやドアーズがオールドロックなら、
BUFFALO DAUGHTERはニューロックだ。
という話の展開には無理がある。
BUFFALO DAUGHTERは日本のバンドだ。ところで僕は1998年に彼らの2作目のアルバム「New Rock」をその発表されたときに聴いたのだった。ニューロックと言っても、これが新しいロックだ、なんていう大それた宣言ではなかったと思う。こういうタイトルの付け方も遊び心だったのかもしれない。それでも、この時代の辺りでロックの表現上の在り方が変容していったのは確かだと思う。日本の音楽では、1997年に発表されたCornelius「FANTASMA」がその先鞭だったかもしれない、とその時は思っていた。Corneliusの新作はもはや渋谷系の音楽では無かった。同じ年に発売されたトラットリア・レーベルのカジヒデキ「MINI SKIRT」がまだまだお洒落な渋谷系を引き続いていたのとは対照的だった。僕はどちらも好きだった。そう思えばGREAT3が1998年に発表した「WITHOUT ONION」も新しい音響と質感を持っていたように思えてくる。それは別としても、CorneliusやBUFFALO DAUGHTERが描いた新しい世界のロックにはそんなにものめり込んでいなかった。その時に自分が感じていたのは、曲の良さ、メロディーの良さ、詞の良さ、を注視することだけで限界だったのかもしれない。僕はエレクトロニックなサウンドの響きが苦手だ。2000年代の音楽はそれが過剰になってゆく流行なのか、その傾向が強いものは避けている。今現在聴いてみて、これくらいなら大丈夫、という感じのエレクトロなサウンドは、Corneliusの「FANTASMA」とBUFFALO DAUGHTER「New Rock」だ。BUFFALO DAUGHTERの以降の作品を聴いてみて挫折してしまったのは数年前。今はどう感じるのか分からない。「New Rock」はドイツのクラウトロックに影響されているというが、荒削りな感触がなんだか魅力的だ。時代としてヒップホップの影響もあり、ロックの刺激としてギターもドラムも響きが素晴らしいと思う。僕は今これをレコードで聴き直している。この盤を見つけたとき、2年くらい前、店ではほとんどカス盤みたいな値段が付けられていた。時代に忘れ去れてしまったのか。それは悔しい。美しいアルバムだと思う。僕はクラウトロックの事に詳しくないので何とも言えないのだけれども、こういう感じが20年経って格好いいと思えるのなら、彼らの遊び心も実験性も、確信をもって革新だったと言っていいのだと思う。

良い音楽はまだまだたくさん忘れている。思い出せないでいる。それを探している。

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