563 件掲載中 月間賞発表 毎月10日

2017年11月14日

ちーかま (23歳)
771
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

心の鍵

BUMP OF CHICKENによせて

「あなたの心に鍵はかかっていますか。傷付くのが怖くてとか踏み込まれるのが怖くて鍵はかけてるのかなぁ。うん、かけとけよ。鍵とか。ガッチガチに。それでいいと思うんだ。」
 

私が知る限り世界一優しい音楽を奏でるバンド、BUMP OF CHICKEN藤原基央(Vo・G)の言葉である。
本当に心が疲れてもう立ち上がれそうにない、という時におまじないのように必ず聞くラジオ音源がある。未来の鍵を握る学校をテーマにした某ラジオ音楽番組。BUMPが先生としてでていた週の、最終回。放送された当時の私は音楽自体に興味も抱いてなかった小学校5年生。このラジオ音源と出会ったのは、ちょうど自分の将来に悩み苦しんでいた高校2年生だった。テスト前、もう勉強したくなくてネットを漁っていた。「心の鍵」という動画のタイトルにちょっとくさいな、と思いながら再生ボタンを押した。
 

「鍵なんて全然かかってるもん。俺もかかってるもん。哀しい事じゃないと思うんです。当たり前だよ。大事な柔らかい部分あるんだもんなぁ。俺もあるよ。それ一生懸命守ってんだもんなぁ。すごいカッコいいと思う。立派だと思う。」

なんてあたたかい人なんだろうと思った。だめな自分をまるごと無条件に肯定してくれるようなその言葉が、イヤホンから五臓六腑に沁み渡る感覚がした。

《大切な夢があった事 今じゃもう忘れたいのは それを本当に叶えても 金にならないから 痛いって程解ってた 自分のためのあなたじゃない 問題無いでしょう 一人くらい消えたって》《世界のための自分じゃない 誰かのための自分じゃない 得意な事があった事 大切な夢があった事》(才悩人応援歌)
《諦めなければきっとって どこかで聞いた通りに 続けていたら やめなきゃいけない時がきた》《一人だけの痛みに耐えて 壊れてもちゃんと立って 諦めた事 黄金の覚悟 まだ胸は苦しくて 体だけで精一杯 それほど綺麗な 光に会えた》 (firefly)

私は小さい頃から絵を描くことが好きだった。絵画コンクールでは毎回賞をもらっていた。昼休みに友達がこのノートに絵描いて!と頼んだまま外へ遊びに行き、私1人だけ教室に置き去りにされても、褒められるのが嬉しくてもっと上手くなりたいと思った。小学校4年生の時の私の将来の夢は「漫画家」だった。某少女漫画の主人公が病と闘いながらも歌手になる姿をみて、自分もいつかこんな漫画を描いてみたいと鼻息を荒くした。その夢は自分の「誇れるもの」だった。

しかし、学年があがるにつれてその夢への情熱に自ら鍵をかけるようになった。どれだけ頑張っても絵画コンクールで最優秀賞はとることができなかったのだ。ノートに描く自作の漫画が、憧れの漫画家のほとんど似たものになってしまうのも自分でわかっていた。母の口癖は「あんたにはアイディアがないから。もっと上がいるよ。」「1番好きなことは仕事にしちゃいけない。」だった。結局いくつ賞をとっても自宅に私の描いた絵が飾られたことは1度もなかった。
母が夢を頑なに嫌うのには理由があった。祖父が好きなことをして仕事を辞めてしまったせいで、幼少期の母と祖母達はとても苦労をしたのだ。私に苦労をして欲しくないからこその母の思いだったが、当時の私はそんな母の思いを肯定的に受け止められず、自分の心にいくつもの鍵をかけた。
 

「中には鍵を厳重にかけすぎて…自分を表現する事が難しくなって、結局学校にしても…会社にしても何となくで選んだり、何となくでそこで過ごしたり。――鍵かけたせいでね。」

“上には上がいる”絵を描いて食べていけるだけの才能は自分にはない。絵を描くことは仕事にしない。中学校3年生の時にははっきり決めていた。心に厳重に鍵をかけたこと自体忘れたかった。他に「誇れるもの」を見つけなくてはいけない。がむしゃらに勉強した。その甲斐あって、高校は県で3本指に入るような進学校に入学できた。しかし、ここでも“上には上がいる”ということを痛感した。入学したことに軽くバーンアウトしてしまい、成績は学年320人中300位をとったことさえあった。
美術部には入らなかった。今更興味もわかないもののために朝と夕方を費やす気にはなれなかったので帰宅部だった。学校が終われば真っ先に帰宅してただ時間をつぶした。

