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のうぜんかつらの唄 ときがたってわかりはじめるおんがく

安藤裕子「Merry Andrew」が心地いい日々に 想う音楽

安藤裕子の2006年のアルバム「Merry Andrew」を最近よく聞いている。朝ごはんを食べながらゆっくりという時、本を読みながら少し集中しているという場面、夜の寝支度をする時間、空間に、この音楽は心地良い。いま、歌詞の内容や細部を聴き込んでいるわけではないので、このアルバムの音楽や唄を詳しく言い表せる言葉は今のところ見つかっていないので申し訳ない。

安藤裕子さんの2011年発表のアルバム「大人のまじめなカバーシリーズ」を数年前に聴いていた事があったけれど、ここで最初に注目していたのは、くるり、の名曲”ワールズエンド・スーパーノヴァ”がカバーされていたところからだったのだろう。このアルバムで聞いてみた安藤裕子さんの印象は素敵な歌い手であり、魅惑の歌い方が特徴の人だった。「大人のまじめなカバーシリーズ」のジャケット写真を見る限り、安藤裕子さんがはっきりとどういう人なのかはよく分からなかった。確か、子どもの時の写真が使われていたんじゃないかと思う。「Merry Andrew」のアルバムを手にしてみて初めて安藤裕子さんがどんな人なのか姿が分かった。そうして彼女自身の音楽を聴くのは今はじめての事になる。僕は安藤裕子という歌手が居たことすら、この十数年の間知る事がなかった。最初に彼女の存在を教えてくれた人がいる。なんでも子供の頃に、安藤裕子の”のうぜんかつら”という唄を繰り返し聴いていたのだという。僕はその話を聞いて、その時すぐに、”のうぜんかつら”なる唄を聴いてみた。その記憶が今は薄くなってわからなくなっているのがもどかしいのだけれど、良い曲で素敵な唄だと思ったのだと信じよう。今実際に聴くと、懐かしい想いがする。懐かしいというのは初めて聞いた時の記憶のことじゃない。もともと懐かしい感覚と感触のある音楽なんだと思う。一度聞いて以来それから何年も経って今は繰り返し繰り返し聴いている。”のうぜんかつら”の曲が収録されているアルバム「Merry Andrew」に於いても、この曲は中心となる重要曲なのかもしれない。3曲目に登場し、14曲目最後にもう一度”のうぜんかつら(リプライズ)”として現れて締め括られている。

このアルバムは、実に大作なのだろう。時間は70分近くにもなる。60分でも70分でもCDの時代では当たり前くらいのものなのかもしれないけれど、レコードに置き換えるなら、2枚組のボリュームになるだろう。実際に数年前に「Merry Andrew」はアナログ盤の2枚組で発売されていたらしい。ここ十数年、レコードを集めている人には気になるイベント、レコード・ストア・デイというのがある。毎回多種の音楽がレコードとして発売されている。そのラインナップのなかの一つとして、安藤裕子「Merry Andrew」もレコード化されたのか。今は手に入らないその時だけの限定品らしい。中古レコードで探すという手もあるが、そもそもプレス数が少ないものは、中古であっても見かけることは珍しいし、高価なレア盤になってしまうのだろう。毎年定期的にあるレコード・ストア・デイのリストを見ることがある。今までCDとしてしか発売されていなかったアルバムがレコード化されていたり、レアな音源や未発表ライブなどの珍しいレコードが多数あって、興味は尽きないのだけれど、これらは限定品というだけあって、すぐに手に入らなくなる。今は買えないけど、来月再来月と、もたもたしてると無くなってしまうものでもある。「Merry Andrew」がレコードで聴けないのは残念だ。いや、しかし「Merry Andrew」の音楽は、それを再生するプレイヤーが何であっても良い感じなのだと聴いていて思った。僕はCDを簡単なラジカセみたいなプレイヤーで聴くけれど、それでも安藤裕子さんの魅力と音楽はよく伝わってくる。レコードプレイヤーとスピーカーの前に座って真面目に正座をして、音の星屑とその線を音響の星座としてつなげてみなくとも、伝えたいことのほんとうは、夜に聞くラジオの音楽から届く月明かりみたいにしんみりと柔らかい。音楽には願いがある。詞の言葉通りではなくて、音楽の路の角から吹く風が静かに、願いを伝えてくる。

“のうぜんかつら”を聴いていると想う。子供の頃にいったいどういう気持ちでこの曲を繰り返し聴いていたんだろう。それを僕に教えてくれた意味は何だったんだろう。深く受け取らなかった自分に後悔はある。伝えるはずの言葉をまちがえた。悔やんでも時は戻らない。だから今、そうだからこそ、この曲を自分も繰り返している意味を考えている。僕は今、大人で、おじさんの年齢になっているけれども、どこかで子供の気持ちに戻っていく瞬間がある。忘れない感覚というのがある。子供の心と、この音楽には関係があるのか。「Merry Andrew」のジャケットにはこう記されている。”Jozuni Nakenai kodomotchi He”

“上手に泣けないこどもたちへ”
 

