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生きているだけじゃダメだろうか

中村一義とパノラマパナマタウンへの憧憬

<<僕は死ぬように生きていたくはない。>>
<<僕は死ぬように生きていたくはない。>>

若かったころ、私は中村一義さんを真似て、そう口ずさみながら日々を過ごしていた。

このフレーズが含まれる楽曲は「キャノンボール」である。本曲の歌詞を、論理的に読み解こうとすることは、恐らくは無粋な試みなのではないかと思う。

<<僕は死ぬように生きていたくはない。>>

ただ、その思いがあふれた、熱く、熱く、どこまでも熱い楽曲である。「死ぬように生きる」、それがどのような「ありよう」を意味するのか、よく分からないようで、分かるような気もして、私は(何かに取りつかれたように)執拗に「キャノンボール」を歌っていた。

中村一義さんの意図とは違うのかもしれないけど、当時、私が思っていたのは「妥協をしたらオシマイだ」ということだった。なりたい職業があるなら、誰かから「それは厳しい世界だ」と諭されようと目指さなければならないと思っていたし、好きな女性がいるのなら、自分とは不釣り合いな(魅力ある)人に映ったとしても、追わなければいけないと考えていた。

そうやって己を奮い立たせられないのなら、心に炎を宿せないなら、生きていても仕方ないとさえ思うことがあった。私は自分に厳しく、そして不遜でもあったのだと、今にして思う。当時の私は、自分のことしか見ていないエゴイストであり、同時に「死ぬように生きている」年長者のことを見下すような、世間知らずの若造でもあった。

それから私は、いくつもの挫折を味わうことになる。様々な場面で妥協をすることになる。夢が叶わない実例を知ることになる。

そして今、まさに「死ぬように」日々を過ごしている。どうやったら食いつなげるか、どうすれば他人様にかける迷惑を最小限にとどめることができるか、そんなことばかりを考えている。

生きるだけで(生き残るだけで)手一杯なのだ。それでいて、何かしらの「夢」を見なければ心がやつれてしまうと感じ、亡者のように、ぼんやりと手を伸ばしてもいる。なりたくなかった大人、その顔が、いまノート・パソコンの画面に、うっすらと映る。

私は「社畜」という言葉が嫌いだ。組織に貢献しているだけ、その人は立派だ、たとえそれが、やりたくはない仕事だとしても。そして家で待っているのが、心からは愛せないパートナーだとしても、その人生を第三者がバカにするなんて許しがたい。妥協にまみれた生活であっても、それを破綻させないだけ、その人たちは立派だ。

そうとでも思わなければやっていられない、そんな39歳になってしまった。成熟したのとは違うと思う、ただ、疲れてしまったのだ。どうしようもなく疲れてしまったのだ。

***

最近、よく考えることのひとつが、もう一度、若き日に戻れるとしたら、私はパノラマパナマタウンの「フカンショウ」に感情移入できるだろうか、ということだ。こんな風に熱く生きることができるだろうか、自分に正直に歩みたい、そういった渇望を抱いて日々を過ごせるだろうか。そんなことを考える。

<<髪が長えとか服がだせえとか それが地味とか逆に派手?>>
<<知らねえよ!>>

ここまで書き進めて、ふと思ったのだけど、「もし若き日に戻れるとしたら」というのは、あまり生産的ではない仮定かもしれない。いま、ここにいるのは、すでに年を重ねてしまった私であり、その私が思い描く「若い私」は、かつての自分と完全一致などしないだろう。だから私は「フカンショウ」の主人公に、何か言えることがないかを考えてみる。

…正しい、うん、あまりに正しいよ。

そんな言葉が口をついて出る。楽曲「フカンショウ」で歌われることは、何ら間違ってなどいないと、「死ぬように生きている」私でさえ思う。パノラマパナマタウンの歌声と演奏は、輝かしいものに聴こえる。それでも、その思想が「正しすぎる」がゆえに、私は切なくなる。

<<塾に行けとか恋をしろとか 真面目がいいとかよく遊べ>>
<<知らねえよ!>>

批判や忠告は「知らねえ」と受け流すくらいがちょうどいいと、私は心から思う。経験的な見地から思うのだ。同じことをやっても(たとえば同じ言葉づかいをしても)ある人からは「不遜だ」と叱責されるし、べつの人からは「慇懃無礼だ」と咎められる。本当にそうなのだ、この社会は、そういう風にできている(実際に経験した私には、そう言い切る資格があると思う)。

いくつかの組織に身を置いてきた私は、時に「媚びることを知らないから可愛がられないんだ」と諭され、また時には「忠犬みたいだ」と揶揄された(※これ、犬に対しても失礼な暴言ですよね)。その時々で、私が態度を変えていたわけではない、いつの日も私は私である。その姿や振る舞いが、ある人に嫌われるし、ある人には別の意味で厭われる。だから人の意見なんて聞くものじゃない、それでも人は独りでは生きていけない、もう「知らねえ」と叫びたい。

だから「フカンショウ」の主人公を応援したくなるし、いつの日か彼が私のように疲れ果ててしまうことを想像し、悲しくもなってしまう。

***

いかん、これが「誰のための文章」なのか、自分でも分からなくなってきた。私は社会に対して(いい歳になって)叫びたいのか、それとも若者を励ましたいのか、その両方なのか。そもそも「死ぬように生きている」私に、偉そうに何かを発信する資格などあるのだろうか。

結論のようなものは書けそうにない。これは結論のない「音楽文」だ。「そんな記事、アリか?」と、ここまで読み進めてくださった人に呆れられてしまったかもしれない。私は品行方正であることもできず、かといって「不良」にもなりきれない、じつに退屈きわまりない中年男として、それでも、もう一度、つぶやいてみる。

<<僕は死ぬように生きていたくはない。>>
 

ああ、それでも、日々は確実に過ぎていって、心も体も擦り減っていって、生きているのか死んでいるのか、自分でも分からないのです。誰かひとりでも、この駄文に共感してくれる人がいるでしょうか。

<<どんなセリフを吐いたって 一人じゃ怖いから>>

※<<>>内は中村一義「キャノンボール」、パノラマパナマタウン「フカンショウ」の歌詞より引用

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