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第3回 入賞 | 2017年2月27日

阿部幸大 (29歳)
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Out of the Pocket――「ネオ・ソウル」再考、あるいは複数化するグルーヴ

0.Out of the “Grid”

 2000年のリリース以来ほとんどカルト的と評すべき支持を得続けているD’Angeloの名盤『Voodoo』は、その制作過程において、ギターのバッキングをLenny Kravitzに打診していた。だが、ドラムのサンプル・トラックを試聴したKravitzの反応は以下のようなものであったという――
“I can’t play with this-there’s a discrepancy in the drum pattern.”
 はたせるかな、Kravitzはオファーを辞退することになるのだが、ここで彼がドラムパターンに正しく聞き取っている “discrepancy” はしかし、『Voodoo』というアルバムが孕むおそらくはもっともクリティカルな要素であった。英和辞書的には「矛盾・不一致」を意味するこの “discrepancy” という表現を本稿では暫定的に「ズレ」と訳出しておきたいのだが、この「ズレ」こそは、2000年以降10年以上にわたってさまざまに解析され、模倣され、消費されてきた対象なのである。
 『Voodoo』のドラマーであるAhmir “Questlove” Thompsonはこの「ズレ」を指して、 “drunken-style-but-staying-on-beat” あるいは “post-J Dilla approach to drumming” と表現している。これらの言い回しがそれぞれに示しているのは、第一に『Voodoo』のドラムパターンの「ズレ」は明確に意識的・人工的なそれであったということであり、第二にその「ズレ」を画期的なかたちで最初に見出したのはJ Dillaであるということである。J Dillaが「ズレ」を創出した経緯については後述するつもりだが、ここではその「ズレ」をいわば「ポップ」な次元に落とし込むことに成功した最初の――そしておそらくは最良の――アルバムが、ほかならぬ『Voodoo』であったということを示唆しておきたい。
 ところで、「ズレ」が「ズレ」として認識されるためには、「ズレていない」状態、すなわち「正しい」位置というものが存在していなければならないはずだ。そこで想起されるのは、昨今しばしば目に/耳にするout of the gridという言い回しである。「グリッド」とは、たとえば「1小節をn等分したものがn分音符である」といった整然とした数学的基準、つまり「ジャスト」のタイミングを指し、out of the gridとは、したがってジャストからの逸脱を意味している。そしてこの反グリッド的傾向の源泉へと遡ればわれわれは『Voodoo』そしてJ Dilla的「ズレ」におのずから逢着するはずだ……。
 ジャンルの話に移ろう。『Voodoo』あるいはD’Angeloといえば現在では「ネオ・ソウル」的な音楽の典型として一般的に認識されている。これは名プロデューサーKedar Massenburgがモータウンの起死回生を掛けてErykah Badu、とりわけ『Mama’s Gun』(2000)――やはりQuestloveがドラムを叩いている――と『Voodoo』とに併せて貼りつけた、マーケティング色の強いレッテルであった。『Mama’s Gun』や『Voodoo』がほんとうに「新しいソウル」なのかどうか、という議論はさほど実り多いものにはなるまい。ジャンルの名称などというものはえてしてミスリーディングなものである。だが、こと「ネオ・ソウル」というジャンル名に関しては、ひとつの大きな問題がある。つまり、『Voodoo』というアルバムがあまりに大きな――おそらくは予想以上の――影響力を獲得してしまったがゆえ、そしてそれと同時に、『Voodoo』においてもっとも目立つ特徴、その新しさは、まさに上述の「ズレ」というファクターにあったがゆえに、「ネオ・ソウル」という呼称と「ズレ」とは、切り離せない絆をはからずも取り結んでしまったのだ。
 本論に入るまえに、近年の音楽シーンが「ドラマーの時代」と捉えられていることにも付言しておくべきだろう。Chris Dave、Richard Spaven、Mark Guilianaといったドラマーたちのポピュラリティを想起されたい。音楽の三大要素はリズム・メロディ・ハーモニーである――というクリシェが正しいのかどうかはさておき、現代はリズムという要素がかつてなく前景化されている時代であるという事実には疑いを容れない。もちろんその「現代」の幕を切って落としたのが『Voodoo』というアルバムであったというのが本稿の立場である。
 「ドラマーの時代」の中核に「ネオ・ソウル」というジャンルがあり、そのまた中心には「ズレ」があった。このような見取り図を得るとき、「ネオ・ソウル」は「ソウルのリヴァイヴァル」としてのサブジャンルたることをやめ、ひとつのムーヴメントとしてわれわれの眼前に立ち上がってくるだろう。以下の論考は、その正体を掴まえることを目的とする。

1.The “Groove” Is Dead!

