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ここはゼロサムの世界なのだろうか

ヒグチアイやMr.Childrenも投げかけてくる問い

10年以上、前のことになるのだけど、ある地方文学賞でトロフィーをもらったことがある。それを私は(あまり)喜べなかった。そのころ私は職場で、激しいハラスメントに遭っていて、吉事を喜べるだけのエネルギーを持たなかったのだ(授賞式の写真を見返すと、げっそりと痩せた姿が映っている)。そして(当時の)恋人との関係が終わりかけていたので、失礼を承知で言うならば、コンテストでの入賞など「焼け石に水」の出来事だった。

受賞を喜べなかった理由は、もうひとつある(こちらのほうが本レポートの主眼である)。参考資料として配布された「最終選考者リスト」のなかに、10代の少女がいたのだ。

文学賞に応募するというのは、大人にとっても相当に勇気(あるいは思い切りとでも表現すべきか)を要する行為である。そして予備選考をくぐり抜けられるのは、全体から見れば数パーセントの作品だけだ。私は彼女が、その「惜しい落選」を、どのような気持ちで受け止めているのかを想像した。そして自分のような、いい歳をした・伸びしろのない書き手の作品より、彼女の作品が選ばれたほうが「世のため」には良かったのではないか、そのようなことを思ったのだ。

<<歓喜の裏側で 誰かが泣く運命>>

Mr.Childrenは楽曲「fanfare」のなかで、そんなことを歌う。このあとには

<<それが僕でも 後悔はしないよ>>

という歌詞がつづく。「fanfare」は勇ましい歌だ。それでも僕の頭に、いつの日もこびりついているのは「前者」のセンテンスである。

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コンテストでの入選・落選というのは、かなり極端な例かもしれないけど、この世界は<<歓喜の裏側で 誰かが泣く>>場所なのではないかと、この年齢になった今でも、私は考えつづけている。私自身が、べつのコンテストで「いいところ」まで進みながら、惜しくも入賞を逃し、目の前が真っ暗になるような思いをしたこともある(その時は「何かを悲しめるだけのバイタリティがあった」ということにもなるかとは思う)。

それに限らない。

大学なり専門校なりの入学試験に合格した時、その喜びの裏には(定員割れの学校でもない限り)進学の機会を得られずに泣いている人がいるはずだ。就職についても、ほとんど同じことが言えるだろう。そして素敵な彼女なり彼氏なりができた時には、そのお相手に焦がれていた人たちに、私たちは深い挫折感を味わわせていることになる。

そんなことを考えていると、人間が「幸福」になることが、この世界で起こり得るのだろうかと、私は途方に暮れてしまう。

Mr.Childrenの新曲「turn over?」には

<<だからさ よく考えてみて 機嫌直してよ>>

というセンテンスが含まれるけど、私の心に突き刺さってくるのは、その前に置かれた

<<誰かしら泣いてんだよ 栄光と美談の裏で>>

というメッセージのほうである。どんな喜びの裏にも悲しみがあるのならば、私たちは何を目指して歩けばいいのだろうか。何を「希望」にすればいいのだろうか。

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ヒグチアイさんは楽曲「誰かの幸せは僕の不幸せ」のなかで、もっと明け透けに、こう歌う。

<<誰かの幸せは僕の不幸せで>>
<<誰かの不幸せは僕の幸せで>>

悲しい歌詞だなあと感じると同時に、不遜にも「よくぞ言って下さった」とも思う。この社会の成り立ちを活写するような、残酷でありながら美しいリリックだと思う。

これを書くべきか、随分と迷うのだけど、私は「あいつの幸福は、俺の不幸のもとに成り立っているのだな」と、ハッキリと感じていた時節がある。俺は不幸だ、その代わりにアイツが幸福になった、そう確信していた時代があるのだ。

具体的には…いや、この話はやめよう。そして前述したように、ある少女の夢を踏みつけるようにして、自身がトロフィーを受けとってしまった経験を持ちもする(そして、その時に、幸福を感じさえしなかったのだ)。

<<誰かが端にならなきゃ みんなの幸せの余りさ>>
<<誰かが橋にならなきゃ 犠牲はしょうがない>>

ヒグチアイさんはグイグイと「ことの真相」に迫っていく。理想論や夢物語を切り裂くように歌う。それを私は、尊い試みであると感じもするし、容赦のない芸術表現であるように感じもする。「誰かの幸せは僕の不幸せ」は名曲であるけど、「ただの名曲」だとは言い難いと思う。

それでもヒグチアイさんは、こうも歌うのだ。

<<考えてみたんだ すべての人がつながる術を>>

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私たちは、自分が幸せになることで、その様(さま)を世間に向けて発信することで、見知らぬ誰かを幸せにすることもできるのだろうか。そんな御伽噺のようなことが、この世界で起こりうるのだろうか。

無い知恵を必死に絞ってみると、私としては「可能性は僅かながらある」と(今のところ)思っている。キーワードになるのは「嫉妬」だと思う。この感情を人びとが捨てた時、何とかして捨てようと心がけられた時、万人を幸せにできるという発信が、この世に存在しうるのではないかと考える。

私は一応、Twitterのアカウントを持っているのだけど(有効活用をできてはいない)、そこには「誰かの幸せ」があふれている。

こんな場所に行きました、誰かと幸福な時を過ごしました、美味しいものを食べました、などなど。

誰かを傷つける意図など毛頭ない、和やかな発信だ。それでも、リアルタイムで「不幸」を味わっている人たちには、そういった「喜びの声」は、どう響くだろうか。美味しいものを食べた人は、それによって、直接的に誰かを不幸にしたわけではない。それでも「誰かが美味しいものを食べたこと」をさえ喜べない、そういう心的状況に追い込まれることも、人の生においては十分に起こりうることだと思う。

私たちは「満たされない」時間帯にあっても、嫉妬という感情を捨てて、誰かが幸せであることを願えないだろうか。それとも私たちは結局のところ、有限の幸せを奪い合うように生きていくしかないのだろうか。

***

もうじき私の、無二の親友に、第一子ができる。それを私は、心から「喜ばしい」と、いまのところは考えている。それでもこの先、自分の心に何が起こるかは分からないものだと、経験的に考えてもいるのだ。嫉妬という感情は恐ろしいものだ、それは足音もなく近寄ってきて、人間が本来的には果たせるはずの「皆で幸せを共有すること」、それを遠ざけてしまう。

<<だけどわかりあいたいなあ わかちあいたいなあ>>

いま私の願いが、ひとつだけ叶えられるなら(ひとつしか叶わないなら)、何を願うだろうか。私は人を祝ったり、その成功を喜んだりできる、そんな人間でありつづけたい。幸福感の連鎖を破壊したくない。大それた願いだろうか、それとも、ささやかで叶う可能性のある祈りだろうか。

皆さんは、どう思いますか。

※<<>>内はMr.Children「fanfare」「turn over?」、ヒグチアイ「誰かの幸せは僕の不幸せ」の歌詞より引用

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