たった齢15歳で夢を諦めるには我ながら少し早すぎたと思う。しかし、「安定した仕事にすればいいんでしょ」というなげやりな考えが深く根をはってもう消えることがなかった。自分の不甲斐なさを誰かのせいにしてはいけない。要は自分自身が自分の才能を見限って信じてやれなかっただけだ。才能不足の現実と自分の夢の格差に真摯に向き合って、将来について調べ尽くして、それでもなりたいと頭を下げれば、美大を目指すことにもきっと両親は応援してくれたと思う。
 

《恥ずかしいくらい 悔しかったから 追わなかったあの日が追いかけてくる》(歩く幽霊)
《繰り返す事を疑わずに 無くす事を恐れずに 自分のじゃない物語のはじっこに隠れて笑った そうしなきゃどうにも 息が出来なかった たいして好きでもない でも繋いだ毎日》(pinkie)

BUMPの奏でる曲達はただなんとなく毎日を消費していた情けなくてだめな私さえ受け入れてくれた。他の将来の夢をみつけなくてはならないと頭のどこかで分かっていても、彼らの音楽にくるまっては過去の夢を悼んだ。十分な努力さえしようとしなかったくせに、叶えてあげられなかった夢へのせめてもの供養、と自分の心の中でも嘯いた。ただただ鍵をかけた心をひとりよがりに癒したかったのだ。

将来を決める高校2年生。
あのラジオ音源と出会った歳。文系よりは理系のほうが安定している、物理は皆無なので生物、という消去法で生物クラスに入った。生物クラスは大きく分けて医療系か生物系の職種を目指す人が多かった。人と関わることは好きな方だし、何より安定している職業だから、という舐めた理由で看護師になろうとなんとなく思った。

そんなときだった。
親しかった数学の先生が交通事故に遭って重体だという知らせが入った。大型トラックとの正面衝突。幸い先生と奥さんは命をとりとめたが、生後4カ月の娘さんは命を落としてしまった。衝撃だった。

《まだ見える事 まだ聞こえる事 涙が出る事 お腹が減る事》《大事な人が大事だった事 言いたかった事 言えなかった事》(Smile)
《分けられない痛みを抱いて 過去に出来ない記憶を抱いて でも心はなくならないで 君は今を生きてる ちゃんと生きてるよ》(ガラスのブルース ラジオ音源Ver)

私にそんな権利はないはずなのに胸が張り裂けそうだった。もう先生は帰ってこないね、学年でそんな噂が流れていた。なにか、なにかできないだろうか、と毎日考えた。先生の居場所はここにあると、快復を願っていると、それだけしか伝えられなくても、友達の協力も得て細部までこだわったクラフトカードを作った。もう忘れたいと思っていたわずかな才能がまた役に立つ時が来て、満足のいくものを贈ることができた。
8ヶ月後、先生は帰って来た。以前よりひとまわりもふたまわりも瘦せこけた笑顔で、学校に行くのが本当に怖かった、カードがあったから戻ろうと思えた、と打ち明けてくれた。さいごに「看護師、むいてるよ。」と言ってくれた。色んな感情が溢れて泣いてしまいそうになった。さすがに「誇れるもの」とまではいかないが、その時2つ目の夢がやっと夢になった。

《飛ぼうとしたって 羽根なんか 無いって知ってしまった 夏の日 古い夢を一つ 犠牲にして 大地に立っているって 気付いた日 未来永劫に 届きはしない あの月も あの星も 届かない場所にあるから 自分の位置が よく解る》《君をかばって 散った夢は 夜空の応援席で 見てる 強さを求められる君が 弱くても 唄ってくれるよ》(Stage of the ground)

医療系大学の看護学科に入った。看護師になるための努力は想像を絶していた。テストとレポート課題は毎週あった。実習中は終わらない記録を午前3時まで書いて、早朝6時には家を出る。実習先で寝ずに書いた記録を「これじゃわからない」という指導者の一言で突き返され、実習中の行動1つ1つに根拠を求められた。世間一般のいわゆるウェイ系大学生がバイトに恋愛にウェイウェイしているのがうらやましかった。自分の要領の悪さに嫌気がさして自分に看護師はむいていないと何度も思った。それでも彼らの曲は何度でも私の心の鍵を拾い上げてくれた。