 音楽は時間芸術である。だがその意味するところは、たとえばソナタ形式に内在するような音楽の「物語性」を感受するには一定の時間を要するといった事実にとどまるものではない。音楽の時間芸術的側面がもっともマクロな次元においては「物語」として現れるとすれば、もっともミクロな次元において看取されるそれは「グルーヴ」である。どういうことか。
 グルーヴという概念あるいは現象については、その語源的解釈から始まって、さまざまな説明がなされてきた。しかしながらリズムというファクターに焦点を当てる本稿においては便宜上、さしあたり以下のごく単純な要素に話を限定して議論をすすめることにしよう。すなわち、第一にグルーヴとは、1・3拍目にキック、2・4拍目にスネア――ドッ、タッ、ドッ、タッ――、という基本パターンが反復されることによって生じる快楽である。
 ここで注意しておきたいのは、このグルーヴ的快楽は、いわゆる4つ打ち系の音楽に合わせて4分音符で身体を動かすことに伴うトランス的快楽とは根本的に異なるということだ。4分音符にあわせて飛び跳ねる「乗り方」がいわば「点」的であるのに対し、グルーヴのそれは、キックとスネアの音色の差異とそれらの関係によって生じるがゆえに、一定の「幅」を必要とするためである。
 だが真に重要なのは、キック(ドッ)とスネア(タッ)の音色の違いそのものではなく、それらのあいだの「関係」のほうなのだ。先の「ドッ、タッ、ドッ、タッ」というロックの基本パターンにおいては、よく知られているように、「ドッ」から「タッ」までの距離、すなわち、キックが鳴ってからスネアが鳴るまでの時間と、「タッ」から「ドッ」までの時間は、等しくない。前者のほうが長いのである。これは演奏・聴取の感覚としてはスネアが「遅れて」聴こえるため、スネアの「レイド・バック」と呼ばれる。これがロックのビートが「グルーヴ」するための条件である。すなわち、スネアが少しだけ遅れて鳴る(=ジャストで鳴らない)ことにより、そこに一瞬ながら宙吊り状態の緊張が生まれ、その緊張が2拍ごとに絶妙なタイミングで解消されるというわけである。和声的語彙で比喩的に言い換えれば、ロックのグルーヴにおいては2拍単位でリズム的テンション&リリースが生じている。2拍ごとに「解決」が起こっているのだ。これがさきに述べたグルーヴの時間性ということの正確な意味である。トランス的快楽とは異なり、グルーヴ的快楽はグリッド的な正確さからは生まれない。
 「ロック」という限定には語弊があるかもしれない。というのも、上述の2拍解決ユニットの反復によるリズムの推進というメカニズムは、現代のわれわれを取り巻くほとんど全てのポップ・ミュージックに通底しているものだからである。4分の4拍子の圧倒的なヘゲモニーはしばしば指摘されるところであり、また一目瞭然でもあるが(3拍子の曲さえめったにない)、それらの音楽には、2拍解決のユニットで進行してゆくグルーヴの構造がつねに付随しているのである。
 ゆえに、普段われわれが耳にする音楽にリズム的な「気持ちよさ」――グルーヴ的快楽――があるとすれば、それはすでにジャストからの「ズレ」(=スネアのレイド・バック)によって発生していたのであり、したがって、『Voodoo』のようなリズム的逸脱の説明としてout of the gridという表現は二重に不十分である。グルーヴはこれまでもグリッドに乗ってなどいなかったのだし、であれば『Voodoo』が「逸脱」してみせたところの「基準」とは、グリッド=ジャストではなかったことになるからである。ではその「基準」、すなわち「ズレていない状態」と見做されるものとは、いったい何か。
 スネアのレイド・バック、すなわちジャストからのズレ具合には、当然のことながら程度の差が存在する(程度の差が存在しないのは数学的基準のみである)。そうである以上、そこには許容される範囲というものがあるはずだ(たとえば8分音符ひとつぶん遅れるといったことは有り得ない)。この遅れの許容範囲は、むろんデジタルな解析も可能なのだろうが、プレイヤー界隈においては、おおむね「わかる奴にだけわかる正しいタイミング」として暗黙裡に了解されているものである。そしてこの基準は俗に、「ポケット」という符牒で呼ばれてきた。
 この「ポケット」を最初に体現したと考えられるのは――The Beatlesではなく――Led ZeppelinのJohn Bonham(1948-80)であった(むろんグルーヴ概念をこれよりも長いタイムスパンで捉えることは可能だろうが、それを十分に考察する準備はない)。イギリスのロック・ドラマーであるBonhamが70年代に打ち立てた基準を、80年代にアメリカ西海岸の売れっ子スタジオ・ミュージシャンJeff PorcaroがMichael Jacksonの『Thriller』(1982)に代表されるポップ・ミュージックをつうじて人口に膾炙させるに至り、最終的に、スネアのレイド・バックは聞こえなくなった。つまり、レイド・バックした状態が全面化した結果、そのズレこそがデフォルトの座を獲得したのであり、ひるがえって、その「ちょうどいいズレ」の基準を内面化したプレイは、”in the pocket” という表現でその「正しさ」を承認されるようになったのである。
 かくして「ポケット」は不可視化され、ひとつの「制度」となる。じつのところ「ポケット」というリズム的基準はスネアのバックビートのみに限定されるものではなく、あらゆる楽器のあらゆる出音に対してそれぞれに作動する、いわば監視装置のようなものなのである。この装置が厄介なのは、数学的基準とは異なり、それが「わかる奴にだけわかる」という神秘的なものであるためだ。それは、数学的基準からの別の種類の逸脱を否定し、唯一の正しいグルーヴのあり方、すなわち唯一の正しい快楽としての覇権を握る。
 したがって、『Voodoo』的な逸脱が破壊しようとしていたのは、グリッドという数学的基準などではなく、ポケットという名のイデオロギーであった。「ズレ」たビートが仮に「気持ち悪い」、あるいは「間違っている」と感じられるとすれば、それはわれわれの耳がグルーヴ的快楽の条件として「ポケット」という唯一の基準しか許容しようとしないせいではないのか、その制度化された「気持ち良さ」に安住しているせいではないのか――『Voodoo』というアルバムは、そうした問いをわれわれに突きつける。
 だが、ここで次なる疑問が生じる。それは、そもそも彼らにこのような逸脱的な発想が可能になったのは、いったい何故だったのだろうか、というものである。以下ではその歴史的な条件について考えつつ、『Voodoo』的逸脱の必然性を捉えることを目指そう。