「のうぜんかつら」安藤裕子 山本隆二

“撫でて 優しく のうぜんかつらの唄のように

あなた何を見てたの?
ソーダ水越しでは あなたが揺れちゃって
あたしは迷っちゃって いつか一人になって

二人の時間も泡みたいになって 
あなたの匂いを一人捜していた

昔見つけた唄は 赤い花の道を
二人がいつだって手と手を取り合って
並んで歩くのよ

私も二人みたいに あなたと並んで
いつまでも道を行けると思ってた

そして 手は探る
あなたと居た町思い出せなくなる前に
声を聴かせて 笑顔を見せて 肌を伝えて

そして 赤い花空に舞う度に
あたしとつないだ手と手
道で揺らして このまま二人続くと言って

撫でて 優しく あの日のようにうまく微笑むから”
 
 
 

“のうぜんかつら”の唄を、歌詞を見ながら聴くといつも気になるのは、最後に、”あの日のようにうまく微笑むから”というところの、うまく微笑むから、が、うまくわらうから、に唄い替えられていることだ。それは”のうぜんかつら(リプライズ)”でも同じだった。
 

僕は”安藤裕子”と”のうぜんかつら”の曲を教えてもらった。自分だって伝えようとした音楽があった。それが今になってどういうふうになったかは分からない。もしかすると自分がそうであるようにいろいろと思い出して聴いてみてくれているのかもしれない。記憶の何処かに残って、これからふと思い立って聴いてみようと思ってくれるならうれしいと思う。

僕は最近、1960年代のアメリカのポップグループ、Millennium(ミレニウム)を思い出している。彼らの唯一のアルバム「BEGIN」は1968年の発表だ。これは1990年代の時代、何かと話題にのぼったアルバムだったと思う。90年代後半から2000年代にかけて、ミレニウムとその中心人物Curt Boettcher(カート・ベッチャー)のアルバムやそれらの未発表曲がCDとして多く発売されていた。カート・ベッチャー唯一のソロアルバム「There’s An Innocent Face」がCDで初めて発売されたのもその辺りだったのだろう。これはよく聴いていた。それから、日本のバンド、GREAT3が1997年のアルバム「Romance」の中で、ミレニウムの名曲”There Is Nothing More To Say(語りつくして)”をカバーしていたというのもある。
ミレニウムの音楽と音響の実験は、今でも斬新な影響力を持ちうるかもしれない。音楽と曲自体が放つ時代感を古いと思ってしまうのは仕方ないとしても、魅力は磨り減っていってはいないだろう。カート・ベッチャーはコーラスの魔術師と呼ばれている。彼が手掛けたプロデュースやアレンジャーとしての仕事を追っていってみても、その驚きの編曲と録音技術、空間的な計算で以て、ポップスの時代の新しい切り口として今も有効な、音楽と音響の魔法を感じることが出来る。大胆なアレンジによって歌い手の声の力を素晴らしく美しい感覚に引き出してゆくカート・ベッチャーの、彼自身の声も天使のごとく空を舞う。1973年のソロアルバム「There’s An Innocent Face」のジャケットを見ても、写真に映るカート・ベッチャーは天使みたいに見える。ビーチ・ボーイズとブライアン・ウィルソンの作曲と斬新なハーモニーはポップミュージックとして現代に語り継がれているが、しかし同じ時代に居た、同じくカリフォルニアポップの重要人物であるはずのカート・ベッチャーは忘れられてしまったのか。カート・ベッチャーはブライアンにも影響を及ぼしたんじゃないか。20年くらい前はブライアン・ウィルソンと共にカート・ベッチャーの再評価も著しいものだったのに、今はどうなんだろう。

数年前にCurt Boettcher「There’s An Innocent Face」のアルバムをレコードで手にした。それからカート・ベッチャーがプロデュースを手掛けたThe Association(アソシエイション)の1966年のレコード、Tommy Roe(トミー・ロウ)の1967年のレコード「It’s Now Winter’s Day」を運良く手にした。僕がレコードを集め始めた9年くらい前には、ミレニウム「BEGIN」のレコードを幾らかは見かけたのだけれど、最近は全然ない。そうして今ならさらにレア盤として高価な値段が付けられているんだろう。それは諦めるしかないから今はCDを聴こうと思う。ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」が素晴らしいというなら、ミレニウム「ビギン」も美しい音楽だ。ミレニウムを聴いていて踊ったことはないが、今度聴いたときはカチャーシーを踊ってみようと思う(イーヤササ)。

僕はMillennium「BEGIN」を貸してあげた事がある。家でいっしょにトミー・ロウやアソシエイション、カート・ベッチャーのレコードを聴いたことがある。その音楽は実は届かなかったのかもしれない。
僕には安藤裕子と”のうぜんかつら”の唄が今になって届いています。