《自分にひとつウソをついた 「まだ頑張れる」ってウソをついた ところがウソは本当になった「まだ頑張れる」って唄ってた ずっとそうやって ここまで来た》《ここが僕のいるべき戦場 覚悟の価値を決める場所 ひとつのウソにさえすがる僕の そのウソが誓いに変わる》(バトルクライ)

実習へ向かう道でバトルクライを毎朝かかさず聴いた。世界一優しいバンドから《優しさでもいたわりでもない戦いぬく勇気を》もらった。この曲を書いた当時の藤原さんが現在の私よりも若かったんだと思うと武者震いがして1日頑張ることができた。

《疲れたら ちょっとさ そこに座って話そうか いつだって 僕らは 休む間も無く さまよった》《何も無かったかの様に 世界は昨日を消してく 作り笑いで見送った 夢も希望もすり減らした》(メロディーフラッグ)

実習から帰る道はメロディーフラッグをきいた。《そこで涙をこぼしても 誰も気付かない 何も変わらない》といいながら《少しでも そばに来れるかい? すぐに手を掴んでやる》と言ってくれる、夕日のようなオレンジ色のあたたかいメロディーが血液に滲んで体を熱くした。
 
 

忘れもしない。2016年2月11日。
23年間のちっぽけな人生の中で過去最高の1日。

バンド結成20周年を記念したライブ『結成20周年記念Special Live「20」』があった日だ。このライブを開催すると発表された日、絶対に行きたい、死んでも行きたいと思った。これから先異性から愛されず結婚できなくてもいいから、とさえ思った。毎日神棚の水を交換し、当選祈願をした。一日十善を目標にした。神様も現金なやつだと呆れたにちがいない。
チケットはものすごい倍率だった。当落発表の日「厳選なる抽選の結果〜」から始まるメールをみるのが本当に恐ろしかった。おそるおそるメールを開くと、厳選なる抽選の結果チケットはご用意されなかった。ライブの翌日は急性期の実習の最終カンファレンスがある日だったし、落選するのも運命だと自分に言い聞かせて抜け殻になりかけていたその時、友達から当選したという電話が入った。駅でうずくまって泣き崩れた。ライブを今までで1番の記憶にしたいと思い、睡眠時間を削ってBUMPを介して繋がった友達に配る手作りの工作物まで作った。

ライブ当日、チケットを持っているファンも持っていないファンも会場につめかけた。この日に感じたすべては私の語彙力では言い尽くせないと思う。Cブロックの一番後ろで聴いたのが逆によかった。コンフェッティも銀テープも光るボールもない。そこにあるのはBUMPの4人が20年間大切に奏でてきた優しすぎる音楽と私が歩んできた記憶だった。
 

《そこに君が居なかった事 分かち合えない遠い日の事 こんな当然を思うだけ ですぐに景色が滲むよ》(R.I.P.)

BUMPともっと早く出会いたかったと考えたことは何度もある。もしもタイムマシンがあるなら2004年5月29日に佐倉市民体育館で行われたフリーライブに行きたい。私を支えるBUMPと分かち合えなかった、彼らに出会うまでのとりもどせない時間。でもその時間があったからこそ、今彼らと過ごす一瞬一瞬がかけがえのないもので、愛しくて、手放し難くて、きらきら輝くのだと思った。BUMPと同じ時代に生まれて幸せ者だと心底思った。

《変わっていくのなら 全て見ておきたい 居なくなるのなら 居た事を知りたい》(R.I.P.)

どのミュージシャンにも離れていくファンはいる。今はもうファンを卒業していてこの場にいないとしても、BUMPの20年に関わったすべてのファンに感謝を伝えているのだと感じた。

《歌い方なんか全然知らなかった あの日の僕に君を見せたい》(R.I.P.)