2.Taming the “Discrepancy”

 冒頭でも述べたように、『Voodoo』的な「ズレ」の源泉はJ Dilla(1974-2006)にある。その名は、繰り返すならば、D’Angeloの発案によって『Voodoo』に織り込まれることになったドラムのズレの感触を指し示すのにさえ想起される名なのであって、いわば、これまで述べてきた「ズレ」の特許権はJ Dillaというアイコンに帰属すると考えられているのである。
 だが、本稿が目指したいのは、たとえば「このズレを発案したのは本当にDilla」なのか、といった時代考証的なものではない。言うまでもなく、本人が夭折したこともあって、このようにして言及されるDillaの名はたぶんにロマンティサイズされたものである。したがって、以下ではDillaをひとまずその第一発見者であると仮定したうえで、では彼がそれを発見できたのは何故だったのか、というふうに問いを立てたいと思う。歴史を画するような価値ある発見というものは、けっして偶然になされるものではない。そこにはつねに歴史的必然性がある――あるいはこれは一般化に過ぎるかもしれない。言い換えよう。それを発見することが大きな価値となるような対象を「発見」することは、その対象の発見が価値であるということを認識しうる条件が整ったときにのみ、可能となる。
 まわりくどい言い方になってしまったが、これは逆に表現したほうがわかりやすいかもしれない。すなわち、Dillaが1990年代に「発見」した「ズレ」は、90年代以外の時代においては、そもそもそのようなズレとして認識されることが不可能だったはずなのである。つまり、Dillaの発見したズレは、90年代において初めて「ズレ」として世界に存在し始めた種類の「ズレ」なのだ。
 Dillaの経歴を語るさい、かならず言及されるのが彼によるMPC(Music Production Center)と呼ばれるサンプラーの(巧みな)使用である。MIDIやドラム・マシンといった電子機器がテープ・エディットなどに取って代わるようになるのは80年代以降の出来事であり、Dillaがそれらを触り始めたのは、それが普及した90年代のことであった。
 ここでひとつのポイントになるのは、こういったサンプラーは、パッドによって手で直接音を打ち込むことが可能だったという点である。たとえば、クリックに合わせて1小節ぶんキックとスネアのパターンを右手と左手を使ってタイミングを見計らいつつ入力すると、その1小節の単位が無限にループする、といったしくみだ。今現在「打ち込み」や「手打ち」といったときに想起されるような作業のことである。だが、もちろん手で入力すれば――むろんドラムセットに座って四股でプレイしても同じであるが――不可避的にグリッドからの「ズレ」が生じることになる。そのため、サンプラーには「クオンタイズ」という機能が備わっている。これはつまり、ちょっとしたズレをグリッドに「吸着」してくれる、いわばリズム補正機能のことである。
 ここまで述べれば、Dillaによってズレがどのようにして見出されたか、もはや想像がつくだろう。Dillaは、クオンタイズを経ないズレた手入力のビートをあえてそのまま提示したのだ……。
 しかし、である。なぜクオンタイズを経由しない、少しばかりズレているだけのビートが、それほどまでの衝撃を持って受け止められたのであろうか。たとえば、すでに見た「ポケット」からしてすでに「ズレ」を内包していたはずではなかったか。Dillaのズレの何がそれほどまでに特別だったのか。われわれは何かを見落としているのではないだろうか。
 MIDIなどのテクノロジーはドラマー不要説という恐怖を定期的に引き起こし、かつ、その恐怖はつねに杞憂におわってきた。このこと自体が面白い問題を含んでいるのだが、それはすぐ後で述べるとして、ここで改めて思い出したい事実は、ドラム・マシンが脅威になり得たのは、それがあまりに正確であったためだ、という素朴な認識である。だがしかし、その意見を素朴だと考えるとき、ドラム・マシン以前には完全にジャストな演奏というものはこの世に存在しなかった、という事実をわれわれは忘却しているのではないだろうか。つまり、それまでは真の意味での「ジャスト」というもの、最初から最後まで寸分の誤差もなく刻み続けられるビートというものは、実質的には実現不可能だったのである。
 言い換えるなら、「ジャスト」はドラム・マシンがついに「達成」したものであっただけではなく、それは、ドラム・マシンというテクノロジーと同時に「発明」されたものだったのである。したがって、「ポケット」がそこから遅れていたはずの「ジャスト」とは、数学的・抽象的に措定された基準であったにすぎず、じっさいに人の耳によって聴かれたことはなかったのだ。そして、さらに重要なことに、「ズレ」という概念は、その「ジャスト」の発明の瞬間に、その対立項として、構造的に存在を開始したということである。「ズレ」と「ジャスト」は双生児として産まれた。
 そして、「ズレ」という名の異形の鬼子を育て上げた親、それがJ Dillaであった。しかし先にも述べたように、「ポケット」もまた「ズレ」のひとつであったはずだ。したがって、ここには2種類の「ズレ」が存在している。ポケット的なズレと、Dilla的なズレ(=discrepancy)である。そしてDillaはおそらく、このことを正確に知っていた――すなわち、ポケットというズレが、快楽のありかたを独占しているという事実をである。したがって、彼はジャストと同時に出現したズレを、非ポケット的な方向へと、意図的に増幅していったのである。彼は別のリズムへ、そして別の音楽へと向かった。そしてついに別の快楽、別のグルーヴを説得的に提示することに広く成功したのが、『Voodoo』というアルバムだったのである。
 このとき、グルーヴのありかた、「気持ち良さ」のありかたは、一挙に複数化するだろう。このとき、大文字の〈グルーヴ〉、すなわちポケットは、死滅する。Kravitzの言う “discrepancy” こそがこのアルバムのもっともクリティカルな要素だったと冒頭で述べたのは、このような意味においてである。そこでKravitzが聴き取っていたのは、「ポケット」という制度からの脱出、すなわち “out of the pocket” という解放的スローガンの叫びだったのだ。

3.Choose Your Weapon

 冒頭で、現代(おおむね2000年以降)はドラマーの時代である、と述べた。菊地成孔がどこかで、Robert Glasper Experimentのアンサンブルを評して「ピアノがドラムの伴奏をしている」と述べたことがあったように記憶するが、現在の音楽シーンをドラマーが率いているらしいことは誰の目にも明らかである。そこで、Dillaがサンプラーによって革命を起こしたという事実と、そのインパクトの圏域にある現代がドラマーの時代であるという事実との関連を、最後に整理しておきたい。
 この問題を考えるにあたって重要なのは、楽器はそれぞれの種類によってテクノロジーとの「棲み分け」のありかたが大きく異なるという事実である。たとえばMIDIのようなショボいサウンドで、トランペットとドラムのどちらが再現しやすいかを考えてみてもらいたい。おそらく打楽器はあらゆる楽器においてもっともテクノロジーとの相互干渉が激しい楽器なのであり、したがって、ドラムを演奏する人間がいっこう絶滅の兆しを見せない以上、ドラマーはつねにテクノロジーの脅威を「乗り越えてきた」ばかりでなく、むしろその脅威を、技術的限界のブレイクスルーの契機としてきたはずなのだ。
 この事実からわかることは、次の2点である。第一に、人間の技術的限界は認識の限界によって制限されているということだ。つまり、機械によってであれ何によってであれ、世の中に新たな「音」が生まれれば、それを人間はどうにかして再現してしまうということである。これはあらゆる複雑なパターンを素面で繰り出すChris Daveにも当てはまるし、Dillaが機械で発明した「気持ち悪さ」を人力で再現してみせるQuestloveにも当てはまることだ。第二に、「ドラマーの時代」たる現代の音楽においては、リズムという分野においてこそ新たな地平が開拓されているということだ。「『Voodoo』のドラムはズレている」という主張には、むしろすべての楽器のタイミングがズレているのではないか、たとえばギターのカッティングだってズレているはずだ、という反論が当然ながら想定される。然り、たしかにすべての楽器がズレているのである。ただし、それは打楽器という分野においてドラムとマシンとの特異な関係によって見出されたものの他楽器に対する「応用」にすぎない。だからこそ、現代はドラマーの時代と呼ぶに値するのである。
 そしてこの時代が実現したのは、Dillaのアヴァンギャルディスムがポップな次元に落とし込まれた、『Voodoo』の衝撃の結果であった。であるならば、このアルバムと共に記憶されているネオ・ソウルというジャンルの本質は、あらゆるグルーヴ的快楽のありかたの追求というムーヴメントとして、再定位される必要があるだろう。
 議論を整理しよう。70年代において、正確にグリッドに乗った「ジャスト」の演奏は、実質的には存在していなかった。けれども、それを数学的に措定したうえで、そこから少しだけ遅れて鳴るというテンション・アンド・リリースの構造に則って「グルーヴ」は成立し、これはやがて「ポケット」と呼ばれ、グルーヴ的快楽の唯一的な条件となった。つづいて、80年代から90年代にかけてサンプラーが普及するに至り、「ジャスト」というものが実体として出現し、それと同時に、「非ジャスト」としての「ズレ」が構造的に生じることになった。このとき、グルーヴ的快楽を生むことができる唯一のズレ=ポケットと、それ以外のズレ= “discrepancy” という2種類のズレの存在が明らかとなる。Dillaはこの “discrepancy” を洗練させ、ついに2000年、ポケットとは別のグルーヴ=別の快楽の提示に成功した。かくして、21世紀初頭にはリズム大変革の時代が訪れることとなったのである。
 したがって『Voodoo』以後の21世紀を生きるわれわれには、数学的な基準である「ジャスト」、制度としての「ポケット」、そしてそのどちらからも逸脱する「ズレ」という3つの選択肢が与えられていることになる。本稿が「ポケット」を問題視してきたのは、それがわれわれの「快楽」のありかたを唯一的に決定する排他的な制度だからである。そして『Voodoo』というアルバムを高く評価したいのも、それが「快楽」の複数的なありかたを提示することに成功したからである。それは完全な意味で、ポケットから脱出した。そしてそのリリースから15年以上が経過した現在、われわれは、いかなるズレによって快楽を生み出すことも怖れる必要はない。そう、これからは、どんな武器を選んでもいいのだ。

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