それから関係がなくとも今はサイケポップをもう一度聴いていきたい気分になってきている。Tommy Roeの曲で、”Moontalk”というのがある。それを聴いてまたカート・ベッチャーへの情熱がよみがえった。ロックの世界で、名盤とされているCrosby Stills Nash & Young「Deja Vu」の音楽が時折、スマートフォンのアプリから聞こえてくることがある。彼らによる颯爽としたコーラスのアレンジはフォークミュージックから来ているんだろうと思うが、それならば、カート・ベッチャーももともとはフォークミュージックのグループを出発点としているのだったことを考えれば、名作「Deja Vu」に於けるコーラス、ハーモニーのスタイルも幾らかはカート・ベッチャーのタイプと通ずるところがあるのかもしれないという妄想が広がってゆく。CSNYのN、Graham Nashが1960年代に活動していたグループ、HOLLIES(ホリーズ)の1967年のサイケデリックポップなアルバム「Butterfly」を聴くと、これはその当時のビートルズに影響を受けたという情報よりも、実際の感触はコーラスの成り立ち方がカリフォルニアポップのようでもあり、カート・ベッチャーみたいな気がしてくる、という妄想が漂ってくる。ホリーズはイギリスのグループだけれども、こういう経験が後々のCSNYの斬新なコーラスのハーモニーに繋がってゆくんだろう。

それから以前からずっと気になっていたレオン・ラッセルとマーク・ベノによるASYLUM CHOIR(アサイラム・クワイア)というグループというのか、デュオなのか、その二人による1968年のアルバム「Look Inside The Asylum Choir」を聴いている。これもサイケデリック時代のポップな作風だ。後にスワンプロックの時代に活躍する両者が、その最初期にも、アメリカのルーツミュージックを探求しているところが聞こえてくるが、ここでは総体的にポップさが際立っている。ホリーズの「バタフライ」を聴いて、次にアサイラム・クワイア「ルック・インサイド・ジ・アサイラム・クワイア」を続けてもさほど違和感はない。

とりあえず、同じ感覚を自分なりに思いついて組み合わせてみて聴いていくやり方で、僕は音楽を聴いていく。それは強引で無理があるのかもしれないが、発見を繋げてゆくのは面白い。まちがっていれば後で道を修正したらいい。音楽への興味を尽きさせない方法はこういうところかと思う。大切なのは記憶だ。聴いて感じて覚えた音の肌触りだと思う。

最近、レコード・ストア・デイで発売されたなかで気になるのは、デヴィッド・ボウイの未発表ライブ音源をアルバムにした「I’M ONLY DANCING(THE SOUL TOUR 74)」だ。
アイム・オンリー・ダンシング(ザ・ソウル・ツアー1974)というのは、デヴィッド・ボウイがその年のアルバム「Diamond Dogs」のライブツアーを続けて、次のアルバム「Young Americans」へ繋がる時期のライブ音源らしい。「ヤング・アメリカン」からの曲が早くも演奏されているがスタジオ録音はまだされていないのだろう。僕は「Diamond Dogs」の辺りなら、ドラムを叩いているのは、ブリティッシュロックの強者トニー・ニューマンじゃないかと期待したが、実際にそのレコードを見てみると、既に、デヴィッド・ボウイのバンドは「ヤング・アメリカン」のメンバーに替わっているのだった。あのアルバムでは、主にアンディ・ニューマークがドラムでウィリー・ウィークスがベースだったが、ここには居ないから、レコーディングまでの間でどういう経緯で、彼らが参加したのかが気になる。デヴィッド・ボウイの名曲”Fame”とビートルズのカバー曲”Across The Universe”の2曲だけ、アルバムのなかでウィリー・ウィークス、アンディ・ニューマークの両人が演奏していないらしい。そしてその2曲はこの「ソウル・ツアー74」で演奏しているドラム奏者Dennis Davisと、ベース奏者Emir Ksasanによる録音らしい。だとすれば、アルバム制作最初期に出来たのがこの2曲だったのかもしれないという想像をする。

全然関係がない話。
でも、デヴィッド・ボウイを今でも好きでいてくれたら僕はうれしい、という話にしておきたい。

デヴィッド・ボウイのアルバムのなかで一番好きなのが「ヤング・アメリカン」だという自分はたぶん変わっているのだと思う。しかし、このアルバムでの難曲を唄いこなすボウイの歌唱力は凄まじいと思う。ボウイならではの個性的な歌が、唄の上手さとして時代に語り継がれていないのは気になる。デヴィッド・ボウイの個性はそのロックの時代のスター性ではなくて、実はその歌唱力によって成り立っているのだと僕は思った。「ヤング・アメリカン」を聴いて初めて理解した事だった。
 

まとまらない話をするために書き始めたわけじゃない。音楽アルバムが必ずしも整合されていないように、完璧さはない。目指していない。伝えらきれないことはある。
安藤裕子「Merry Andrew」は美しいアルバムだ。僕が作りだすものは結局のところ駄作であることを認めたい。安藤裕子さんの詞を借りて、”のうぜんかつら”をリプライズさせてこの文を締め括るのがいいと思う。
 

“そして 手は探る
あなたと居た町思い出せなくなる前に
声を聴かせて 笑顔を見せて 肌を伝えて”

“昔見つけた唄は 赤い花の道を
二人がいつだって手と手を取り合って 並んで歩くのよ

私も二人みたいに あなたと並んで
いつまでも道を行けると思ってた”

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