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2017年2月28日

ぽんず (19歳)

RADWIMPS 野田洋次郎が描く生と死

―"光"とは―

 人間の手によって生み出される創作物には、作品の主題にまつわる思想だけではなく、作者が意図せずとも、宇宙のあらゆる要素が自然と内包されているものである。心の内的な変動はともかく、現実世界で起こるあらゆる出来事における外的な影響を作者は決して受けないことはない。つまり、アーティストもまたわれわれと同様に生き物であり、楽曲はアーティストの時点的な現在を間接的に知ることのできるひとつの媒体であるのだ。

 RADWIMPSは2009年に5thアルバム『アルトコロニーの定理』をリリースした。タイトルからもわかるように、以前のアルバム群とはあらゆる面において一線を画したものであり、このアルバムから「おしゃかしゃま」や「オーダーメイド」といった生と死を主題とした曲がRADWIMPSの音楽において重要な位置を占め始めてきたことがわかる。そして、2011年に発売されたアルバム『絶体絶命』ではそれは顕著に表れる。

 “明日に希望を持った者だけに 絶望があるんだ/何かを信じたものだけに 裏切りはあるんだ“(億万笑者)

 人間は死すべき運命を背負った存在である。しかし、人間はその運命が訪れる正確な時点を知らない。死は絶えず未来の中で揺れ動く不定的な存在であり、それは普遍的な日常の生の隣に横たわっているような、ともすれば明日触れてしまうかもしれない存在なのである。幾重に連なる生と死の縞の上に築かれた日常――人間はその明滅の上を不確かに歩いているのである。生まれるべくして生まれながら、しかしその生は保障されてはいない人間。そして、死を定められていながらなおも生き続けなければならない人間。人間は生きるべくして生まれた存在ではなく、まさに死ぬべくして生まれた存在なのであった。人間は生まれてこなければ絶望を知ることも、裏切られることも、死ぬこともないように、野田にとって生とはそれだけで絶望であり、否定的なものであった。やがてそれはアルバム発売直後に発生した東日本大震災によって確信的なものとなる。
 『絶体絶命』というアルバムは、野田自身の存在を、ひいては一人の人間としての存在を徹底的に突き詰めた作品であった。その上でこのような死生観が描かれているのであるが、それでも野田はこの世界の一切に絶望しているのではなかった。なぜなら、『絶体絶命』というアルバムは〈君〉という存在を通して〈生〉への肯定を見出していたからである。つまり、野田にとって〈君〉という存在はただ一つつかまって寄りかかれる存在であり、そして、絶望的な生の中に射し込む一条の光であったのだ。このアルバムからこれまで野田が対象としてきた〈君にとっての僕(客観的な自分)〉という視点は、〈僕にとっての君(主観的な君)〉へと変化していることがわかる。野田は自分自身を徹底的に見つめることによって〈君〉という存在の価値を再確認とその存在の再定義を試みたのである。

 “君がいなくなったら/きっと僕も消える/だって僕は 君の中にしか生きられないから”(救世主)

 野田自身にとって〈君〉という存在は不可欠なものだった。しかし、大震災がもたらした惨禍は、ともすればその関係さえ容易に破壊しかねないものであった。『絶体絶命』の根底にあった野田の死生観は現実の事象をもって現れてしまったのである。そのとき、不可逆的で絶対的な生のシステムに対する絶望は確信へと変わったはずである。だが、野田はなおもこの世界に諦観しながら、それでも唯一の希望である〈君〉という存在の絶対的な所在を探し続けた。

 “言えない 言えないよ/今君が死んでしまっても 構わないと思っていることを”(いえない)

 2013年にリリースされたアルバム『×と○と罪と』。震災によってさまざまな事物の意味が揺らぎ、すべては宙に浮いたまま行きどころをなくし、ただ混沌とする世界において、そのあらゆる動態を受容するためには、それぞれを善悪と罪に分別し、現実世界の構造の新たな価値判断をしなければならなかった。この行為の前提には生に対する絶望があった。それゆえ野田は〈君〉という存在を新たな想像の世界への逃避を試みたのである。それは、現実世界における〈君〉の存在をほとんど放棄してしまうということであった。『絶体絶命』では生のシステムを否定しながら、<君>という存在を通して現実に肯定的であろうとした。しかし、『×と○と罪と』において野田が見出した答えは、生と死の本質の逆転であり、<現実の否定>であった。翻ってみれば、それは野田の死生観の底流にあるものだった。『×と○と罪と』でそれはほとんど思考停止的に、犀利的な凶暴さをもって浮き彫りになったのである。
 だが、2016年にリリースした8thアルバム『人間開花』では野田の思想は大きく転換する。

 “私たちは光った /意味なんてなくたって”(光)

 このアルバムの根幹をなすのは、アルバムのリードトラックのタイトルでもある「光」そのものであった。野田が『アルトコロニーの定理』から追求してきた死生的な主題とは、ほとんど真反対ともいえるほど肯定的で希望に満ち溢れたものだった。
 『人間開花』における〈君〉は明らかに〈人間〉としての君である。それは『絶体絶命』以前の、もはやRADWIMPSに対する固定的な認識ともいえるほど、普遍的で恋愛的な君と僕の在り方といえる。
 このような変化が起きた要因としては、RADWIMPSが映画『君の名は。』の音楽を務めたことが第一に挙げられるだろう。しかしここで留意したいのが、この映画によって生まれた「光」や「前前前世」が単なる付随音楽ではなく、それ以上にRADWIMPSの音楽であるということである。たしかに、これらの曲は映画から着想を得て発展したものであるが、それでもその一切を反映したものであるとはいいがたい。冒頭に述べたことを踏まえれば、たとえそれらが映画音楽としてつくられたものであっても、そこには少なからず野田の人間性がアウトプットされているのである。とすれば、このような変化は単なる回帰的なものではなく、一連の死生観を超克した、ひとえに前進的なものであるといえるのだ。
 『アルトコロニーの定理』を起点に発展し続けた野田の生の追求は、しかし現実の予想外の破綻に方向を見失い、なおかつ現実と思想の予期しない同調に錯乱をきわめ、一度は深淵を臨むような停止的なかたちとなった。だが、野田はその上に新たな原点的な視座を置いた。生としての人間存在という視座である。人間は生まれるべくして生まれ、生きるべくして生まれるのである。その生の一瞬は、儚く、そして美しいのだ。
 人間は人間の条件の下でしか生きることができない。だから人間は死において無力の存在である。しかし、死という存在が人間の生に色彩を、光を与える。その光を得た人間は、人間の連関において希望の光となる。そして、その光は死の上でなおも輝きを増し続けるのである。

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