歌詞かえをした一節である。ファンにとってこれ以上ない言葉だった。生き方なんか全然知らなかった中学生だったあの日の私にBUMP OF CHICKENに支えられている今を見せたいと思った。
 

“生まれてきた曲の期待を裏切りたくないし足を引っ張りたくないんですね。そうすると君たちはもしかしたら時々僕らが君たちの耳慣れないようなちょっとピコピコした音がね入ったりしてるようなね…君たちは確かに不安になるかもしれないよ。だけど、なんでそういうことをやっているかというと…君たちが好きになって、ずっと20年応援してきたミュージシャンだからこそ、そういうことをやっているんです。”

ライブでの藤原さんのMCだ。SNS等で自覚なき加害者が放った「BUMPは変わった」という冷たい言葉が彼らに届いてしまっていることが悲しかった。確かに最近の彼らはしっかり休んでいるのか本当に心配になるくらい活躍している。光の多いMV演出、ライブビューイング、テレビ出演、ラジオ出演、雑誌でのインタビュー。

“分かってほしいんだ。応援してほしくて、それでずっと届く届くと思って信じてやっていて、今まで作ってきた音楽、あとこれから作っていく音楽、全部君に会うために生まれてきました。忘れないでね。これからもよろしくね。”

彼らはどんな思いでファン1人1人に理解して欲しかったのか。喉の奥がつまって嗚咽が漏れた。私の意見は、それこそインディーズ時代から彼らを応援してきたファンからしたら「なんだケツの青い小童が偉そうに」と思うかもしれない。私も思うが、それでも言いたい。一生のうちの勇気の絶対量をもう使い果たしていると言う彼らが、ない勇気をないなりに振り絞って、ファンに曲を届けることを一番大切にしてくれていること、それだけで十分なのではないだろうか。どんな媒体を通しても、どれほどライブの規模が大きくなっても、7万人いれば7万通りのBUMPとファン1対1のライブだ。生きているうちにこの感謝を返していきたいと思った。ライブが終わって満員電車が満員電車ではなくなった頃になっても、余韻が大きすぎて涙が止まらなかった。

「鍵、開けたいですか。俺はかけててもいいと思うんだけど。でも開けたくなる時ってきっとあると思うの。そうなった時ってきっとね、自分で開けるんだよね。俺ら自分で開ける事が出来るんですよ。驚くほど、自然に。」

藤原さんはかつてのあのラジオ番組でこう言っていた。BUMPと出会っていくつもの心の鍵を開けることができた。私が自分の心にかけた鍵を1つ1つ開けることができたのはずっとそばで優しい音楽を奏でてくれた彼らのおかげだ。BUMPと出会っていなければ生きることそのものにこれほど一生懸命になれる自分に出会えていなかった。
優しい彼らはそれでも「それは俺らの曲の中から君らが…君が…あなたが…鍵を拾い上げて自分の鍵の錠前合うとこ探してガチャってやったんだと思うの。」という。
そして鍵を開けた私たちファンのそばで「本当怖かったのにねぇ。本当頑張った。」と背中をさすってくれるのだ。
 

BUMPの音楽にあるのは無責任で根拠のない応援ではない。

私が嫌って沈めてしまった私がいるところまで潜り、呼吸ができるところまで連れだしてくれる優しさ。
出さなくたって大きな声に気づいて、流れ星よりも見たいと零れた痛みを探してくれる優しさ。
優しさの真似事のエゴとして受け取ってくれていいからと、無くさないようにと、伝えてくれる優しさ。
孤独を知ったから孤独じゃないと気づかせてくれる優しさ。
クリスマスに燈の元にいない側の人にあえて火を灯す優しさ。
少し前までは、その時隣にいなくても君の生きる明日が好きだと言っていたのに、今では君の昨日と明日に僕もいたいと言ってくれる優しさ。

宇宙全てを包みこむような、深い、深い、優しさ。
 

《歩くのが下手って気付いた ぶつかってばかり傷だらけ どこに行くべきかも曖昧 でこぼこ丸い地球の上》(GO)

「なんで看護師めざしたの?」と聞かれることがある。《人に説明出来るような 言葉に直ってたまるかよ》と思う。
《怖がりながらも選んだ未来》《選ばれなくても選んだ未来》に向かって、
私自身が作った《忘れられてもずっと光る星空》を支えに、
《思いをひとりにしないように》精一杯生きていきたいと思う。
《ここまで繋いだ足跡が 後ろから声を揃えて》歌ってくれている。
BUMP OF CHICKENの音楽が、いつでも側に、私の中に、1番近くにあれば、この先の私の人生は《擦りむく程度はもう慣れっこ》だ。
現在、私は急性期病院の看護師として働いている。
震える足でも進めるのはBUMP OF CHICKENの存在があるからである。

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい